国境
皇帝が国境に到着すると、先に向かわせた兵士にロギ家の指示した人間も加わり、ギ国からの侵攻をくい止めるための準備が進められていた。
高い山に囲われた大地だが、その一部が途切れてギ国と繋がっている。
ギ国は騎馬民族のため、攻め入るときは必ず馬を使っていた。
馬の足を止めればある程度の数は防げる為、道とは言えない未整備の国境に、岩や柵を使った防壁を築いていたが、進み具合は予想よりはるかに遅れている。
ロギ家は妃を迎えるとの返事を受け取ってから取り掛かったようだ。
不備も多々あり、今のままでは多くの騎馬が壁を超えるだろう。
「少しばかり遅かったようだね」
「でも寝返りは防げたようですよ」
ギ国の侵攻を食い止めるための壁は不備だらけで、急いで作業をしてもあと数日はかかるだろう。防壁を整えるまでギ国が待ってくれるとは到底思えない。
こちらが駄目なら他の国境をと考えるに決まっているが、全ての国境に人員を配置していることもあり、ギ国は戦いに慣れていないこの地を攻めたいはずだ。
「私の躊躇が失敗の原因だ」
ロギ家の寝返りを防ぎ、山間の道を馬が通る為に弓の得意な兵を集めたが、騎馬戦が得意な兵をもっと多くこちらに回すべきであったか。
しかし他の国境を同時に攻められ、総攻撃を受ける可能性もある。大きな軍を持っていても国境全てを同時に守るのは難しい。
「成功ですよ。なにせ陛下の弱点がクユリ様ただ一つになったのですから」
「クユリが私の弱点か……まさにそうだな」
良くない兆候だとウルハには叱られるだろう。と、思ったところで、叱るならとっくに叱られていておかしくないことに気付く。
クユリに捨てられると思い、咄嗟に水に飛び込んでいた。
あれは皇帝としてはやってはいけない行動だった。
仕事を放りだし、濡れたクユリを抱えて翌朝まで後宮に籠った皇帝を、ウルハは責める所か何事もなかったかに迎えたのである。
いつものウルハなら、必ず正論を並べ嫌味を並べて叱りつけていたはずだが、何一つ口出しせずに受け入れていた。
皇帝が威厳を忘れ素を曝すのは許されない。女に溺れて仕事をサボるのは以ての外。この二つは皇帝が皇帝である為には絶対に貫くべき事柄の筈。
それを歪めたのに、ウルハは何一つ文句を言って来なかった。
クユリを処分するつもりかとの考えが一瞬過ったが、そんなことをしては皇帝が皇帝でいられなくなることをウルハなら理解している筈だ。
ギ国と対峙するのに命の危険はつきものだ。もしかしたら死ぬかもしれない。せめてもの情けと何も言わず気を使ってくれたのかとも考えるが、ウルハの最優先事項は皇帝を生かす為なので、皇帝に命の危険が伴うと思っていたら出陣を許さないのでそれも違う。
「陛下、どうなさいますか?」
ウルハの様子がおかしいと、ここにきて気付いた皇帝に、リンが今後の指示を仰いで現実に引き戻してくれた。
今は色々考えるよりも目の前のことだ。
思わず手に入れてしまった玉座だが、就いたからには皇帝としての役目を果たさなければいけない。
クユリとの約束、ロギ家から迎える妃のこと。皇帝の心を悩ませる事柄は多いが、猶予のない今、個人的な希望を叶える為に時間を割いている暇はなかった。
皇帝がここにいる意味は確実に勝つ為だが、しくじればギ国の侵攻は止まらず、都目指して突き進むだろう。
都にはとても大切な、唯一の人もいる。
クユリを守るためにも情は隠さなければならない。
「明後日には軍が到着するが、ギ国がいつ攻めて来るか分からない。防壁の完成を急ごう。もともとでこぼこした悪路だから攻め入られないと高を括っていたのだろう。ロギ家も悠長だが、同様に見落としていた私の責任でもあるな。リンは作業の責任者を探しておくれ」
馬が数頭並べば混雑するような悪路が続いている。
でこぼこした地面や突き出した石に足を取られた馬は、歩みを進めるにつれ使い物にならなくなる。他の攻め入りやすい国境は強固な守りを築いている為、ギ国はここから侵攻しようとしているのだ。
馬を操るギ国だが、走る速さより足腰の強い馬を育てていたのだろう。
皇帝は六年前の戦いを思い出し、できることなら敵味方含め、なるべく死人を出したくないと甘い考えが過ったが、一つ息を吐き出すと意識を目の前にある危機に集中させた。
過去は生きる為に戦った。
これからは守る為に戦う。
そこに人としての情は邪魔にしかならない。
「大鍋に入れた油と火、水の用意も。リン、任せるよ」
「承知致しました」
行けとの指示にリンが馬上で手綱を引くと、皇帝は馬から降りて作業を進める者達へと向かった。
これから身分を明かすのだ。
皇帝として人の前に立てば、人は皇帝にとって盤上の駒となる。
冠、玉座、従える重臣。
それらを纏わない今、皇帝は内からの覇気だけで駒を従えなければならない。
小さな不安や躊躇は亀裂となって大切な時に大きな割れを生む。
名を呼ぶ声がした気がしたが、皇帝は残る甘えを振り切るように固く目を閉じ、再び瞼を開けた時には、まるで別人のような鋭く冷たい、しかしながら人の心を射貫く、強烈で、一目見たら忘れられない印象を纏って一歩を踏み出した。




