お沙汰
にこにこと笑顔を浮かべて上機嫌なウルハに見下ろされたクユリは、言い表せない恐怖に苛まれ、軽く十回は殺されたような気分に陥る。
「良くやってくれました、期待通りですよ」
何が期待通りなのか分からない。
ミレイ妃の足にしがみついて巻物を救おうとしたことか?
それとも女団子の中で最も被害の少ないのがクユリであることだろうか?
主を守ろうとした侍女に引っ張られたミレイ妃の髪は乱れ、高そうな服は破れて、体のあちこちには擦り傷ができていた。
妃なのに、皇帝の住まう宮殿で暴漢にでも襲われたのかと思われるほど、それはそれは悲惨な状態になっていた。
対してクユリは扇で叩かれた頬が赤くなっている程度。
冠は落ちて服が汚れたが打ち身もない。遊んでばかりのミレイ妃と労働に勤しむクユリの差は如実に出た。蹴られてひっくり返ったのは重い盆を抱えていたからだ。
「あの、巻物が……」
恐る恐る見上げて訊ねると、途端にウルハが笑顔を消した。
「そこはしっかり償って貰いますので安心して下さい」
真顔で見下ろされても安心できるはずがない。
ちなみにクユリは命じられてもいないのに、争いの場になったその場で正座を続けている。
反省の意を表しているのだ。
ミレイ妃を始め、後宮の女達は駆け付けた衛兵に抱えられ強制送還。道に迷ってしまったと言い訳するミレイ妃の主張は通らなかった。当然だ、道を間違えた程度で後宮から出られる訳がないのだから。
ウルハが「壺にいれておきなさい」と命令すると、ミレイ妃は怒涛のように悪態を吐いた。主に皇帝とウルハが今こうしていられるのはミレイ妃のお陰……といった類の暴言。
確かに皇帝とウルハは幼い頃よりミレイ妃の実家に身を寄せていたが、そこは家の主であるご領主さまの厚意であって、決してミレイ妃のお陰ではない。
そもそも当時のミレイ妃は年端もいかない、我儘しか通らない年齢だった。今は妃として後宮にいるが、女の園を一歩出れば何の決定権も持たないただの女だ。
こんな暴言を堂々と吐くミレイ妃だから、皇帝が後宮に通いたくなくなるのも理解できる。
今頃ミレイ妃はウルハの命令通り、大きな壺にすっぽりと嵌め込まれているだろう。
壺によるお仕置きはクユリも子供の頃に経験している。
小さい頃なので、大きな壺の中にすっぽりはまって抜け出せなかった。なので昼寝をして時間を潰したものだ。
壺のお仕置きなら受けても平気だが、ウルハは甘くない。自分にはいったいどんな沙汰が下されるのだろうか。
クユリは覚悟を決めてウルハを見上げていた。
土の上に正座して反省するクユリの前に、腕を組んだウルハが機嫌良く仁王立ちしていたのだが。
巻物の件を口にした途端、ウルハは真顔になるとおもむろに片膝をついて身を屈めた。
長い腕が伸び、殺される恐怖に身を竦ませると、ウルハの硬い指の腹がクユリの頬にほんの少しだけ触れる。
「これでは陛下を笑えませんね」
「はい?」
「あなたに予定外の傷をつけてしまいました。私の人生で最大の失敗です」
傷と言われ、ミレイ妃に扇で頬を叩かれたのだと思い出す。
か弱い力で叩かれただけだ。大した痛みもない。
「これくらいのことは――」
大して痛くもないクユリの頬を眺めたウルハは、痛ましそうに眉を寄せた。
「赤くなっています、扇で叩かれたのですね。痛かったでしょう。可哀想に……」
ぞぞぞぞぞ……!
恐怖で全身の毛が立った。
「どっ、どうなさいました!?」
ウルハが心配だなんて新手のお仕置きか!?
巻物が踏まれた償いはいったい誰に償わせるということだ!?
