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皇帝の傷



 雨音が激しくなり辺りも暗くなってくる。

 沈黙に耐えきれなくなったクユリは視線を外す言い訳に天井を仰いだ。


「雨、止みそうにありませんね。他の人達は大丈夫でしょうか」

「特に危険な場所でもない。皆も避難しているだろう」


 皇帝と離れているからとて、案じて捜しまわるような場所ではないのだ。遠くで雷の音もしてきたし、このまま夜を迎えるかもしれない。


「鷹狩に誘ったばかりにこんなことになってしまって悪かったね」

「陛下って後ろ向きですね」

「後ろ向き?」


 意外そうに首を傾げた皇帝に、クユリは頬を綻ばせた。


「何事も経験ですよ。鷹狩に誘って貰えて陛下を更に知ることが出来ましたし、雨が降ってもこうして避難したので大して濡れていません。鷹狩も、山小屋への避難も知識としてはあっても、経験するのとでは雲泥の差です。別に命の危険に曝されている訳でもないのに、嫌だなんて思いませんよ。それどころか色んな経験をさせてもらえて感謝しています」

「成程。そなたは難儀なことも良い経験と前向きに考えるのか」

「陛下だって、いつも後ろ向きに考えてばかりではありませんよね?」

「そうだね……」


 皇帝は考えるように外へ意識を向けた後、ゆっくりとクユリに向き直る。


「水が怖いのも、そのように思えたら良かったのだろうね」

「聞いても構いませんか?」


 これは聞いて欲しいのか、そっとしておいて欲しいのか。

 分からず問えば、皇帝は薪を火に入れながら「とても小さな頃のことだよ」と話を始めた。


「私の母はとある妃に仕える侍女だった。仕えた妃は皇女しか産んでいなくてね。先帝の手がついた侍女は大勢いたのに、男子を産んだ母に妃の嫉妬心が向いたようだ。当然それは私にも向く。私は物心ついた頃から後宮の女性達が恐ろしかった」


 物心ついた頃と言えば、三つか四つだ。

 小さな子供にとって大人が向ける負の視線は怖くて当たり前だろう。特に後宮という特殊な環境では。

 妃が望むのは皇帝の血を引いた男子だ。女子もいいが、権力を得る為には皇子を産まなければ話にもならない。

 妃に皇子がいないのに、側に仕える侍女が皇子を産んだとなれば醜い嫉妬も生まれるだろう。継承権がないに等しくても、嫉妬の念を向けられることは予想がつく。


「ある日、私は後宮にある池の一つに沈められたのだよ」

「池に?」


 そうだと皇帝は頷いた。

 後宮には広い庭がいくつもあって、そのほとんどに池が設えられている。皇帝が沈められたのはそのうちの一つだが、どれだろうかとクユリは後宮の地図を頭に描いた。


「沢山のこいが泳ぐ、子供でも足の届く池だ。そこにお妃の命令で沈められた。逃げようとしても沢山の女の手が私を押さえるんだ。悲鳴を上げても水が、水に漂う泥が口に入り込むだけでどうしようもなかった。そのまま意識を失くしてね。気がついたら母が泣いていた」


 皇帝は一つ息を吐くと、クユリから視線を外して薪を一つ囲炉裏にくべる。


「あの時から私は水が怖くなった。当初は顔を洗うのも怖くてできなかったけど、今は風呂にも入れるよ。ただ、やはり川や池といった場所は恐ろしくて足をつけられない」


 そんなトラウマがある場所に、皇帝を盥に乗せて送り出したウルハも相当なものだなとクユリは呆れる。


「後からウルハが助けてくれたと知った。ウルハとはその時からの付き合いだ」

「えっ、ウルハ様が後宮にいたのですか?」


 後宮にいる男は皇帝か、皇帝の血を引く子供だけだ。そこにウルハがいたということは、ウルハも先帝の血を引いているということになる。

 驚くクユリに皇帝が「ウルハは先帝の子供ではない」と首を振った。


「ウルハも私と同じ後宮で生まれたが父親は先帝ではない。用事で外に出た時に心通う男との間に出来たようだ。ウルハの母は私の母よりさらに低い身分だったので、そのまま捨て置いても良いとされていたのだよ」

