皇帝の気持ち
近頃クユリに会えていないな――
仕事の手を止めた皇帝は、いつもクユリが作業をしていた机に視線を向け、官服を着て仕事をする姿を思い出す。
男ばかりの世界に性別を偽って入ったことを、クユリは少しも嫌がっていなかった。クユリにとって何よりも重要なのは学ぶことである証明だ。
髪と瞳の色が人と異なるクユリは、皇帝が彼女を知った時から周囲に揶揄われ、邪険に扱われる存在だった。
大人たちは酷い言葉を投げかけることはなかったが、ある意味正直で残酷な子供たちは大人たちの態度を敏感に感じ取り、クユリには何をしても許されると思っていた節がある。
クユリは一人でいるか、虐められているかのどちらかだった。
しかしクユリ自身は卑屈にならず、うまい具合に周囲をかわしていたと思う。
弱い者虐めを目撃した皇帝は、自分が手を出してはいけない領域と、子供ながらにもやもやした心を抱えたものだ。
蔑ろに出来ない血が入っているばかりに、自由に生きることが許されなかった。
力もないのに影響力を恐れ、たった一人の女の子を助けてやれない自分自身に苛立ちを覚えたが、皇帝の動き一つで母や支えてくれる人たちの命を奪いかねない状況にあることも分かっていた。
しかしある日、目の前で繰り広げられる光景に腹が立ち、つい手を出してしまったのだ。
半端な気持ちだったせいだろう。投げた礫は少女の額に生涯消えない傷を刻んだ。
傷をつけた少女に思わぬ場所で再会して、この世界に引き込んだのは皇帝自身だ。
懐かしさについ声をかけてしまったが、それで終わっておけばよかったのに終われなかった。
クユリの興味のある物で釣り、友人だと主張した。
友人との言葉に偽りはない。
美しく成長した懐かしい娘に邪な思いはなかった。
今思うと経験から、望んではいけないと知っていたからこそ、友人であることだけを望んだのかもしれない。
クユリの生まれは特別いい訳ではない。
美人で頭が良くても平民だ。
何よりも女だ。
だからこそ皇帝は、ウルハがクユリを気に入るとは正直思っていなかった。
初め、ウルハがクユリを妻にすると勘違いした皇帝は驚き、戸惑い、訳が分からなくなって暴れる以外に何も出来なかった。
クユリに手の届くウルハが羨ましくもあったし、友人を取られたくないとも思った。
生きる為に琢磨し、鍛錬を積み、貪欲な人間から放たれる見えない糸を共に掻い潜ってきたウルハを、皇帝は自分でも気づかなかった嫉妬心で見誤ってしまっていたのだ。
ウルハが動くのは皇帝を生かす為だ。
生き延びる為に共に歩み、辿りついた先に玉座があった。
皇帝もウルハもこんな地位は望んでいなかったが、生きる為には掴むしかなかった道だ。
しかし玉座はゆるぎないものではなく戦いは続いている。
ウルハが動くのは何もかもが皇帝を生き残らせる為で、必要なら自分の命すら差し出すような幼馴染だというのを忘れていた。
皇帝がこちら側に引き込んでしまったクユリをウルハが気に入り、『頂戴』したのは、間違いなく皇帝の為だ。
武にばかり才能が発揮された皇帝は、知力でウルハに到底及ばないが馬鹿ではない。
ウルハが裏で何かしているのは気付いていた。
何かしてもそれは皇帝の為であり、ウルハのすることはいつも正しい。生きる為に、国を良くする為に奔走していた。だから黙ってやらせていたのだ。
けれど皇帝に入り込んだ淡い感情を、ウルハは敏感に悟って行動に移しているのだとしたら。
「治世の為に私を無視するのは良いが、クユリを巻き込むのはいけない」
暫く見ないクユリ。リンも何やら動いている。ウルハは変わりないが、嫌な予感がした皇帝は席を立った。
向かうのはウルハが使う仕事部屋の一つ。
嫌な予感が外れてウルハに嫌味を言われるのなら問題ない。
けれど予感が外れていなければ――クユリの感情を無視して巻き込んでいた場合、皇帝はウルハを処分できるだろうか。
クユリの求めるものは気の合う友人であって伴侶ではない。
生を終える時に気の合う友人に看取ってもらえるならそれでいいと、その為にクユリは己を磨いて精進し、貪欲に知識を貪っている。
そんなクユリに皇帝がしてやれることは、他国から侵攻されない、戦いのない、命の危ぶまれない国を築くことだ。
けして周囲を囲んで追い詰め、選択を迫ることではない。
皇帝はクユリを血みどろの世界に引きずり込みたくなかった。それをウルハはちゃんと理解してくれているだろうか。
悲しいかな、皇帝が不安を感じた時は必ず当たる。
