意識する
秋から冬にかけ剪定された梅の枝。
全ての切り口が褐色に変わり、紅梅か白梅の見分けは花が咲くまで分からない。
紅梅の枝は剪定すると切り口が赤く染まっている。それが変化し、蕾を付けて花が開く様をクユリは楽しみにしていたが、今年は忙しすぎて過程をとばし、開花してようやく気付いた。
官服を脱いで見習いの冠を取る。黒髪の鬘を被るのは、クユリの素性を隠す為。
そのうち鬘を脱いで生活する予定だが、ミレイ妃の侍女として後宮にやってきたクユリの気配が消えるまでは、滅多にない髪色を隠しておくのが賢明だ。
これからもリンにクユリの代理をさせることもあるし、何よりもクユリは宮殿内をうろついているのである。
宮殿内の官職と後宮の妃、二人を結びつけない為にも黒髪の鬘は必要だった。
クユリは妃としての仕事をする為に、後宮の与えられた部屋の中。巨大な寝台の上に座って皇帝の訪れを待つ。
白い寝衣を着て待っていると扉が開いて皇帝が姿を現し、クユリの姿を確認して表情を綻ばせた。
「ああ、本当にいたね」
今夜からクユリが後宮で寝泊まりすることは報告済みだったし、皇帝の訪問があることも連絡を受けている。それでも前歴がある為、もしかしたらリンがいるかもしれないと皇帝は思ったのだろう。
「今宵はご訪問、ありがとうございます」
膝を揃え、両手をついて頭を下げる。すると皇帝は大股でやって来て、クユリの肩を押すと平伏すのをやめさせた。
「二人きりの時は皇帝と臣下ではないよ」
「ですが、今は皇帝陛下と妃です」
約束したのは友人の立場だ。けれどそれはなくなってしまった。
古書殿の書物に惹かれ妃になるのを快諾してしまったが、皇帝との友人関係を捨てるのは早まったと少しばかり後悔している。
友人は心で成り立つが、皇帝と妃の立場は責任が付き纏うからだ。
恐れ多いことながら、皇帝との気楽な関係は意外にも心地よかったのだと今更ながら気付いてしまった。
「クユリ、少し話をしよう」
皇帝は寝台に上がらずに腰掛けた。
「このような関係になってしまったが、私はクユリを妃に出来て嬉しいと思っている」
視線を外したまま告白した皇帝に、クユリは「わたしもです」と答えることができなかった。
妃として皇帝の心を射止め、今後を円滑に進める為には必要な言葉なのに嘘がつけなかった。友人のままであったならと思ったばかりで、クユリの世界に動揺が走る。
「こうなってしまったのは、私がそなたに心を開いたせいだ。後宮を持って多くの妃を集めているのに、誰の元にも通わなかったせいだ。そなたに責任は何一つない」
「わたしは、自分で陛下の妃になると決めました」
「それは古書殿の本を読みたいからだよね?」
「そ……そうですけど」
それを言われると返す言葉がない。
正直なクユリに皇帝が声を上げて笑う。
「それでいいよ。私はね、皇帝になるような生まれではなかったのに、いつの間にかなっていた身だ。五年も皇帝として働いているのに未だに慣れなくてね。後宮も慣れないことの一つだ。でも、クユリがいてくれるから通うことが出来るようになった」
「他のお妃様の元へも通われますか?」
「それは無理だね」
とても難しいと皇帝は答えた。
「皇帝と言ってもただの人だ。表の顔が本来の私で、皇帝としての顔が裏というのかな」
五百の有力者を集め、謁見した皇帝の姿に驚いた記憶は新しい。
言葉をかける事が許されない、神々しい手の届かない存在。恐ろしい威圧を放ち、全てを従える姿は、クユリの知らない皇帝の皇帝たる一面だ。
「無駄を省くと言うウルハとは少し考えが異なるのだけどね。私には多くの妃を侍らせるだけの力がない。妃は……育った環境のせいで、妻は一人という庶民的な考えが根付いているのだよ」
皇帝にとって妃は道具の一つ。世間一般においても女は道具の一つだが、高貴な人に比べて現実はかなり異なり、心による繋がりが強い。クユリの両親もどちらかといえば母親の方が強くて、父親が母親に口答えしているのを見たことがなかった。
もともと帝位に手の届かない、母親の身分が低く扱いに困るような存在だったので、皇帝の意識もそれに近いのだろう。
「ウルハに言うと叱られるだろうけど、そなたの心が私に向くまで手は出さないと決めたんだ」
「手を出さないって……お世継ぎはどうするんですか?」
「そなたの心が向くまでは我慢するよ」
「向かなかったら?」
「私を好きになってもらえるように努力する」
困ったような、情けないような、何とも言えない表情で皇帝がクユリを見つめていた。
「私はそなたとの別れを経験したくないから友人でありたいと願った。けれど友人は終わりだ。約束を違える私を許しておくれ」
「終わり――」
友人としての糸を切ったのはクユリだが、改めて皇帝の口から言われると思いもしなかった痛みが胸に走る。
胸の痛みに戸惑っているクユリの頬に、皇帝の手が伸びて指先で触れた。
思ったよりもどっしりとした、大きな手。
拳で立ち木をへし折ってしまう力のある手は、自ら皇帝の地位に上り詰めた力を持った手だ。その手が頬からクユリの前髪に移り、ゆるりと髪を押し上げた。
そこにあるのは皇帝がつけた傷。
「望めば後宮から出してあげると約束したのにすまないね」
もう出してやれないと皇帝は言う。
「大丈夫です。古書殿の本は一生涯かけても読み終えそうにないとのことですから」
「ありがとう」
皇帝の手が、膝に乗るクユリの両手を包み込む。
硬い手はクユリの両手を一つきりでもすっぽりと包み込んでしまう大きさだ。
「友人ではなくなるが、そなたが生を終える時には夫として見守ると誓うよ」
「え――?」
驚いたクユリが顔を上げると、漆黒の瞳に燭台の灯りが反射して橙色のきらめきを湛えている。その瞳はとても穏やかで優しいもので、クユリの胸が一つ、痛みと違った鼓動を打った。
「そなたよりも長生きできるよう努力するが、もしも私が先に死んでしまったら。その時はそなたが私を看取ってくれるかい?」
友人の形は崩壊した。クユリが崩したのだ。けれど皇帝はクユリを責めず、夫婦として看取り合おうと言ってくれる。
なんて優しい人なのだろう。
「陛下は、わたしのことを異性として好いているのですね」
「すまないね」
「いいえ、感激しています」
いつからそんな心を向けてくれていたのだろう。まったく気づかなかったが、皇帝自身も気付いたのは最近なのだから当然でもある。うすうす気づいたのは、ウルハの策略でミレイ妃が起こした事件の時だ。
望めば何でも手に入れることが出来るのに、クユリを優先して、一生友人でいてくれる予定だったのだろう。年をとっても友人で、クユリを看取ってくれるつもりだった。
とても嬉しいと思う。
けれどこうなった今、心が向くまで待つで本当にいいのだろうか。
不安に感じて皇帝を見つめ続けていると、皇帝は目元を染めてそっぽを向いてしまったが、握った手はそのままだった。