クユリ飛び込む水の音
ギ国がレイカン国に攻め入る準備をしている。
皇帝は侵攻を未然に防ぐため、ギ国が戦いの準備を進める国境に行くことが決まった。
もしギ国が攻めて来たら、皇帝が先陣を切って国境を超えるそうだ。
リンによると皇帝の戦い方は相手に恐れを与えるので、その場で戦意を削ぐことが出来れば簡単に決着がつくらしい。
なんと、まだ成人していないリンまで皇帝に同行するという。
驚くクユリにリンは、『クユリ様は大人しくしていてくださいね』と釘を刺したが、読書が趣味のクユリにそこまでの行動力はない。
ウルハは西の領主、ロギ家の寝返りを阻止する為に、ロギ家から妃を迎える準備を通常の業務に並行して進めている。
皇帝は新たな妃を迎えるのは一時的で、早々に解決し妃をロギ家に帰すつもりでいるが、一度迎えた妃が大人しく実家に帰るなんてクユリは思っていなかった。
重要地を治める実家を盾に、絶対に居着いて離れないと予想している。リュリュ妃のようにできた妃であっても、後宮入りして直に出されるのは屈辱に決まっていた。
クユリは覚悟を決めなければと己に言い聞かせる。
皇帝が都にいない間はウルハが皇帝の代わりに政を担い、クユリは安全な宮殿内で変わらず補佐をするのだ。
皇帝とリンが戦場に行くのに、妻であるクユリは安全な場所で傍観とは複雑だ。
何もできないと分かっていても複雑なのだ。
皇帝の妻なのだから、色々な不安があっても乗り越えるしかない。
分かっているが、新たな妃を迎えるとなり心は穏やかではない。
何もかもが上手く行けば妃は妻に昇格しないまま実家に帰されるが、一度受け入れた妃を後宮から出すには理由が必要だ。ロギ家との兼ね合いもあり簡単ではない。
いったいどうするのだろう。
皇帝はロギ家の娘が後宮入りする前に決着をつけようとして、好機を待たずに無理して戦うつもりではないだろうか。
不安ばかりが押し寄せる。
クユリは茜色に染まる空の下、小川の淵に立って後宮の外を睨み付けていた。
視線の先には多くの人間を従える皇帝の姿。
たった一本の、大して深くもない、流れも穏やかな小川に世界は阻まれている。
女を閉じ込める後宮と外界を阻む小川は、まるで生と死の狭間にある川のようではないか。
皇帝はクユリに気付いて目元を緩めたが、皇帝としての立場を崩せないので他に反応がない。
ああ、やっぱり手の届かない人だったのかなと心が弱くなりかけて。
「そんなことはない」
と、決意するように己を励ますと、手の届く人だと実感する為に、クユリの足は小川の流れを捉えた。
一歩踏み込むと水の底に足が沈む。
また一歩、もう一歩と流れを横切り、小川の向こうにいる皇帝を目指す。
小川の向こうには皇帝以外にも沢山の人がいたが構わずに足を進めた。
クユリは妃に相応しい衣を着て黒髪の鬘を着けている。誰がどう見ても皇帝の妃で、その妃が許されない境を超えようとする様子に誰もが目を見張った。
妃が許しなく後宮を出ることがあってはならない。ミレイ妃は禁を破ったとして後宮を追われた。それを忘れてはいないが、クユリはリンやウルハのように皇帝の隣に立ちたくて、邪魔な何かを振りほどくかに小川の深みに足を進めて行った。
「クユリ!」
皇帝からは非難の声が上がり、耳にも届いたが右から左だ。
まるで何かにとり付かれたようにクユリは足を前に進めた。
頼るものがないのでふらつくが、それでも前に突き進む。最も深いところはクユリの胸まであるが、泳ぐように水をかき分け突き進んだところで何かにぶつかり、ぐいっと体を引かれて持ち上げられた。
「何をしている、正気なのか!?」
怒声が頭に響いた時には目の前に皇帝の焦った顔があった。
焦りだけではなく怒ってもいる。
皇帝は腹まで水に浸かっていた。
クユリを子供のように抱き上げ、見事な衣装がずぶ濡れになってもいた。
しかしそれに構った様子はなく、きつく眉を寄せてクユリを抱えたまま水の中を歩くと、後宮側の岸へとたどり着く。
乾いた土に二人分の水が零れて瞬く間に大きな水たまりを作った。
「これは私への罰かい?」
怒っていた皇帝は泣きそうな顔になってクユリの後頭部に手を添えると、己の肩に乗せるように抱き締めた。言われた意味が分からなかったが、クユリも皇帝の濡れた背に手を伸ばして抱き締め返す。
「陛下は……水が怖いのでは?」
そうだ。皇帝は水が怖かった筈だ。特に流れがある場所は苦手だと言っていた。
クユリが溺れても助けに行ける自信がないと項垂れていたのに、溺れてもいないクユリを抱いて川を渡っていた。
「そなたに捨てられそうになったのだ。水が怖いとか構っていられるものか」
「捨てられそうに?」
「多くの目撃者がいる中、女の姿のまま後宮から出ようとした。これだけの目がある以上、渡りおおせたら庇いきれない。そなたを後宮から追い出すのは嫌だ」
絶対に嫌だと、皇帝はクユリを抱く腕に力を籠める。
「他の方に命じればよかったのに」
「そなたに捨てられると思ったら咄嗟に足がでていた」
「水、怖くありませんでした?」
「考える間もなかったよ」
「そうですか」
クユリはびしょ濡れの背をぽんぽんと叩く。
「わたしは陛下の側にいたかったのです。邪魔な隔たりを失くしてしまいたくて、気付いたら川に入っていました。驚かせてしまってごめんなさい。決して逃げ出そうとしたのではありませんからね」
「そうか。それなら良かった。私はてっきり――」
クユリは皇帝に抱き締められ、抱き締め返しながらなんてことだと天を仰ぐ。
自分のせいだが、妃に縋る皇帝図を多くの人間に曝してしまった。
後宮の女達が見ていなければいいなと思うが、恐らくどこかで目撃されているだろう。そうでなくても小川の向こうには多くの人間がいる。その誰かが今回の出来事を誰かの耳に入れてしまえば、皇帝の威厳が僅かにも削がれてしまうだろう。
大反省である。
ウルハに叱られるのは覚悟せねばなるまい。
現に対岸では腕を組んだウルハがじっとこちらを窺っているのだ。
それでもと、クユリは張りつめていた心の緊張がほぐれたのを実感した。
何よりも恐ろしい、皇帝の唯一の欠点とも言えたであろう水への恐怖。
しかし今現在皇帝が恐れているのは水ではなく、クユリがいなくなってしまうことらしい。
何てことだ。
皇帝は水に飛び込むよりも、クユリに捨てられる方が恐ろしいとは。
いったい自分は何者だと自問自答してしまう。
クユリは皇帝を不安にさせただけでなく、びしょ濡れにさせてしまい大変申し訳なく思った。反省もしているが……それだけ愛されているのだと思うと、とてつもなく嬉しく。
同時に悲しくて。「ごめんなさい」と、もう一度だけ謝罪を口にする。
皇帝の肩に顔を埋めて抱き付くクユリを、対岸のウルハが無言無表情で眺めていた。