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盥ふたたび


 

 翌朝、クユリが小川で洗濯をしていると、上流から人を乗せた盥が流れて来た。

 盥には黒い衣を着た皇帝陛下。


「有り得ない……」


 昨日の出来事を『夢だ』と思い込もうとしていたクユリは目を見張る。

 皇帝は笑顔で手を振ってクユリを呼んだ。


「やぁ、おはよう」

「これは夢ね」

うつつだよ。今日も私を助けてくれないか」

「これは夢……」

「そなた!」


 夢と決めつけ、洗濯の続きをしようとしたクユリの耳に、皇帝の焦った声が届く。


「古書殿は駄目だが、希望の本なら貸してあげよう」

「対岸までですね、お任せください!」


 他人の汚れ物を綺麗にしている場合ではない。クユリは迷わず水に飛び込んで盥を押した。


 昨日同様、盥を岸につけると皇帝は水に濡れることなく地面に足を下ろす。クユリは胸までびしょ濡れだが上機嫌だ。

 季節は夏、服はあっという間に乾く。本を読ませてもらえるなら乾くまでの不快感はウキウキに変わるだろう。


「そなたは本当に本が好きなのだね」

「わたしを覚えておいでで?」


 クユリが問うと皇帝は「当然」と頷いて、クユリの額にかかる前髪を指先ですくった。

 額には幼い頃に出来た傷跡が白く浮いて残っている。


「傷物にした女性を忘れられるわけがない」

「わたしに傷をつけたのは、陛下だけではございませんのでお気になさらず」

「だが、最も深く残ったのは私の投げたつぶてだ」


 八年前にクユリの額から流れた血を思い出したのか、皇帝の黒い眼が痛ましく細められた。

 しかし傷つけられたクユリにとって、そんなことは数ある内の一つに過ぎない。

 それにあの日、彼が投げた礫はもともとクユリを狙ったものではなかった。

 彼の手から投げられた礫は、クユリを後ろから拘束した餓鬼大将を狙ったもので、反れた礫が額に当たったに過ぎないのだ。傷が残っても嫁に行くつもりがないのでまったく気にしていない。

 それよりも――


「希望の本を貸して下さると!」

「ああ、いいよ。何が良い?」

「兵法書を。五年前、陛下が皇帝の地位を得るきっかけとなったギ国との戦いの記録も!」


 現在の皇帝は、先の皇帝の三十八番目の皇子だった。

 母親の地位が低く、幼い頃はクユリが生まれ育った土地の領主に預けられていたのだ。その縁でミレイ妃は後宮に入っている。

 もともと皇帝になる血筋ではなかったが、兄皇子達の不幸な死が重なったのと、ギ国が攻めて来たのを追い払うのに活躍したことが重なり、三年前、先の皇帝が亡くなり、二十二歳の若さで皇帝の地位に就いた。

 その彼が戦った記録を読みたいと、クユリは膝をついて両手を合わせ、瞳を輝かせて拝むように皇帝を見上げる。


「兵法に興味があるのかい?」

「ギ国の戦法と、それを回避する策を学びたいのです。またギ国が攻めてきた時のために、上手く逃げられるように学んでおきたいのです」

「……攻められないよう努力するよ」


 皇帝は頬を引き攣らせる。


「と言っても、そなたを古書殿に入れると私が叱られてしまう。内緒で読ませてあげるから、今夜再び会おう。上流に橋があるのでそこで待っていておくれ。門をくぐらなければいけないが、番の者には言っておくから濡れる必要はないよ」

「お気遣いありがとうございます!」


 読ませてもらえるなら濡れても構わないが、闇に紛れて小川を渡るのは賊と間違われてしまう心配がある。兵法書を目の前にして死にたくないので何度も頷いて拝んだ。


「それでは夜に」


 皇帝がクユリの頭を一撫でして踵を返す。

 

「必ず、お出で下さるまでいつまでもお待ちいたします!」


 『絶対にすっぽかすな』と念を送りながら拝むと、振り返った皇帝は微笑んで手を上げ「必ず」と合図してくれた。


 なんてことだ、夢が叶ってしまう。

 洗濯女も捨てたものではないと、虐めてくれた後宮の女たちに感謝した。





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