運の尽き
クユリは目を皿のように丸く大きく見開く。
その瞳に映るのは人の高さの位置で折れてしまった木だ。
落葉して枝だけになった木が倒れている。残っていた僅かな葉も倒木の衝撃で全て失われた。
皇帝がクユリの凝視するものに気付いて、締め上げていたウルハから手を離すと、折れて転がっている木を慌てて抱え上げた。
巨木ではないが、それなりの樹齢がある木だ。
普通は抱えられないだろうそれを皇帝は軽々と抱えてしまい、クユリは唖然としたまま、その木をどうするのかと黙って見守った。
折れたのはそれなりの太さのある落葉樹。
折ったのは皇帝。
拳で、素手で木を殴って折れる人間が存在したとは。
皇帝は自らが折った木を抱え、残った幹に折れた箇所を引っ付けようとしていた。
「いや……付かないでしょ?」
「あなたに恐ろしい姿を見せたと慌て、挙動不審になっているのです」
ウルハが乱れた襟元を整えながらクユリに近づく。
成程、皇帝はクユリに怖がられたくないのか。ちっとも怖くはないが……変な人に見えてしまうのでやめて欲しい。
クユリは折れた木を必死に直そうとしている皇帝に歩み寄った。
「陛下、折れた木はもとに戻りませんよ」
「いや、その……殴ったくらいで折れるとは思わなかった。虫に食われて弱っていたのかもしれない」
「この木は虫食いではなく健康な木でした。人が拳で木をへし折れるとは知りませんでしたのでとても驚きました」
「いや、その。私は――」
「樹木医に任せておけば春には新しい枝が伸びるでしょう。折れたそれは……乾けば薪として使えます」
折れた木を繋ぐ技術があるにはあるが、皇帝が折ってしまったこれは無理だろう。
クユリが諭すと皇帝は木を置き、一度空を仰いで長い息を吐き出した。
「怖がらせてすまなかった。ウルハから話を聞くから、一緒に来てくれないかい?」
「そうですね。ウルハ様からはきちんと話を聞かないと」
恐らく……絶対に、今回の件は全てウルハによって計画されたものだ。
この計画で起きた不手際は、クユリがミレイ妃に扇で頬を叩かれたことくらい。それだけウルハの思い通りに事が進んでいるのだ。
後宮に出向かない皇帝だが跡継ぎは必要だ。
後宮を維持するのにどれだけの費用がかかっているのか、クユリはウルハの側で知る機会があった。莫大な費用は妃の実家から力を得る為の必要経費でもあるので、皇帝が女嫌いでもある程度は妥協するしかない。
ミレイ妃の実家であるファン家は、政で役に立つであろう筆頭ともいえた。
ファン家を蔑ろにするのは国策上良くないが、皇帝はミレイ妃だけではなく、他の妃の元にも通う気配がまるでない。
ウルハはミレイ妃の元に皇帝を通わせる為、皇帝を盥に乗せて小川に流す奇策に出たが、その奇策をぶち壊したのはクユリだ。
クユリを皇帝の妃に――よく考えなくても冗談にしか聞こえない馬鹿げた考えだ。皇帝もウルハの考えを拒絶したのではなかったのか。なのにウルハは考えを実行するために暗躍していたようだ。
邪魔をしたクユリに対する嫌がらせと思いたかったが、現状からすると嫌がらせで済む範囲を超えていた。
ということは本気なのだ。
クユリは自分の考えが外れてくれることを願うが、場所を変えた先でウルハが語ったのはクユリにとって最悪の、実行済みで後戻りのできない計画だった。
「ミレイ妃の魅力はファン家唯一の娘ということだけでした。これには不満でしたが仕方がないと諦めておりましたら――クユリ、あなたが現れたのです」
次の皇帝となる男子を産んだ母親は皇后となる。
利かん気で我儘放題、人柄に問題大ありのミレイ妃を皇后の位につけるのは不安があったが、ファン家の娘が他にいないのだから仕方がない。好き勝手させないよう見張るしかないと妥協していたウルハの前にクユリが現れた。
クユリが望むのは知識であって、富や権力にはまったく興味を示さなかった。富と権力を望むとするなら学ぶことに必要な時だけだ。しかも皇帝が唯一気に入っている娘。皇帝の深層心理を予想したウルハは、クユリを皇帝の隣に立つに相応しい地位に収める計画を考えた。
「リンを後宮に忍ばせ、ミレイ妃を焚きつけさせました。自ら後宮を出たミレイ妃の姿は多くの者が目撃しているので言い逃れはできません。妃が後宮を許可なく出るのは皇帝に対する裏切りです」
ウルハの罠にはまったと言えばそうだが、リンの口車に乗って後宮を出たのはミレイ妃自身だ。ウルハはミレイ妃の性格を熟知して背中を押しただけのこと。ミレイ妃は決してクユリが宮殿内にいると知り、腹を立てて扇で殴りつける為に出て来たのではない。
父親から『変な色の官職がいた』と聞いていたミレイ妃は、二人といない筈の髪色を見つけもしやと思い確認した。本当なら人に会ったら咎められると逃げ出してよさそうなのに、自ら寄って来てクユリをわざわざ確認したのだ。
後宮から消えたクユリが妃のミレイですら許されない場所にいて激しく腹を立てるのは、ミレイ妃の性格からすると当然だった。
「ミレイ妃は無断で後宮を出て男ばかりの区画に出ましたが、禁を犯したと命を取るつもりはありません。ミレイ妃の命は何の役にもたちませんからね。今回は恩を売ることに致します。隅っこの領主で満足できていないファン家には、ミレイ妃の命を取らない代わりにクユリの後見人になってもらうつもりです」
ミレイ妃の命が役に立つなら迷わず取るのだろう。
恐ろしいことであるが、これがウルハや皇帝の生きている世界だ。
国を守る為に非道にならなければいけない時もある。
怖いと思うが、お妃問題で死人が出るのは過去にいくらでもあった。決して珍しい話ではないのだが、クユリはこれが自分に関わってくるなど露にも考えたことがなかったのだ。
古書殿の本に興味を持ったのは、女一人でも穏やかに生きて行くための延長だったが、思わぬところで絡め取られていたようである。
男尊女卑の世界で、ウルハは何処にでもいる女を馬鹿にする類の人種だとクユリは気付いていたのに。
ウルハの知識を目の当たりにして、流石は女を見下すだけあると感嘆したが、それが仇となって彼の思惑に気付けなかった。
本当は立ち入るべきではなかった世界。不用意に立ち入ってしまったのが運の尽きだったのだろう。
クユリはとても後悔した。