皇帝の謝罪
クユリの前に座った皇帝が再び頭を下げた。
「先触れを出しておきながら行けなかったこと、本当にすまないと思っている。そなたとの約束を破ってリュリュのところに行ったことも、何もなければいいと思っていたが間違いだった。本当にすまない。だが私はリュリュと会い、話をして良かったと思っている」
会ってみて良かったと語る皇帝にクユリは頷いた。人を知るには言葉を交わすことも重要だ。
他人とほぼ付き合いのないクユリだからこそ、人と言葉を交わすことの重要性を知っている。
罵る言葉や視線が全て本当かと言えば、自分が標的にならない為の自己防衛というのもあるだろう。人の本心を知るには顔を合わせて話すことが最も近道だ。
「陛下はリュリュ様をお気に召したのですね?」
「違うよ。私が好きなのはクユリ、そなただけだ」
それは変わらない事実だと、皇帝は顔を上げてクユリの目をしっかりと捕らえた。
とても強い視線に思わず気押されてしまう。
「でも……陛下は皇帝ですから、お妃様の元に通うのは間違っていません」
「そうだね。だけど違うんだ。リュリュは後宮を出たいと願っている。好いた男と夫婦になりたいそうだ」
「なんと!」
後宮に男が忍びこんでいたのか!?
女は子を自ら産み出すが、男は違う。確かに皇帝の子である証明の為に後宮は鉄壁の守りであったはずだ。なのにリュリュ妃が男を通わせていようとは。大人の男では無理があるが、リンの様に女装してやって来たのだろうか。
「リュリュ妃は罪を犯したのですか?」
「密通していたのではなく、後宮に入る前から好いた男なのだそうだ。妃としての未来がないのなら我儘を叶えたいと」
なる程……リュリュ妃はミレイ妃とは異なるお妃様のようだ。
好きな男をあきらめて役目に徹する。けれど皇帝は一度もリュリュ妃を訪れないだけでなく、新しい妃を迎えてそこにばかり通っている……となれば、自分に役目が回ってこないのは必至である。
現実は異なるが、傍目から見ればクユリは皇帝の寵愛をひとりじめしていた。
なんてことだ。
この後宮で皇帝を独占しているのに、お妃様の誰一人としてクユリに危害を加えてこないなんて。
たった今気付いたが、何かと愚痴を言って当たり散らすミレイ妃の側にいたクユリには驚きだった。
お妃様は優しい方が多いのだろうか。
もしくは日中後宮を離れて夜にしかいないお陰か?
「我儘を叶えたいとは――それはもしかして、陛下はリュリュ妃に愛想をつかされたということでしょうか?」
「見限られたとも言うだろうね。リュリュは妃になる覚悟をして、好いた男をあきらめ後宮に入ったんだ。なのに私は後宮を無視して妃の誘いに乗らなかった。普通はね、皇帝に直訴なんて考えない。だけど命を取られてもいいと賭けに出たんだよ。私が彼女にした仕打ちは許されないと思う」
「それで陛下は一夜の情けを――」
手付かずで下げ渡されるのは、リュリュ妃が皇帝に丸無視されていた証明だ。好きな男がいるリュリュ妃にとって良いことでも、知られれば彼女の価値を下げることになる。
臣下に下げ渡される妃は、皇帝の情をどれだけ受けたかによって価値が決まるのだ。乙女のままでは新たな夫になる人からリュリュが酷い目に合ってしまうと考えた皇帝は――との考えに耽るクユリの肩を皇帝がゆすった。
「私は情けなど与えていない、リュリュの話を聞いただけだ。それにもし共寝をして子でも出来たら下賜できなくなってしまう。勿論それが理由で手を付けなかった訳ではなく、私の妻はそなただけだからだ。クユリ、どうか私の気持ちを分かってくれないだろうか?」
皇帝がクユリを好きだというのは分かっている。それでも皇帝が皇帝であることも分かっているせいで、クユリは変な理解を示してしまうのだ。
けれどクユリのどこかで渦巻く何かがある。
それは皇帝が他の女性の元に通ったと知って渦巻く何かであったし、何もしていないと言い訳することに対しての何かでもあった。またクユリをただ一人の人と、皇帝が仕事を放りだしてまで言い訳しにきてくれたことに対しても。
クユリは自分と異なる、ありふれた黒い目を見つめた。
どこにでもある当たり前の黒い瞳は、クユリにとっては決して得られない色だ。この色を持ったほとんどの人がクユリを気味悪がって、無視をして、虐める。
そんなことは当たり前で常識だったから、特に疑問を持たずに受け入れてきた。
しかしある日、皇帝はまさに一石を投じ、クユリの心に珍しい存在として爪痕を残していた。
一年前、この場所で再会した皇帝は、あの日からいつも優しい。
敵意では無く、無関心でもなく、純粋な好意だけで側にいてくれる人になった。
ああ、だからなのかとクユリは気付く。
女性が苦手で、なのにクユリに対してはそんなそぶりを見せない。好意を告げて、皇帝なのに、男の人なのに女性であるクユリを気遣ってくれる。特別なのだと態度が示しているのに、クユリは有り難いことと思いながらも当たり前のように受け入れていた。
それは幼いクユリに敵意を向けなかった人だったからだ。
優しい人、守ってくれる人、危害を加えない人だと知っていたから。
クユリはたった一人の貴重なその人から、心を傷つけられることを、見捨てられることを、心変わりされることを恐れていたのではないだろうか。
「皇帝ともあろう方が、言い訳の為にお仕事の手を止めて、わざわざ足を運んで下さるなんて……」
自分なんかの為に、皇帝としての仕事を放りだしてくれる人。
皇帝にそこまでしてもらえるクユリ自身は、はたしてそれに相応しい人間なのかと葛藤が生まれる。
「当然だろう。と言うか、私は女性の気持ちに疎いようで。私がリュリュの元に通ったことで、そなたがどのような思いでいるだろうかと想像することができなかった」
クユリが何をどう思うかなんて、これまでに気にしてくれた人がいただろうか。
皇帝は皇帝だから、いつかあるかも知れない裏切りが怖くて、クユリ自身が皇帝を否定しようとしていた気がしてならない。
真っ直ぐにクユリを黒い瞳に宿す皇帝を、クユリもじっと真正面で見つめていた。
「妃たちのこともだが、そなたのことも。良かれと深く考えずに、相手の立場に立って物事を考えなかったせいで、私は危うくそなたを失うところだった」
肩を掴んでいた皇帝の腕が背に伸び、ふっと優しく引き寄せられ、頬に皇帝の硬い胸が触れた。