恐れ
ウルハにせっつかれて息苦しさを覚えたが、実際に皇帝と顔を合わせても負の感情や感覚はない。それどころか安堵の息が漏れる始末だ。
皇帝も同じだったのか、クユリの顔を確認すると安堵の表情を浮かべていた。
「昨日は濡れてしまったが、あれから体調はどうだい?」
「わたしは平気でした。陛下はどうですか?」
「私も平気だよ、体は丈夫なんだ。それよりもそなたは前に一度熱を出している。本当に何ともないのかい?」
皇帝がクユリの額に手を当て熱がないか確認する。途端に顔が近付いてクユリの頬が染まった。
「熱はないようだけど顔が赤いね。戻って早々仕事をしたようだし、そなたは無理をし過ぎだ」
「お役に立てると嬉しいです」
「後宮に籠って本を読むのも楽しいのではないか?」
「陛下のお役に立てる方がずっといいです」
「そ……そうなのかい?」
皇帝まで頬を染めて視線を逸らした。
そういえば過去にも皇帝がこうして目元を染めたり、視線を逸らしたことがあったと思い出す。再会してからそれほど時を置いていなかったような……皇帝はあの頃から好意を寄せてくれていたのか。
クユリは皇帝に『女性として好いているのか』と訊ねたことがあったが、あの時の皇帝は『すまないね』と、肯定と同時に謝罪をしたのだ。
自分のようなものが好きになってすまないと、クユリの人生を曲げてしまって申し訳ないと謝罪して、けれど心を偽らずに告白してくれた。
あの時、クユリは皇帝の気持ちを嬉しいと感じることが出来た。今もそうだ、変わらずに嬉しい。
またリュリュ妃の元に通ったと知って大きなショックを受けた。
それは多分、皇帝の気持ちを信じて裏切られたような気持になったのと同時に、皇帝の心は自分にあると無意識に胡坐をかいてしまっていたからだ。
皇帝は何処をどうしても皇帝であり続けなければならない。
過去の出来事のせいで後宮が嫌いで、育ちのせいで妻を一人と心では決めていても、いつかは皇帝としてクユリ以外の妃と男女の関係になる日が来るかもしれないのだ。
その時クユリは、果たして皇帝を変わらぬ笑顔で迎えることが出来るだろうか。
ふと考えた途端に熱が引いた。
こそばゆく感じていた感情が消えて不安に陥る。
淡い心が弾けて、じくじくと痛みを覚えた。
ギョクイと言う男性はクユリの最も側にいる人だが、皇帝としての仮面を付けなければならない時は多々ある。その仮面をつけて後宮の妃に会わなければならない時が、この先にないとは言えない。
皇帝を好きになるということは、将来に覚悟を持っていなければならないということだ。
「クユリ?」
顔色を悪くしたクユリに気付いた皇帝が、どうしたのかと問うように身を寄せる。クユリは皇帝の袖を取って額をすり寄せた。
「陛下。わたしは陛下のことが好きです」
「クユリ?」
急な言葉に皇帝は戸惑っているようだが、クユリは何と言っていいのか分からない。
好きだとの言葉は皇帝の好意に応えるものだ。しかしクユリの態度からは甘さが感じられないのだから、言われた皇帝も戸惑うだろう。
クユリも戸惑い恐れを抱いた。
たった今気が付いたのだ。
異性に好意を寄せ、その人に別の女性が現れるかもしれない可能性を。
嫉妬という醜い感情が自分にも現れるかもしれないことを。
そしてその嫉妬が向かう先は、もしかしたら幼い皇帝が受けたそれと同じものになってしまうかもしれない危険性を孕んでいることを。
「先帝のお妃様方は、先帝に好意を寄せていたのでしょうか。権力の為だけに生きていたのでしょうか」
権力の為に鬼の所業に出たのならクユリには関係ないが、もし男女の感情がもつれてのことであったなら、クユリにも起きるかもしれない未来だ。
「どうしたんだい、何を不安に思う。私が恐ろしい話をしたせいかい?」
「わたしは妃になることをあまりにも軽く考えすぎていたようです」
古書殿の本に釣られ、何も考えずに食らいついた。将来を誓ってくれる皇帝の言葉を嬉しく感じて受け止め、共に生きるのだと思ったりもした。けれど――夫になる人が皇帝であることを忘れていたような気がする。
「何を言い出すかと思えば。私がそなたを好きになり、そなたは古書殿の本に惹かれた。確かにそれがきっかけだが、きっかけがなければ何も進まない。逆にきっかけさえあれば簡単になることもある。私はそなたを得られたこと、とても嬉しく思っているよ。私にとっては幸いだ。軽く考えすぎたなどと言わないでおくれ」
皇帝が身を屈め、宥めるように言い聞かせるが、クユリは納得がいかずに首を振った。
「だけど、わたし。こんなに恐ろしいことだなんて思わなかったんです」
「恐ろしい?」
「いつか陛下を池に沈めた女達と同じになるのではないかと……そう思うと不安です」
権力が欲しくて皇帝の側にいるのではない。もとは古書殿の本が目的だった。けれど皇帝の側にいたいと気付いたのだ。
皇帝のどこをどのように好きになっていたのか、的確に答えることはできない。それでも確かに皇帝が好きだとクユリには分かった。
側にいるのが心地よくて、リュリュ妃の元に通ったと知って頭を殴られたような気持になって落ち込んだ。自分を守る為にリュリュ妃の元に通うのが正しいと思ってみたりもしたが、結局は皇帝への想いがあるからこそ絞り出した慰めのようなものだった。
「そなたがあのような行いをするはずがない」
大丈夫だと皇帝の手がクユリの肩に伸びたが、心を見透かされそうで咄嗟に身を離した。しかし皇帝は逃がさないとばかりに素早くクユリの手首を取る。
「たった今、そなたは言ったね。私を好きだと、確かにそう言った」
問われ、クユリが頷くと皇帝も頷く。
「私の妻はそなただけだ。決して他の妃を妻にはしない。嫉妬されるのは私を好いてくれる証明だから嬉しく思うが、私はそなた以外を妻には決してしない。そなたが恐れる未来はやって来ないよ」
両の手首を掴まれたまま皇帝を見上げていると、顔が近付き唇が重なった。
あっと思って一拍、ゆっくりと離れて行く。
クユリは驚いて瞳を瞬かせ、真面目な表情の皇帝を凝視した。
「そなたの夫が私一人であると同じように、私の妻はそなた一人だ。いいね?」
仄暗い部屋の中、真っ直ぐに見つめられる。
お互いにただ一人。あくまでも対等だと皇帝は告げる。
クユリは皇帝が皇帝であることを知りながらも、宣言する声に釣られて視線を外さずに頷いた。
「役目ではなく、本当の妻として一生を添い遂げて下さると?」
「その通りだよ。私はそなたを看取ると約束した。もし私が先に死んだらどうするのか、覚えているかい?」
「わたしが陛下を――ギョクイ様を看取ります」
「そうだよ。絶対に、約束だ」
額を合わせて微笑む皇帝に頷けば、拘束するように掴んでいた皇帝の手は呆気なく解かれ、クユリの指先が皇帝の頬に触れた。
「絶対に、ですね?」
「絶対だ」
世の中に絶対はない。
けれどクユリと皇帝は互いに絶対と信じて手を伸ばし合う。
しかしながらこの二月後、後宮に新たな妃が召されることが決定された。




