思わぬ形
リュリュ妃が後宮を去ったと聞いたクユリは、自分がいかに恵まれているのかを実感した。
昔と比べて随分良くなったとはいえ、ここは女にとって生き難い世の中だ。
女はあくまでも男に付随する物。父親や夫、属する場所によって呼ばれ方は変わっても、女が望みのまま生きるのは難しい。
クユリは後宮で不便をした時もあったが、結局は望むままの生活を得られている。
主に学ぶことであるが、取り囲んでいる男性は皇帝を始めウルハに至るまで、クユリにとっては無慈悲でも不公平でも差別的でもなく。居心地の良い場所を与えてくれる人たちだった。
これを恵まれていると言わずに何と言えばいいのか。リュリュ妃とは置かれた状況が完全に異なっている。
これは文句どころか、汚物を投げられてもお釣りがくるほどではないだろうか。
リュリュはギョクイが皇帝になった時、真っ先に後宮入りしたお妃様だ。
後宮に入る妃の年齢が十五前後であることを基準とすれば、当時十九だったリュリュ妃が皇帝の妃になるのは些かとうが立っていると言われる年齢である。
良家の娘でその年まで結婚していなかったということは、生家の思惑で次の皇帝の妃にすると決められていたのだろう。好いた男がいたとしても、家長の言葉には従わなければならないリュリュは、自分の役目を認識し、生家の役に立つ妃として努める心づもりがあったに違いないのだ。
しかし皇帝の渡りはなく、月日ばかりが過ぎる。
実家から圧力をうけただろうし、次々に後宮入りする妃の存在に怯えたかもしれない。心の内は計り知れないが、リュリュ妃は役目を果たす努力をしたはずなのだ。
「ある意味、わたしの存在がリュリュ妃を後押ししたのでしょうね」
クユリは鏡の前に座って、同じく鏡に映る化粧を施し別人になったリンに語りかけた。
自分に出る幕はなく、このまま後宮で朽ちるのだとリュリュ妃が実感したのは、皇帝が新しく妃にしたクユリを毎夜のように訪問したからだ。
皇帝はリュリュ妃に直訴させた原因が自分にあると反省し、リュリュ妃の気持ちを汲んで、望み通り後宮から出すことにしたが、妃を出すにはそれなりの理由が必要になる。
リュリュ妃は皇帝の気を惹くために少女を男装させ、皇帝を惑わせたとして罰を受けた。ほんの悪戯ですまされるようなことだったが、皇帝は激昂し許さなかったことになっている。
この程度で後宮を追い出されるのは本当に珍しいことで、長年連れ添った妃に対して無慈悲な皇帝と囁かれている。
本当は優しい人なのにとクユリは不満だが、ウルハによれば皇帝とは恐ろしがられる方がいいのだと言っていた。
威厳あってこそと言うウルハの意見も尤もだが、それでも優しい皇帝を世間が知らないのはクユリにとって不満なのだ。
「確かにクユリ様が後押ししたのかも知れませんが、本当に良かったですね」
「何がですか?」
クユリは黒髪の鬘を整えてくれるリンを鏡越しに見やる。
「リュリュ妃のご実家は外戚となり、政での発言力を強めたがっていましたから。陛下のお渡りを都合の良いように利用されたら最悪でしたよ。ご本を好きなクユリ様なら色々と想像できるのではありませんか?」
「托卵は流石にないでしょう。一族、女子供に至るまで首が飛びます」
「ばれたらですよ。狡賢い女性なら陛下に薬を盛るくらいします。現に陛下はリュリュ妃の策に乗って行ってしまったのですから。もしそうなっていたらと思うとぞっとしますよ」
鬘の黒髪を一つに編んで後頭部でまとめる。乾いた土色の髪がこぼれ出てこないように、慎重にピンでとめて確認してくれた。
クユリが着ているのは官服ではなく女物だ。お妃が身に付ける華美な衣ではなく、町娘が着るような庶民の衣。
なんと皇帝が外に連れて行ってくれるらしい。
何処に行くかは聞いていないが、身に付けている衣の様子からして街の散策だろう。
先日『惚れさせて』と言ったクユリの言葉を皇帝は実行しようとしているのだ。
これは俗に言う”デート”というやつだ。
クユリの人生に起きる筈のない出来事が今まさに起きようとしている。
「クユリ様、もしかして緊張してますか?」
「だって陛下が市井を歩かれるのですよ。本来なら皇帝は身の安全の為にも宮殿から出ない筈なのに。暴漢に襲われたらどうしましょう。身を挺してお守りすることはできますが、わたしと陛下では体格が違い過ぎて、完全に守る案が未だに思いつきません」
「クユリ様は緊張するべき個所をお間違えです。離れてではありますが、護衛は当然ついて行きますし、何よりも陛下は武人ですよ。素手で人の首を胴から切り離すことだって出来る化け物のような方です。暴漢なんて蟻んこみたいなものですよ」
「殺人蟻だっています。そう、そうですよ。毒矢が飛んで来たらどうしましょう。やっぱりお出かけはなしにしましょうって言ってきます!」
「ちょっと待った――っ!」
突然駆けだしたクユリは後ろの襟をリンに掴まれ、「ぐぇっ」と乙女にあるまじき声を出す。
「駄目です、中止はなしです。”初めてのデート、彼女と満喫キラキラ都編、これ一冊で完璧マニュアル”を隅々まで読んで予習なさった陛下の苦労を水の泡にしないであげてください!」
「え……なんかすっごい不安しかないんですけど?」
「いいえ、不安なんてあろうはずがありません。何しろ仕事をサボって必死に予習する陛下を、ウルハ様が微笑ましそうに傍観なさっていたのですから」
「ますます不安しかありませんけど!?」
逃げようとしたがリンによって強制的に連れていかれた先には、冠を被っていない、一般人の姿をした皇帝が満面の笑みでクユリを待っていた。
「おはよう、クユリ。今日もかっ……可愛いね」
棒読みの皇帝は照れていらっしゃる。どうやらマニュアルを実践しているようだ。
自分から言い出したことだが、まさかこのような形で返ってこようとは思ってもいなかった。