 

 以来ずっとウルハは皇帝と行動を共にしているという。

 ウルハは皇帝の三歳年上だ。皇帝が池に沈められたのを助けたのが子供のウルハだったとは……主である妃に疎まれるのを恐れたとはいえ、子供を殺しかけて誰も助けようとしないとは腐りきっているとクユリは唇を噛んだ。


 史実として知ってはいたが、後宮とは本当に恐ろしい場所であると実感する。

 クユリも子供の頃から虐められたが、手を出すのは同じ子供たちで、大人から虐待を受けたことも、殺されかけたこともない。

 ぞっとして声を失くしたクユリに皇帝が力なく微笑んだ。


「恐ろしい話をしてしまったね」

「いいえ、いいえ!」


 クユリは必死で首を振る。

 幼いクユリが虐められているのを見て、皇帝はどんな思いで礫を投げたのか。投げた礫が守ろうとしたクユリに当たってしまい、どんな気持ちになっていたのか。


「陛下は皇帝になって、その人たちに復讐したのですか?」

「復讐なんてそんな。彼女達は後宮を去っていたし、相手は女性だ」


 クユリは意地悪をされても命の危険を感じたことはないが、皇帝は命の危険に曝された過去がトラウマとなって苦しんでいる。

 しかし皇帝は、人の暴力に曝され苦しんだのに、穏やかで優しい本質を変えることがない。


「後宮が嫌いで当然です。むしろ行かなくていいですよ!」

「今はそなたがいてくれるから大丈夫なのだよ」

「それでもっ、陛下には後宮を嫌う立派な理由があります。あんな場所、なくしていいと思います!」


 水に沈められただけではなく、他にも命の危険に曝されたに違いない。だから皇帝は後宮を出て遠いファン家に身を寄せたのだ。ウルハだって同じような目に遭っていたに違いない。小さな子供が互いに寄り添い、励まし合って、力を合わせて生きていたのだと思うと涙が滲んでしまう。


「クユリ、悪かった。私が悪かったよ」


 途端に皇帝がクユリを抱きしめた。

 広い胸に顔を埋めたクユリは「いいえ、悪くありません」と首を振る。


 人にはそれぞれ運命がある。

 天寿を全うする人、途中で死んでしまう人。様々なことを呪いながら生きる人に、クユリのように悩んでも仕方がないと見切って前に進む人。

 全ては自分の思い方次第、生き方次第だと思っていた。

 クユリの置かれた立場に同情する人もいるだろうが、クユリ自身が何でもなければ楽しい人生に変わると。

 けれど皇帝の幼少期はクユリの胸を抉った。

 悲しいと思った。

 皇帝を助けたのが大人ではなく、力のない子供のウルハだったことも衝撃だった。

 その皇帝を盥に乗せたウルハの行動も、鬼畜のようではあるが、深い考えのもとにあるのだと思うこともできる。

 皇帝は生き残って皇帝となり、ウルハは生き残る為に皇帝を支え続け、恐らくウルハ自身も年下の皇帝に支えられて成長したのだろう。

 クユリは皇帝と自分では背負っているもの、経験がまるで違うと実感し、皇帝の胸に額をすり寄せた。


 見ると聞くのではまるで違う。

 当事者だった皇帝はどれほどの恐怖を覚え、身も心も傷つけられたのか。クユリは想像するだけで悔しくて悲しいのに、皇帝は話をしたことを謝罪するのだ。


「わたしは陛下のことをもっと知りたいです。だから口を閉ざすのはやめてください」


 怖がらせるからと気を使って欲しくない。か弱い女と決めつけて守ろうとしないで欲しい。そう願うからには、皇帝と釣り合う強い女にならなくてはいけない。

 クユリは目尻に滲んだ涙を拭って顔を上げた。






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