妃のはず…
仕事の手を止めたクユリは、姿勢正しく筆を滑らせるウルハをじっと見つめる。
「なにか?」
もの言いたげなクユリに気付いたウルハが、視線を手元に固定したまま問う。質問があるなら答えるが、ないならさっさと仕事をしろと言う意味の「なにか?」だ。
「あの……わたし、今日から皇帝の妃になる筈では……」
「そうですよ」
「すでに夜を迎えていますが、早朝からずっとここに座って仕事をしているのですが……」
「その通りですね」
「古書殿への出入りを許してくれるとしか聞いていないのですが……わたし、本当に皇帝の妃になるんですよね?」
「本日より妃です」
馬鹿なことを聞くなと、ウルハが筆をおいて書き終えた紙を文箱に入れた。
「今回の件は思ったよりも簡単に片付きましたが、それでも仕事が溜まっています。だからあなたはここで私の手伝いをしているのです」
「それも分かっていますが、妃としてのお仕事はよろしいのでしょうか?」
「妃の仕事と言いますが、座って食べて寝るだけです。貴重なあなたを無駄遣いするつもりはありません。住まいは後宮になりますが、起床して官服に着替えたらこちらで仕事を続けて頂きます」
「日中は引き籠りに見せかけて、実際には男の姿で今まで通りという訳ですか?」
「その通りですよ。流石はクユリ、私が見込んだだけのことはあります。おや、まさか遊んで暮らすつもりでいたのですか?」
「とんでもないです。こうしてウルハ様のお手伝いをさせて頂けるのは有り難いです!」
嘘ではない。
後宮に引き籠って古書殿の本を読み漁る気でいたが、遊んで暮らすなんて露にも思っていない。
ウルハからは学ぶことも多いので、嫌味を少しばかり減らしてくれたりもう少し説明してくれたりするなら、心から喜んでお仕えさせてもらうつもりだ。
今は、ちょっと大変。
「これって陛下もご存じなのですよね?」
「まさか、当然知らせていません」
「当然なんですね……」
ウルハならやりそうだ。
皇帝は今頃どうしているだろうと、後宮がある方角に顔を向けかけて……皇帝の住まいへ向きを定める。
後宮に通うのが嫌いだった皇帝だ。それこそクユリがミレイ妃についてきてから一度もない。その皇帝が今更後宮を訪れるだろうかと疑問に感じた。
今夜、もし皇帝が後宮を訪問したとしたら。それは間違いなくクユリの元にだ。これを機にもともといた妃の誰かを訪問するとは思えない。
「いないと知ったら残念がるかしら……」
思わず漏れた呟きに「ほっとするでしょう」とウルハが答えた。
「ほっとする……ああ、陛下は女性が苦手なんですよね。それをわたしになんとかしろということでしょうか?」
後宮に通わなかった皇帝が、友人として付き合いのあったクユリを案じて後宮を訪れる。クユリはウルハの期待に応えるために、皇帝を誘惑して跡継ぎを孕んで産むのが仕事だ。
これは大きな仕事になる。
独身を貫くつもりで男性との経験が皆無のクユリには、とても難しい仕事になるだろう。
気合を入れるクユリにウルハが面白そうなものを見る目を向けていた。
「せいぜい頑張ってください。それから、妃の代理はリンにやらせました。今夜寝所に侍っているのもリンですので、あなたがいないと慌てた陛下が探してまわるようなことにはなりません」
「リン様がですか。女性の姿をしたリン様はとても可愛いのですよ。花嫁衣装が似合ったでしょうね」
「気になるのはそこですか」
問われ、じっと見つめられてクユリは僅かに首を傾ける。
「ウルハ様はリン様の女装を見たことがありません?」
「ありますよ。上手いと知っているからやらせているのです。問題はそこではなく、あなたは自分の花嫁衣装をリンに着られて不満に思わないのですか?」
「いえ、特には」
リンの愛らしい姿は見てみたかったが、結婚を夢にすら見たことのないクユリにとって、花嫁衣裳などにまるで興味がない。目の前にぶら下げられたものが古書殿への入室だったので、それに気持ちが行き過ぎていて考えることすらしなかった。
「そうですか。女性にとっては生涯に一度。少しばかり意地悪し過ぎたかと案じていましたが、無駄な心配でしたね」
「ウルハ様がわたしを心配!?」
驚くクユリにウルハの白い目が突き刺さる。
「わたしは常に様々な事柄を心配していますが?」
「そ……そうですね。国の為に、陛下の為に、色々と大変なご様子ですし……」
クユリと違って様々なことを考えて忙しくしている人だ。時に意地悪して発散しないと気が狂ってしまうだろう。
ギ国を退けたのは皇帝一人ではない。ウルハも皇帝の側で尽力したのだ。今の平和は皇帝だけのお陰ではなく、皇帝を支えた人のお陰でもある。
改めて思うとウルハも素晴らしい人だ。称えられてしかるべきなのに、世間的に英雄として扱われるのは皇帝だけ。
「裏方って大変ですね」
「裏方ほど楽しいものはありませんよ。何しろ主の名のもと、好き放題できるのですから」
失敗すれば主のせいにすればいいだけとウルハは目を細める。
彼にとって皇帝はいったいどのような存在なのだろうかとクユリは考えたが、二人の関係を主従としか知らないクユリには難しい問題であった。
こうして結婚とは少し異なるが、皇帝に嫁いだクユリの夜は更けていく。
溜まった仕事に徹夜続きで対処し、眠るのは明け方近く。
クユリが後宮に踏み入れたのは妃となって一月程が過ぎて後、季節は春になっていた。