皇帝の顔を見るなり逃げ出そうとしたリンの首根っこを掴むと白粉の匂いがした。
「リン、どうして白粉の匂いなんてさせているんだい?」
リンに女装させ後宮に行かせたのは一度だけだ。勝手に何をしていると問う皇帝の顔は普段の彼のものではない。
軽口を叩いてはいけない状況だと悟ったリンは、あきらめて力を抜くと抵抗を止めた。
「ミレイ妃を焚きつけてきました」
「どのように?」
「後宮は陛下と小姓……私ですね……の下品な噂で持ち切りです。近頃父親から色々言われて苛ついているミレイ妃に、陛下の訪れを待つよりもいっそ赴いてはと提案し、後宮を抜け出す術を教えて差し上げました」
「は!?」
「私が作った抜け道です。すぐに閉じます」
「いやそれは……流石に禁を破って皇帝に突撃訪問は有り得ないだろう?」
女達は後宮を出ることが許されない。
良く言えば女達を守るためであり、悪く言えば不義密通をさせない為だ。禁を破ってのこのこ皇帝の元に現れるなんて、怒りを買えば打ち首沙汰だ。有り得る筈がない。
するとリンは首をすくめ、上目遣いで皇帝を見た。
「大変いい難いのですが、ミレイ妃は自家でお預かりした陛下のことを下に見ておいでですので、罰を受けるとかいう考えがまるでありません」
「しかし、私に辿りつくまでに見咎められる。世話になったファン家の妃を罰するのは気が引けるな――」
ここで皇帝はウルハとクユリが部屋にいないことに気付いてはっとした。
「全てウルハの指示なのかい?」
リンが自ら女装し、後宮に出向いてミレイ妃の御機嫌伺をする理由がなかった。
これをやらせたのがウルハと悟り血の気が引く。
力を付けている北の領主であるファン家を敵に回すのは宜しくない。
ウルハはつい数か月前までミレイ妃の元に通えと言っていたし、皇帝もミレイ妃の実家であるファン家を確実な味方に取り込むのは賛成だ。
世話になった恩があるから贔屓するのではない。
娘の教育には失敗しているが、多少のずるさもあるが、それを除けば比較的気の良い人格者だからだ。
「ウルハはファン家を滅ぼそうとしているのか?」
「いえ、そうではないと思います」
「なんてことを!」
ファン家をどうにかしようとしているのでないなら答えは一つだ。
皇帝は踵を返し走り出す。
辺りを確認すると、いつもはいる筈の守りが取り払われ穴だらけになっており、何処に行けばいいのか示している。
予想したが、最も当たって欲しくなかった答えが正解だった。
辿りついた先には、冠が取れて土色の髪が露わになったクユリとウルハ。離れた場所には武装した警護の者達。乱れた地面が経験豊富な皇帝に争いがあったことを知らしめる。
気付いたらウルハの首を締め上げ、その体を押し付けた木を殴っていた。
「私の心を勝手に決めつけるな!」
逃したかったのだ。
一見華やかでありながら、薄い皮をむけば膿が溢れる世界。血みどろの、悪意の立ち込める世界に、笑って強く生きるクユリを引き込んで浸からせたくはなかったのだ。
友人として側にいて、穏やかに笑って温かいものだけを向けていたかった。最後の時に気の合う友人として彼女を看取る許しが欲しかっただけだ。
多くを望まない、辛いこともするりと流して楽しみに変えてしまう。ささやかな願いを叶えさせたかった。
だから絶対に悟られてはいけないと、己の心を無意識に封印していたというのに。敏い幼馴染は容易く盗み見て、皇帝の為に実行しようとする。
それによってクユリの人生が変わってしまうのも厭わない。他の人間の道を変えても、ウルハは皇帝を何よりも最優先にしてしまう。
殴った木が折れ、音を立てて倒れると乾いた土が舞う。
クユリの髪と同じ色の土が舞う中、幹が折れた木に胸ぐらを掴まれ押し付けられた男は、皇帝を挑発するように、にいっと口角を上げた。
「敵は迷わず殺すよう、お教えしたはずですよ」
「――そなたは敵ではない。なぁウルハ、もとに戻すことはできないのか?」
「あなたは皇帝なのですよ、心を偽る必要などないのです。それなのに我慢して欲しい物を欲しいと言わないから、私のような人間に奪われるのですよ」
「クユリは巻き込まないで欲しかったのだ」
「あなたが皇帝である限り無理な話です」
ここで思うままにしてこそが皇帝だ。
しかし皇帝は、怒りに任せウルハを殺すことが出来なかった。それではいけないのだと諭されても、できないものはできないのだ。
皇帝は息を吐き出し怒りを逃すとウルハから手を離した。