夫は皇帝
小川のせせらぎを耳にしながら、クユリは盛大に溜息を吐き出す。
流れを覗き込むと、なんとも辛気臭い歪んだ女がクユリを見つめていた。
ずる休みをしてしまった。
仕事に厳しいウルハにズルがばれたら首にされて放り出されかねない。
古書殿から切り離されたくなければ官服に着替え、冠を頭に乗せて小さな門を潜るべきなのに、どうしてだかとてもそんな気分になれなかった。
クユリの夫は皇帝だ。
一人の人でありたいと願っても皇帝なのだ。
皇帝が後宮に出向くのも、世継ぎを残すのも、国政を行うのも敵から国を守るのも、全ては皇帝としての仕事なのだ。
最高権力者としての義務、なのである。
普通の夫婦とは違うのだし、普通の夫婦であってもある程度の身分にあれば、妻以外に愛人をもつ男は大勢いる。
これが普通なのだから、クユリは皇帝を嘘つきだとは露ほども思っていない。
クユリを好きだと言っても、皇帝が個人として振る舞うのはクユリの前だけで、クユリと二人きりになるまではレイカン国の皇帝として、威厳に満ちた、誰もが恐れを抱く、強い皇帝でなければならない。
弱い皇帝や、馬鹿な皇帝、暴虐で独裁しかできない皇帝の治世が、如何に脆弱であるかは過去が語っている。
現皇帝は愚かな人ではないがとても優しい人だ。皇帝が素のまま人の前に立てば付け入られ、またたく間に腐敗して国は滅びてしまうかもしれない。
だから皇帝は皇帝であらねばならないのだ。
「これでいいはずなんだけどな……」
皇帝を口説こうと気合を入れ過ぎたせいなのか、皇帝が他の妃の元に通ったと聞いたクユリは、体の中から何かが抜けてしまったような感覚に陥っていた。
「ウルハ様も喜ばれるし、平和で安定した国は女が一人で迎える老後には絶対に必要だもの。陛下のお子を産むのはわたしじゃなくてもいいんだし。ウルハ様はわたしを使って、陛下に後宮通いを慣れさせようとしたのかも……」
クユリには考え付かない先の先まで考えているのがウルハだ。皇帝の子を産むのがクユリでも他の妃でも構わないと考えていたのかもしれない。
できるなら扱いやすいクユリが良いのだろうが、皇帝はクユリの気持ちが向くまで待つような優しい人だ。皇帝の性格を見抜いているウルハは、できるならクユリ、無理なら他の妃で良いと思ったのではなかろうか。
「昨日はウルハ様に後押しされたのに、先触れもあったのに。他の妃のところに行くなんて想像もしなかったね」
流れる水面に映った暗い女に話しかける。
皇帝の想い人が自分だと悠長に構えて、本ばかり読んでいたツケが回ってきたのだ。皇帝と過ごす時間は心地よくて、自由にさせてもらって図にのっていた。
クユリを異端として扱わずにいてくれたのは家族以外で皇帝だけだった。
しかも皇帝はなんの繋がりもないのに、話をしたことすらなかったのに、虐められているクユリの為に礫を投げてくれたのだ。
礫は運悪くクユリの額に命中したが、お陰で盥に乗った皇帝と再会して、望むままに生きただけで皇帝の妻の座に収まっていたのである。
しかも皇帝の心付き。
「なんて贅沢なんだろう……」
最後を看取ってくれる友人から、常に側にいてくれる夫になってくれた。
他の妃のところに通ったからといって何だというのか。嬉しかった約束を違えられた訳ではないのに、何を落ち込んでいるのだろう。
皇帝という職にある人が夫なのだから、これからだってあることだ。自分はいったい何を気にしているのだろうと、クユリは両手で頬を叩いた。
「うん、頑張らないと。休むのやめよう」
昨日はほとんど寝ていないし、起きたら壁に頭を預けたままで体が痛かった。
目が覚めると隣にリンがいて、『寝台に運べなくてごめんなさい』と謝られたが、クユリと変わらない体格のリンに寝ているクユリを運ぶなんて出来る筈がない。
顔色が悪いので休むようにすすめてくれたのはリンだが、暗い顔で小川を覗いていても何にもならない。女が一人で生きて行くならサボっていては駄目なのだ。
気合を入れて立ち上がり、くるりと踵を返せば真後ろに皇帝が立っていた。
驚き過ぎて目が丸くなる。
「――陛下?」
どうしてこんな所に……いや、後宮は皇帝のものだからいておかしくないが、仕事をする時間にいることが不思議だった。
「そなたに説明を――まずは謝罪しなければ」
クユリの目の前で皇帝が「すまない」と謝って頭を下げると、頭を下げたままの状態で「説明させて欲しい」と言って来たが、クユリは驚いて声にならない悲鳴を上げた。
「いや、ちょっと……どうして頭を下げるんですか!?」
「私とそなたは対等だ。私はそなたを妃ではなく、ただ一人の妻と思っている。その妻に対して後ろめたいことをしたのだから謝罪するのは当然だ」
「後ろ暗いことなんてありませんよ。陛下は皇帝です。一人の妻で許される筈がありません。お気持ちだけで大丈夫ですから、どうぞ好きなだけお妃様のところへ通って下さい」
女が強い夫婦もいるが、そんなの珍しい。
クユリの両親は仲が良かったが、それでももし父親が浮気をしても母親に咎める権利はなく耐えるだけだ。しかも皇帝は普通の結婚をせず、役目として多くの妃を迎えて子を成す義務がある。立派に皇帝としての役目を果たすのにクユリに遠慮する必要はない。
頭を上げてくれない皇帝を必死に説得すると、皇帝は頭を下げたままクユリの肩を掴んで押した。一見細身だが武に長けた男性であることに変わりがなく、クユリは簡単に地面に膝をついてしまう。
「――そなたに勧められると流石に堪えるよ」
クユリの前に座り込んだ皇帝が、とても悲しそうに声を漏らしたのでクユリも悲しくなった。
「皇帝なのですから仕方がありませんよね?」
「そうだけど、今回のことは違うんだ」
「違うって?」
何か言いたいことがあるようだ。
話が見えないので大人しく皇帝の説明を聞くことにした。




