ギョクイ様
クユリは自分がいったいどのような理由で後宮をクビになったのか知らないが、戻れないのは確実だ。
何しろ官服(男物)を着てウルハの側……かつ皇帝の側に仕えるようになって二月、既に季節は冬。ここまで来ると後宮には二度と戻れないのだと嫌でも悟っていた。
べつに戻りたいわけではない。
洗濯女でも、ミレイ妃の傍らに侍るでもどちらでもいい。
失敗を許してくれなさそうな、気を抜いたら背中に『無能』と張り紙でもしそうなウルハに仕えるにしろ……古書殿の貴重な書物を読めるのなら、何処で何をしていようとクユリにとっては問題なかった。
仕事は順調。
時に無理難題と思える仕事を与えられ実力を試されたりもするが、頭を使うことでウルハに叱られることはない。それ以外ではままあるが、それなりに問題もなく順調である。
男装では後宮に入れないし、既にミレイ妃の物でもなくなっているので、住まいはウルハの屋敷になった。しかし滅多に帰ることはなく、皇帝の御座所の隅っこにある、リンの部屋の隣に仮の部屋を与えられていた。
気になるのは、一生男の人として過ごすのかということだが、それでもまぁ、古書殿の本を読めるのなら文句はない。
女として生まれたからには、綺麗な着物や化粧にも興味がないわけではなかったが、貴重な本とは比べるまでもない。
と言うよりも、官服を着て宮殿で、皇帝陛下のお側に侍り仕事を与えられる今。男装しているが、女としても自立して一人で生きていける好機ではなかろうか。
これはクユリの望んだ将来設計まっしぐらの道ではないのか?
後宮に勤めている時にはお給金なんて貰っていなかったが、ウルハからはきちんと相場に則った給金を与えられている。しかも古書殿の書物つき。破格の待遇である。
「幸せ――」
「うん、何か言ったかい?」
「いいえ、何でもありません」
クユリの呟きを拾った皇帝が、書類に印を押したままクユリを見ていた。
これがウルハであったなら、『無駄な呟きが漏れるほど暇なようですね』と仕事を増やされ、大切な読書の時間が無くなってしまうのだ。
クユリは気合を入れると、止まっていた筆を進める。
与えられた仕事は、明日の朝までに目録五百部を清書すること。
とんでもない数だが、文句は言えない。
明日、国中から各地区を治める領主や要人が皇帝の御機嫌伺にやって来る。彼らに記念として与える品々の目録を清書しているのだ。
記念の品が何であるかは彼らの手に渡るまで秘密にされる。よって目録の清書は専門家ではなくウルハ自らがやっていたが、今回はクユリの仕事となった。
それを皇帝の執務室でやっているのは、あまり人目につかないよう配慮されているからだとクユリは思っている。
明日の準備のため忙しいウルハは姿を見せない。これまでは五百部の清書もウルハが一人でやっていたなんて……どれだけ仕事の出来る人なのだろうとクユリは感心する。
ウルハのような人に認めてもらうのはなかなか難しい。見限られたら即解雇で間違いないと、宮殿から追い出されたくないクユリは黙々と清書を続けた。
丁寧に、素早く必死に筆を走らせるクユリの視界に湯呑み茶碗が映り込む。
手を止めて視線を向けると、茶碗の中で緑色のお茶が湯気を上げていた。
「少し休憩しないかい?」
「陛下っ!?」
皇帝がクユリの為にお茶を入れてくれていた。
驚いて筆を取り落としそうになり、慌てて筆置きに戻す。
「わたしが気付くべきことです、申し訳ありません」
立ち上がって頭を下げると、皇帝はクユリの肩を押して座っていた椅子に押し戻す。
「気にすることはない。二人きりの時は皇帝と臣下ではなく友人でいよう」
「皇帝陛下……」
なんて優しいお言葉だ。
生まれも育ちも流れる血も違うのに、毛色の異なる嫌われ者の自分にこれ程優しい人が他にいるだろうか。
クユリを大事に育ててくれたが、その両親ですらもっと雑に扱うのに、皇帝は身分の垣根を取り払い、お茶まで入れて気遣いを見せてくれる。
「わたしは陛下の治世に生きることを深く深くふかぁ~く、感謝します」
「ありがとう。でもね、二人きりの時は友人でいて欲しいと、私自身が思っているのだ。分かってくれるかい?」
「勿論です!」
有り難い言葉を頂戴して拝むクユリに、皇帝は困ったような、何処となく寂し気な微笑みを湛えたあとでお茶を勧めた。
「皇帝陛下に入れて頂いたお茶……勿体無くて飲めない。ああでも、飲まないと勿体無いですね」
湯気を上げるこのままの状態でお取り置き出来ないだろうか。
皇帝は自分の椅子を持ってくるとクユリの側に置いて座った。
「大げさだよ、ただのお茶だ。ウルハとリンにも時々入れている。二人共当たり前のように飲むし、熱いとかぬるいとか苦いとか、常に文句を言ったりする。クユリは優しいね」
「だって皇帝陛下が入れて下さったお茶ですよ、家宝にしてもおかしくありません。ああでも、飲まないと……」
クユリは湯気を湛える湯飲み茶わんの中をじっと覗き込んだ。
他人に好意的な何かをしてもらうのには慣れていない。
透き通った緑色のお茶を眺めていると、何故だか目にじんわりと涙が滲んだ。
「クユリ?」
「なんか、嬉しくて。ありがとうございます、ギョクイ様」
零してしまわないよう、涙を拭って見上げると、皇帝は驚くと同時に目元を赤く染めていた。
「友人と仰ったので名前を……お嫌でしたか?」
「いっ、いやっ。何度でも。一日に百回は呼んで欲しいくらいだ!」
叫ぶかに言い放った皇帝は、手にした湯気の立つお茶に慌てて口を付けると「熱っ!」と吐き出してしまった。
湯気の立つ熱々の入れたてのお茶だ、よほどの熱いもの好きでなければ火傷するだろう。
どうやら皇帝はクユリに名前を呼ばれて慌ててしまい、お茶の温度を忘れていたようである。
本当に名前で呼んでよかったのだろうか?
布巾で零れたお茶を拭ってやる。すると皇帝はとても嬉しそうにしていたので、まぁ、呼んで良かったのだろう。
皇帝は特別な存在だ。
ただ一人の人であるが故に、帝位につくと名前が必要なくなる。けれど皇帝は、自分にだけ名前がないのは嫌なようだ。
これからもしっかり呼ぶことにしよう。
貴重な本を読ませてくれるお礼と思えば、無礼だと叱られることがあっても平気である。