自分だよな。巻物を託されたのはクユリなのだから自分以外にいないよなと自問自答するが、クユリにはウルハの考えが読めない。もともとが読めない人なだけに怖い予感がしてたまらない。
「かつて陛下があなたの額に傷をつけた時、慌てていた理由が分かったような気がします」
「ウルハ様、どうかお気を確かに!」
「気は確かです」
ウルハは更にクユリに身を寄せると、赤くなっている頬を掌で覆った。
恐怖に慄くクユリは咄嗟にウルハの手を払いのけてしまったが無意識だ。
「そっ、それよりもこれよりも何よりもっ!」
何か話題を変えなくては心臓が止まりそうだ。
「どうしてこうなったのか状況を説明してください!」
こんな滅茶苦茶な事が起きるなんてウルハが企んだとしか思えない。
迫るウルハから逃れるために付き飛ばそうとしたが、華麗に避けられたせいで前のめりになって地面に手をつく。
「状況とは?」
「堅く守られた後宮からミレイ妃が抜け出せたこと、見張りが一人もいなかったこと。途端に現れたこと。遡るとウルハ様が仕事部屋を変えられたことや、重い巻物をリン様を合図にするようにして運ばせたことも。もしかして謁見の前から計画されていましたか!?」
ミレイ妃は変な色の官職がいたと父親から聞いたのだ。
クユリの特徴は二人といない稀なもの。男の姿をして偽っても目に止まるのは当たり前のことだ。そしてミレイ妃の父親は北を治める領主である。
領主といえばつい最近行われた謁見。
五百人を集めて大々的に行われたあの謁見だ。
「惜しいですね」
「惜しい?」
「あなたに兵法書の指南をした時からですよ」
「そんな前から!?」
「頭が良く、健康で多産の家系ですしね」
「まさか!?」
リンが言っていたではないか。ウルハはクユリを皇帝の妃に進言したと。
「そのまさかですよ」
「阿呆ですか!」
クユリに妃は無理だ。
その他大勢の戯れとして扱われるなら有り得るが、皇帝は無暗矢鱈と女に手を出す人ではない。どちらかというと、苦手。
妃は皇帝の子供を産む為だけの道具ではなく、職業の一つと言ってもいいものだ。それには確かな生まれと後見となる親、教養、知力体力洞察力諸々、全てが必要になる。一つでも足りないと跡継ぎを問題視されたり、無駄に後宮の妃を増やさなければならなくなったり、皇帝の地盤が揺らいだり。
妃は皇帝の足を引っ張るような女ではいけないのだ。瞬く間に不満が噴出して、有力な臣下を失う羽目になる。
「阿呆とは……私に最も縁遠い言葉かと思っていましたが。成程、阿呆ですか。あなたに言われてしまうとは」
「失言でした!」
速攻謝るが、ウルハは楽しそうに「私は阿呆なのでしょう」とクユリの言葉を認めるように頷く。
「私はきちんと手続きしてファン家よりあなたを頂戴しました。失敗作であるミレイ妃を退ける算段も立てましたが……無能な妃があなたに傷をつけるのは予想の範囲外でした。成程、確かにそうですね。私はあなたの言う通り阿呆です」
「ごめんなさい、お許しください。ウルハ様、どうか正気に戻って下さい!!」
ぎゃあぎゃあ喚いていると、ここから遠く離れた執務室で仕事をしているはずの皇帝が駆けつけて来るのが見えた。
「陛下、ウルハ様が変です。お助け下さい!」
駆けて来る皇帝に助けを求めると、皇帝は「ウルハ!」と怒鳴る様に名を叫んだ。
皇帝から伸びた腕がウルハの胸ぐらを掴み、体ごと側にあった立木に追いやると、握られた拳がウルハに――ウルハの顔の真横を殴りつけ――殴られた木は幹ごとへし折れる。
ずどぉぉぉん……と、折れた木が倒れた。
え、人間が拳一つで木を倒してしまうのか?
クユリは驚きのあまり瞳を瞬かせる。
もしかしたら皇帝は人ではなく、本物の神様か何かなのかもしれない。