戸惑い
思わぬ一夜を過ごした鷹狩から戻って早々。
官服に着替えたクユリは後宮を出て仕事場を目指しながら、人生初の悩みに意識を取られていた。
これまで好みの場所はと訊ねられたら迷いなく『本のある場所』と答えていた。
それは宮殿にある古書殿であったり、町の古本屋であったり、露店に並ぶぼろぼろの本であったり、時に学問を学べる場所であったり。
クユリにとって行きたい場所、興味のあるところは将来に役に立つであろう、あらゆる知識を得られる場所だった。
見知らぬ場所をただ歩くだけでも学びにつながる。
とにかく知識が欲しくて……それがクユリと言う人間だったのだが。
ここ最近は皇帝と肩を並べるだけで楽しいと思うようになった。
皇帝と一緒にいると知識だけではなく、皇帝に対して興味が惹かれることに気付いた。
皇帝の何に、どこに惹かれるのかクユリ自身分からないし、気付いたことによって戸惑っている。
何故かといえば、それが書物で得た知識の『恋』であるような気がしてならないからだ。
もしこれが恋だとして、心が皇帝に向いたのだとして。
妃としての役目を果たすべき時が来たと喜ぶべきだろう。ウルハに報告したらどんな顔をされるか興味がない訳ではないが……ウルハにも、まして皇帝にも報告するのに躊躇が生まれるのはどうしてなのか。
胸に手をあて考えてみると、恥ずかしいとか、照れるとか、色々な感情が入り交じっていた。
鷹狩に行った折に雨に降られ、皇帝の想像以上に辛い幼少期の出来事を知ってしまって同情したのかと思ったが、皇帝自身はトラウマになりながらも、過去の事として受け止め悲嘆に暮れているわけではない。そんな皇帝にクユリも同情はしていない。
ただ、過去に起きた出来事が酷いと思う。
幼い子供に非道をした女達が理解できず、腹が立って悔しかった。
後宮女性の集団心理、抵抗できない子供で憂さ晴らしする、それをおかしいと思わない環境。
ウルハは無駄だから後宮をなくそうとしているが、その無駄に金銭以外のものが含まれるのは、クユリの思い過ごしではないだろう。
卵をぶつける悪戯の類ではない、死んでも構わないとの闇に落ちた虐待だ。皇帝が生きていたのは奇跡かもしれない。
皇帝が生きてくれていて本当に嬉しかった。同時に、幼い皇帝に非道をした女達を許せないと思った。
この怒りが『恋』という未知の感情に繋がったのだろうかと思うが、知るきっかけになったにすぎないように思ったりもする。
「愛や恋っていったい何なのかな……」
昨夜の雨は夜半に上がった。
クユリは朝まで皇帝と身を寄せ合い、抱き締め合って山小屋で過ごした。
男女が二人気きりで身を寄せ合っても夫婦なので問題はないが、護衛が朝まで姿を現さなかったのは気を使われたようで複雑な心境だ。
なにしろクユリと皇帝の間には未だに何もないのだから。
男女の関係について初心者であるクユリにはどうしたらいいのか分からない。ウルハにせっつかれた方が百倍よかったと今更ながらに思う。
一歩目を踏み出してその後が思い切ってできなくなった状態だ。まさに二の足を踏むである。
俯いて溜息を落とし、「どうしたものか」と呟きが漏れた。
そんなクユリの前に何者かの爪先が映り込む。
顔を上げると荷を抱えたウルハが立っていた。
「何やら考え込んでいるようですが如何しました?」
「つかぬことを伺いますが、ウルハ様は女性に懸想したことがありますか?」
「ある訳ないでしょう」
馬鹿な質問をするなと冷たい視線が向けられたが、真剣に悩んでいるクユリは視線に負けることなく話を続けた。
「ウルハ様は結婚して子孫を残そうとは思いませんか?」
「私如きが血を残す価値を見出せませんので思いませんね」
「価値がないって……ウルハ様は一財産築いていますし、それを譲りたいから子供が欲しいと思ったこともないのですか?」
後宮から出されたクユリは一時ウルハ預かりとなり、彼の家に居候したこともあった。
豪華絢爛ではないがそれなりに立派な家を持っているし、貴重な書物や資料も揃えている。ウルハの子なら優秀なような気もする。なにより結婚して妻を得るのは男の甲斐性のような風習もある。
結婚していない男は何かしらの問題があると噂されたりもする。ウルハの場合、皇帝の側に仕えているので金銭的には余裕だらけだ。そこで妻も子供もいない、妾もいないとなると下世話な噂だけが流れるだろう。
「女は煩く面倒です。ですがそうですね。あなたのように頭が良く邪魔にならない、逆に利益になる存在であるなら考えないこともありません」
「わたしのようにって、この程度いくらでもいるでしょうに」
「いませんよ。だから私の側で働ける人間は少ない」
ウルハの場合は相手を信用していないというのもあるだろう。
皇帝から話を聞いて、ウルハが人を寄せ付けない雰囲気を醸し出しているのは、一種の防御であるような気もしてくる。
「ウルハ様は厳しすぎますから。もう少し嫌味をなくして言葉を柔らかくしたら、お眼鏡に適った部下が逃げずにいてくれるのではないでしょうか」
「私の眼鏡に適い現在生きているのは、あなたとリンくらいですね。他は使える部分があるから置いている程度です。時に使える部下であるクユリ――」
ウルハは抱えた荷物をクユリに押し付ける。
「嘆願書の整理です。過去に受け付けた嘆願は頭に入っていますね。照らし合わせて初めての嘆願のみ抜き出しなさい」
「承知いたしました」
国中から集まった嘆願なのでかなりの量がある。過去五年分の嘆願書はクユリの頭の中に記憶されているので、過去に採用または却下された案件は跳ね退け、新規の分にだけウルハが目を通すという意味だ。
「クユリ」
「はい」
荷物を抱えて行こうとしたら呼び止められる。
「もし、本日中に終わらなければ明日に持ち越して構いません」
それは残業せずに後宮に戻って皇帝の相手をしろとの意味だ。
せっつかれてしまった。
ウルハにせっつかれるのを望んだが、実際にそうなると、周りの空気が途端に薄くなったような気がして息苦しさを覚えた。