仕方のないこと
何かが変だとクユリは思っていた。
いつも側にいたリンがいない。厳しいウルハからは棘が向かって来ないし、恒例となっているウルハの皇帝に対する嫌味もなかった。
仕事を終えてこっそり後宮に戻ったクユリは一人で着替えを済ませると、毒入りかもしれない夕餉に手を付けずに放置する。
リンがいないので食事は戻る前に官職用の食堂で済ませて来たが、このような時の為に保存食を隠し持っているので空腹になることはない。
夜になると皇帝がやって来た。
最近は忙しそうにしていて訪れがなかったが、異変を感じていたクユリには皇帝がそろそろ説明に来てくれるだろうとの予感があったので、時間つぶしに広げていた本を閉じて皇帝を迎える。
迎えた皇帝の表情は硬かった。
「何かありましたね?」
「クユリ――」
膝をついた皇帝が頭を下げたのでクユリは驚いた。
「何をして!?」
「すまない。そなたとの約束を違えることになった」
「約束って……まずは顔を上げてください!」
「本当にすまない」
「陛下ぁ~っ!」
額を床につけようとする皇帝の顔を両手で掴んで上に向ける。いくら対等だと言っても皇帝を土下座させたくはない。額が床に付くのを阻止する為にひざを突き合わせると、皇帝は土下座するのをあきらめ、床に正座したまま項垂れた。
「ウルハ様もおかしかったです。いったい何があったんですか?」
「ギ国が侵攻してくるかもしれないのだ」
「ギ国が……それでリン様がいないんですね?」
「リンは身軽だからね。真偽を確かめに行かせている」
身軽と言ってもまだ成人していない子供だ。攻めて来ようとする国に行っているのは心配だが、既に行ってしまったので何を言っても仕方がない。それについては黙っておく。
「リン様を行かせたことを謝っている訳ではないのでしょう。いったい何に対しての謝罪ですか?」
問えば皇帝は膝の上で拳を握りしめた。
よほどのことがあると察してクユリも身を硬くする。
「新たに妃を迎えることになった」
「え?」
お妃様を?
後宮からお妃様を追い出して、最終的には後宮閉鎖を目論んでいるのにか?
クユリが首を傾げると、皇帝は「すまない」と再び謝罪の言葉を口にした。
「ロギ家は知っているかい?」
「はい。西の領地を治める家です。豊かな大地で穀物の生産はレイカン国一の……」
言いかけてクユリは気付く。
ロギ家が管理する地帯は国境に面しているだけでなく、その国境の一部がギ国と繋がっているのだ。もしロギ家の治める一帯がギ国の手に渡れば、レイカン国は大きな台所を失うだけでなく、攻め込みやすい境界線を明け渡してしまう事態に陥ってしまうではないか。
「ロギ家を寝返らせないために必要なのですね?」
「ありもしない罪状を擦り付け、ロギ家を処分することもできるが……」
「冤罪で陥れるのは陛下らしくありません」
「その通りだね。綺麗ごとかもしれないが私にはできなかった」
ウルハ辺りは提案しそうだが、ありもしない罪を擦り付けて陥れるやり方は皇帝らしくない。世間にはいかに恐ろしい皇帝であるかを示すのは必要かもしれないが、実際に罪のない人を処分するのは良くないことだ。皇帝がその道を選ばずにいてくれてクユリはほっとする。
「お妃様を迎えるのは分かりました。国を守るのに必要なのですから、陛下がわたしに謝罪する必要はありません」
「しかし私は、そなたをただ一人の妻とする約束をしたのだ」
成程。
この期に及んで妃を迎えるのは、ただ迎えるだけではなく、妻として迎えるという意味か。
うん、そうだよなと、理解したクユリは小さく溜息を落とす。
現在の後宮がどのような状況なのか貴族たちには広まっているだろう。皇后の最有力候補であったミレイ妃が後宮を出され、続いて最も長く仕えたリュリュ妃まで。後宮縮小の勢いは止まることがなく、解体の噂が出ていてもおかしくない。
そこに重要な地方に住まう家の娘を妃として迎えるのだ。
これまでのようにただ後宮に住まわせるだけではない。
新しい妻になるのだと知って、クユリは零れそうになる何かをぐっと堪えた。
「わたしは後宮を出されるのですか?」
「それは駄目だ、絶対に出さない。そなたは私の唯一の妻ではないか!」
声を荒らげた皇帝が縋る様にクユリの腕を掴む。
いつもは優しい皇帝が鬼気迫る勢いで、手加減なしに腕を掴んだものだから痛みでクユリの眉が歪んだ。
「ロギ家より妃は迎える。だが一時的で済むよう努力する。リンが持ち帰った情報で侵攻が事実と判明したなら、侵攻拠点の国境に出向き敵を迎え撃つ」
「陛下自らが出陣なさるのですか?」
「驕りがある訳ではないが、被害を最小限に抑える為には私が出るのが一番なんだ」
「そう……ですか」
クユリは腕を掴んだ皇帝の手を引き剥がすと、手に取ってじっと見つめた。
とても大きな手だ。掌は固い。体には沢山の傷跡があって、皇帝がどのような場所で生きて来たのかを窺わせていた。
行くなとは言えない。
皇帝のこの手がレイカン国の民を守るのだから。
「わたしは陛下がどのように戦い、強いのか知りません。でもウルハ様が陛下の出陣を止めないのであれば、それが最善なのだと思って受け入れます」
「クユリ。約束を果たせるよう最善の努力をするから、どうか私から逃げないでおくれ」
「皇帝の職に就くギョクイ様を好きになってしまったのですから、ある程度は仕方がないと分かっています。わたしのことは大丈夫です。看取り看取られると約束しました。二人目の妻を迎えることになっても大丈夫です。だから無事に帰ってくることを約束してください」
まだ正式に決まった訳ではないが、ほぼ確定だからこそ話してくれたのだ。
妻として、国を治める夫の邪魔になってはいけないと、クユリは虚勢を張る。
この次の夜、リンが戻り、ギ国の侵攻が間違いないことが明らかになった。