まだ死ねない
近頃ウルハは執務室を変えた。
以前は皇帝の執務室にかなり近い場所だったが、仕事部屋をいくつか持っているウルハは、そのうちの一つに拠点を移したのだ。
皇帝に近い方が仕事がしやすいはずなのにどうしたことか。ウルハは無駄を嫌うので考えがあるのだろう。いらぬ詮索をしても結果は見えているので、クユリは黙って従うまでだ。
部屋を移したこともあり、クユリはここ最近皇帝に会っていない。
寝泊り用に与えられた部屋があるので、本を読む時に昇竜が描かれた部屋に行くことがなくなった。
仕事で顔を合わせないと皇帝との接点がなくなるのだなと気付かされる。
あの部屋で本を読むのは今更だろうか。
そもそもまだあの部屋を使う許可が続いているのかも疑問だ。
ウルハと同じ部屋で仕事をしながらそんなことを考えていると、不意に影が差したので顔を上げる。いつの間にか部屋の中にリンが立っていた。
リンは音もなく現れる。音を出すのが苦手なのか、基本的に気配のない少年だ。
防寒のために袖の中に仕舞っていた手を出すと、「ウルハ様」と部屋の主を呼んだ。
リンの呼びかけにウルハは一つ頷いてクユリの名を呼ぶ。
呼ばれたクユリが「はい」と答えれば、ウルハは盆の上に置かれた大量の巻物を示した。
「図書室に戻してきて下さい」
「承知しました」
「大切な巻物です。くれぐれも注意してください」
「はい、ウルハ様」
聞かれたくない話でもするのだろうか。
リンがやってきた途端に用事を言いつけられ、盆を抱えて冷える外に出る。
一つ一つの巻物は大した重さではなくても、沢山集まるとずっしり重い。巻物は要人たちの家系図で、しばらく前からウルハの机に置かれていたものだ。
ウルハが巻物を持って来た時、クユリは暗記するように言われるのだとばかり思っていたが違った。
「もしかして自主的に覚えろって意味だったりして」
もしそうなら完全に失敗だが、ウルハの側は忙しすぎるので巻物に触れる間もなかった。趣味の読書や寝る時間を削ればできなくもなかったが、そこまで鬼ではないだろう。
「いや、でも。鬼かも知れない」
不安になったクユリが重い盆を抱えたまま立ち止まって考えていると、ここでは聞く筈のない高い声が耳に入って来たのでそちらに顔を向けて驚いた。
「あれはもしや、ミレイ妃と取り巻きたちでは!?」
後宮から出ることが許されない女達が、どういう訳か男ばかりの場所を集団で歩いていた。
向こうもクユリに気付いたのか立ち止まり、何やらひそひそと話して相談をしているようだ。間もなく女達は再び歩みを始めると、クユリがいる方へと進んで来た。
各所に配備された護衛は何をしているのか。
そもそもどうしてミレイ妃たちは後宮を出て来たのか。
祭事があれば出ることを許されるが、そのような予定はどこにもないとクユリは記憶している。
辺りを見回しても見張りがまったく見当たらない。どういう訳か分からいまま、近付く人の集団をやり過ごすために、クユリは重い盆を持ったまま頭を下げた。
官服と冠で最下層の見習いと気付いたからだろう。美しく着飾って鼻を高く上げたミレイ妃が、頭を下げてやり過ごそうとするクユリの前を通り過ぎようとして……足を止める。
「お前、顔を上げなさい」
これは従っていいのだろうか。
官服を着ているのも、後宮を出て男ばかりの世界にいるのも全てはウルハの指示によるものだ。クユリはミレイ妃の物ではなくなったので、ここにいることをミレイ妃に咎める権利はない。
だからと言って、皇帝の妃を無視して許されるかといえば違うだろう。特にミレイ妃を無視したらより一層面倒なことになりそうだ。
「顔をお上げと言っているの。そこの、汚らしい髪の色をしたお前に言っているのよ。さっさと顔を見せなさい」
ウルハに言われたら凹んでしまう毒のある物言いも、ミレイ妃の口からでは何の衝撃も受けない。恐らくそれはミレイ妃に中身がないからだ。クユリ自身がミレイ妃の持っている物のうち、何一つも羨ましいとか、尊敬するとか、琴線に触れるものが何もないからだ。
共感や感銘を受けるものが何もない、だからそんな相手に何を言われても堪えないし、傷つけられても傷つかない。
そう考えるとウルハは素晴らしい上司だ。
ここで顔を上げてウルハに何かしらの面倒をかけてしまわないだろうか。
クユリは無能な女の集団を前にして、切れる上司から今後も指導を受ける為にはどう回避するのが一番だろうと、頭を下げたまま考える。
ここは最下層の見習いを貫こう。
皇帝の妃の顔を見るなんてとんでもないと意思表示するため、クユリは重い盆を抱えたまま腰を落とし、両膝をついて更に頭を下げた。
声を出したらクユリだと分かってしまう。髪の色から既にばれているかもしれないが、宮殿内で女が住まうのは後宮だけという常識がある。普通は官職に女がいるとか、男装しているとか考えない。
このままやり過ごせないだろうかと、クユリは希望的観測を胸に抱いて口を噤み頭を下げた。
しかしクユリの行動はミレイ妃の怒りを募らせたようだ。
ミレイ妃にとっての正解は、彼女の言葉通りにすることだけ。
頭を下げたクユリの目に、衣の内からミレイ妃の爪先が映り込み、手にした盆ごと蹴り上げられた。
「ひゃっ!?」
流石に避けられない。
抱えた盆ごとひっくり返り、数多の巻物が散乱する。
大切な巻物だ、くれぐれも注意するよう言われた、大切な巻物だ。
とんでもないことになったとクユリは声にならない悲鳴を上げ、土に落ちた巻物を拾い集めようとしたが、女達に体を拘束されてミレイ妃の前に曝される。
「やっぱり!」
ミレイ妃は目を吊り上げて鬼のような形相をしていた。
「お父様が変な色の官職がいたと言うからまさかと思ったけど。いったい誰に取り入って陛下のお座所に忍び込んだの。この恥晒し!」
クユリはミレイ妃が手にした扇で頬を打たれるが、それどころではない。地面に散らばった巻物の一つにミレイ妃の足が乗っていたからだ。
「やめてください、大切な巻物が!」
「お黙りっ。勝手にいなくなって逃げたと思ったら、男の姿で御上を謀るなんて。お前のようなおかしな娘を輿入れに同行させたのが間違いなのよ。陛下のお渡りがないのはお前のせいよ。それなのにとんでもない馬鹿なことをしでかして、露見すればわたくしが咎められてしまうじゃないの!」
お門違いの激しい怒りと罵倒が飛ぶが、何一つクユリには届かない。
ミレイ妃の怒りや暴力はクユリにとって恐ろしいものではなかった。
今、クユリを最も恐れさせているのはウルハだ。
「ミレイ妃、足をどけて!」
クユリは拘束する女を振りほどき、巻物に乗ったミレイ妃の足に飛びついた。
「ウルハ様に殺される!」
ここで死んでは未練たらたらだ。
ここでは死ねない、まだ死ねない。絶対に死ねない。古書殿の本を読むまでは死んでも死にきれない。未練を残し、幽霊になって出て来る自信しかない。
幽霊では本をひらけないではないか!
そんなのは絶対に嫌だと、クユリはミレイ妃の足に縋り付く。そんなクユリをミレイ妃の侍女達が引き剥がそうと一斉に襲い来るものだから、団子のようになって何が何やらもみくちゃだ。
いつもは静かな宮殿の一角で、女たちの戦いが繰り広げられた。