からくり箱
使用人用の通用門をいくつも潜って宮殿の外に出る。ミレイ妃の側仕えとして後宮に入ってからはじめてのことだ。
傍らには皇帝陛下。
動きやすい簡単な衣に身を包む皇帝は、着慣れた感があって決して無理をしていない。お忍びではなく、まさに平民の一部に溶け込んでしまう雰囲気だ。
幼い頃に出会った頃の記憶が蘇った。
体つきも年齢も、そして生きる世界も様変わりした皇帝の手がのびてクユリと手をつなぐ。
「惚れてもらえるよう励むから、そのつもりでいて欲しい」
クユリは繋がれた手をじっと見つめた。
確かに言った、惚れさせてほしいと言った。クユリも皇帝を好きになって、本当の夫婦になりたいと思った。巷の男女のように交際から始めてみようと提案したのはクユリなのだが……繋いだ手から伝わる温もりのせいで恥ずかしさがこみ上げる。
見上げると皇帝は正面を向いたまま顔を赤くしていた。クユリの為に学んだことを実践しようと必死なのだと分かって、少しだけ恥ずかしい気持ちが落ち着いた。
皇帝として玉座に座った時は神々しいというか、近寄りがたいというか、手を出してはいけない鋭利な空気に包まれていたのに、普段は皇帝らしい威厳がまるでない。敢えて優しい雰囲気を出しているのではなく、こちらが本来の皇帝……ギョクイなのだ。
皇帝としての衣装は彼に似合っているが、一般人でも袖を通せる範囲の衣も見事に馴染んでいる。皇帝としての期間よりもクユリと変わらない生活をしていた時間の方が圧倒的に長いのだから当然かもしれない。
そんなことを考えているとなんだか嬉しくなって、恥ずかしい気持ちがすっかり消えた。
クユリは皇帝の隣に並んで歩き出す。
「ときめき編はありますか?」
「たとえ芝居でもそなたを襲わせるなんてできないよ」
「ありがとうございます」
調子に乗って色々口走ったが、今思えば取り消したいことばかりだ。けれど皇帝はクユリの為に実行してくれている。今更中止はできないと理解したクユリは、繋がれた手に少しだけ力を込めた。
「とても楽しみです!」
感謝の気持を込めて、心のままに告げる。すると皇帝はクユリを見下ろして、目尻を下げて「頑張るよ」と返事をした。
宮殿の周りは立ち木に囲まれているが、少し歩くとにぎやかになる。
皇帝がギ国を退けた際、徹底的に相手を叩いて完敗させたお陰で、今のところ敵が攻めてくる気配がない。政も順調で異国との取引も盛んにおこなわれていることもあり、そこに戦いの不安がなければ国はますます発展して豊かになるだろう。
皇帝はクユリと手をつないだまま、街の喧騒に包まれて嬉しそうにしていた。
「久し振りにこの音を聞いた」
「陛下は城下に出ることがあるのですか?」
「時々ね。守るべき世界をこの目で見たい思いが強くて、ウルハも良いことだと認めてくれている。勿論身分は秘密にしているよ」
「あ、すみません。気を付けますね、ギョクイ様」
ついいつものように呼んでしまったが、それでは皇帝であることが露見してしまう。混乱もあるが、皇帝が皇帝として見られてしまうと、そのように対応しなければいけなくなり、視察の意味も消失してしまうのだ。
これはいけない、うっかり呼んでしまわないようにとクユリは気合を入れた。
「今日は東に市が立つ。行商が珍しい品物を並べるだろうし、湖畔はないが整備された小川もあるのだよ。念のために言っておくけどときめき編はないから。もし暴漢が現れたら本物だから油断しないように」
平和といっても何が起きるか分からない。念を押す皇帝にクユリは頷いたが……やはり皇帝はクユリが口走ってしまった『巷の男女がするような交際』を計画してくれたようだ。
言われたままを実行されるのもなんだかちょっと違う気もするが、自分のせいなので黙っておいた。
休日ということもあって人通りが多かったが、皇帝は慣れた足取りで狭い抜け道を通って東の広場を目指す。クユリは初めての散策にきょろきょろして辺りを見回しながら、手を引かれて皇帝について行った。
レイカン国の建物は平屋建てが基本だが、流石は人が集まる都の中心。二階三階と伸びる家屋も多く、見上げると赤茶けた屋根の向こうに青空が広がっている。
細い路地を出ると天幕だけのテントが立ち並ぶ広場に出た。
皇帝が言った通り市が立っていて、沢山の人でひしめき合っている。人混みをゆっくり進む皇帝は「気になるものがあったら言って」とクユリに声をかけてくれる。
「あちらに!」
クユリはつないだ手をぐっと引いて目的の場所に一目散だ。途中で手が離れたが構ってられない。女性のクユリは人混みを上手く掻き分けたが、体の大きな皇帝は人とぶつかりながらクユリを追う。
「こんにちは!」
「こんにちはお嬢さん。よかったら見てってくれ」
「触ってもいいですか?」
「構わないよ」
日陰を作る天幕の下、台に並んだのは寄木細工のからくり箱だ。人の動きの隙間にちらっと見えたそれをクユリは見逃さなかった。
「高価なのに市で売ってるなんてびっくり」
「大した仕掛けがないからね。寄木も三流品だ」
クユリの実家は小金持ちなので寄木細工を見たことがある。手のひらサイズの箱は開くのにいくつかの動作が必要で、間違えると永遠に開くことのない仕掛けが施されていた。とても高価なものなのでこっそり触ることは許されず、人ごみの中に見つけた瞬間に猪突猛進状態だ。
「なるほど。寄木にずれがあるんですね」
「弟子が小遣い稼ぎに親方の目を盗んで売りに来るんだよ。お嬢さん、これはどうだい。寄木は三流でも仕掛けは間違いない。この値段はお買い得だよ」
手に取って確認していると「クユリ!」と呼ばれて顔を上げれば、焦った様子の皇帝がクユリの頭をそっと抑えた。人混みを抜ける際に鬘がずれてしまったのを直してくれているようだ。
「急に手を離すからびっくりしたよ。はぐれたら大変だから、気になるものを見付けても手を離さないでおくれ」
「ごめんなさい、次は気を付けます。それよりギョクイ様、これを見て下さい」
「寄木だね。少し目が粗いけど作りはしっかりしているようだね」
皇帝はクユリが差し出した寄木細工のからくり箱を転がすように観察すると、箱の側面を幾度か触って仕掛けを解除してしまう。
あまりの速さにクユリは驚いた。
「字は苦手でも、こういうのは得意なんだ」
「コツがあるんですか?」
「う~ん。何となく分かるのだよ」
皇帝は細工を戻してクユリに渡す。目の前で戻すのを見たクユリは仕掛けをずらして箱を開けた。
「目の前でやられると覚えちゃうな」
「そうだね。クユリは頭がいいから。ご主人、この中で最も仕掛けが複雑なものを頂戴しよう」
「まいど!」
皇帝は店の主人が選んだ品を言い値で買う。値切らないのだなと見ていると、言いたいことが分かったのだろう。「世の中にお金が回るようにね」と、皇帝はクユリの耳元で内緒話でもするように言った。