惚れるには
抱き寄せられ、クユリの心臓がドクンと跳ねる。
反して、頭上からは物悲し気に溜息が落とされた。
「私にとって、そなたがいなくなってしまうことは悲劇以外の何物でもない。好きだというのもあるが、どのような形であっても側にいて欲しいし、側にいたい。ウルハに言われるまでそなたの信頼を裏切ったとは思いもしなかった。危うくそなたを失うところだった」
「わたしはいなくなりませんよ?」
「いいや、小川を覗いていたそなたは消えてしまいそうだった。流れに身を任せ、そなたの心が私から離れてしまうと感じてとても恐ろしかった。私はそなたと同等の関係にすらなれていないと痛感した。そなたの心が欲しいと望みながら、何もできていないだけでなく信頼を裏切る行動をした」
裏切るなんて、何もかもが許される皇帝が使う言葉ではない。
しかし、今こうしてクユリを抱き寄せているのは皇帝ではなく、ギョクイと言う一人の男性だ。クユリと同じ人間なのだ。
信用していなかったのはクユリの方だ。
他人からの好意に慣れないせいで、どうしたら良いのか分からなかった。だから学ぶことへの欲求で覆い隠してしまったのだろう。
クユリは皇帝の服をぎゅっと掴んだ。
「昨夜、陛下がお妃様の所に行ったと知って、頭を殴られたような気がしました。自分を最優先で陛下を蔑ろにした罰が当たったのかとも思いました」
「罰を受けるのは私だ。だがどうか、私から離れる罰だけは与えないでおくれ。他の罰ならいくらでも受けるから、どうか頼むよ」
「陛下に罰なんて――」
クユリは皇帝の胸に額を押し当てたまま首を振る。しかし皇帝は「このままでは対等とは言えない」と、クユリの頭上でクユリ同様に首を振った。
「私は女性に疎くて分からないんだ。だからクユリ、どうして欲しいか言ってくれないか」
望みなんてない。このままでよかった。
けれど引かない皇帝に抱き締められたまま、クユリが罰を与えるまで離さないとばかりに皇帝はクユリを抱きしめている。
決して強い力ではないが、少し冷静さを取り戻したクユリはなんだか恥ずかしくなって、皇帝の胸の中でもがいたが、解放してくれる気配がない。
「そうですね、では――」
クユリが皇帝の胸を押す。
答えの気配を感じた皇帝はようやく腕の力を緩め、クユリはほんのりと染まった顔を上げた。それを至近距離で見た皇帝は途端に目を泳がせる。
「陛下?」
「いや、なんでもないよ。それで、そなたが与える罰は?」
「わたしを惚れさせてください」
「――え?」
小さく驚きの声を漏らし、皇帝の泳いでいた視線がクユリに固定された。
「わたしが陛下に惚れるようにしてください。陛下が他の女性に見向きしたら、嫉妬の炎で焼き尽くしかねないくらいに惚れさせてください。身分を気にしないくらいに、恐れ多いと思わないくらいに、古書殿の本以上に陛下を好きだと思わせるくらいに、何よりも最優先にする程に惚れさせてください!」
言っているうちに力が籠って握りこぶしを作っていた。
そうだ、完全に惚れてしまえば何の問題もない。
クユリの心が向くまで夫婦生活はしないと皇帝は宣言したが、気持ちが向けば何の遠慮も問題もなく本当の夫婦になれるし、夫婦になれば子供だってできるに違いない。
臣下だと遠慮してしまう節も、嫉妬の炎を燃やすほどに惚れてしまえば遠慮は取り払われるだろう。
「古書殿の本……それは難しい問題だね。いや、勿論努力するよ。当然努力する」
「わたしも努力します。陛下はギョクイ様ですから、平民に近い心を持っているんですよね。だったら皇帝と妃ではなく、何処にでもいる巷の男と女がするような交際をしてみませんか?」
「巷の男女?」
首を傾げた皇帝に、クユリは「そう、巷の男女です」と二度頷いてぐいっと身を寄せる。皇帝が若干引いたが構っていられなかった。
「明るい日の下で散歩したり、日常の話をしたり、お祭りに二人で行ってみたり、湖畔を眺めたり、遠くの山を眺めたり、時には手を繋いで恥ずかしがってみたり。健全な男女交際というやつですよ!」
「健全な男女交際?」
「陛下は武に長けておられますから、ときめき編もいけると思います」
「ときめき編?」
皇帝は眉を寄せたが、クユリは「そう、ときめき編です」と、今度は一度だけ深く頷いて地面に正座すると、教師が生徒に説くかに人差し指を上に向ける。
ちなみに指の動きには意味がない。
「暴漢に襲われたわたしを陛下が助けて惚れるってやつです。よくある恋愛小説の展開ですよ、ご存じありませんか?」
「恋愛小説を読んだことがなくて。しかし、そなたが暴漢に襲われるのは……」
「雰囲気が大事なんだと思います。暴漢はわたしが雇いますから大丈夫です」
「それは芝居では?」
「男性が暴漢を雇って自ら助けるってのもありますが、そちらでもいいですよ?」
「いや、だからそなたを暴漢に襲わせるのはなしにして欲しいのだが……」
「それならですね――」
少し考えればおかしな提案をしていると気付けるはずであるのに、クユリは怒涛の如く惚れる計画を提案し続ける。
話し続けなければ、皇帝の胸に抱き寄せられたせいで高鳴り続ける胸の音を治めることが出来ないような、そんな気がしていたからだ。
そもそも惚れる惚れないは感情であって、努力してどうなるものではない。
皇帝は多少それに気付きながらも、クユリの方は努力で何とかなると本気で思っていた。
多くの知識を有していても、経験不足は補えないようだ。