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盥に乗って



 闇から光へ移行する早朝。

 東の空が茜色に染まる頃、クユリは誰よりも早く起きて小川に出ると洗濯を始める。

 夏の日差しが辛いからではなく、人に見られる可能性が少なくなるからだ。


 レイカン国にある人々の髪は黒く、瞳は黒に見紛う焦げ茶色が当たり前。

 しかしクユリの髪は灰色がかった緑褐色。うぐいす色と言えば聞こえが良いが、実際にはただの乾いた土色だ。

 椿油を塗っても黒髪のように艶の出ない、みすぼらしい色。

 さらに瞳は黄色と茶色が混じりあって、光の加減によってはくすんだ緑に見えてしまう。

 世間の誰とも同じでなく、親兄弟とも異なる色のせいで『拾われっ子』と揶揄われて育った。

 卑屈になることもある。それでも大抵のことには負けない精神と、上手く立ち回る術を身に付けることが出来た。


 幼い頃より髪色のせいで揶揄われ、瞳の色のせいで気持ち悪がられる。

 つぶてを投げられ怪我をした経験も数えきれないが、これが自分だから仕方がないと納得していた。

 土色の髪にくすんだ色をした瞳は、死んだ人間が土の中から蘇った印象を与える……と、クユリ自身も思っていた。


 痛かったり怪我をするのは嫌なので、極力目立たないよう努めたが、布で髪を隠しても人前に出るのが嫌だとは思わなかったし、瞳を長い前髪で隠しても、皆と同じ瞳の色であればいいとは思わなかった。

 ない物ねだりをしても変わらないので無駄と分かっていたからだ。


 クユリは今年で十八歳になる。

 世間では嫁に行って子供がいてもおかしくない年齢を過ぎていたが、変わった色を持ったクユリを嫁に望んでくれる男は生まれ育った村にはいなかった。

 それについてもクユリは、小さなころから予想していたので悲嘆に暮れたりはしない。

 何しろ礫を投げられるような見かけだし、両親が『嫁の貰い手がないかもしれない』と嘆くのを聞いて育ったのもある。

 何もかも成程と理解していた。


 クユリは早い時期から一人で生きて行く可能性を考慮して、手習いや勉強をサボることなく、あらゆる知識を求めて自立を目指した。

 男に頼って生きるのではなく、一人で自立して生きるのも悪くない。

 女が自立するのは難しいが、努力して男の何倍も何十倍も知識を身に付ければ、男と同等に見てもらえると信じたからだ。


 クユリは運よく小金持ちの家に生まれた。

 兄弟姉妹が十人もいたが、父親がしっかり働いてくれたので金銭的に不自由することなく、望めば女にも学ぶことを許してくれる両親だった。

 学のある女が嫌われる時代では珍しいことで、クユリは姿に恵まれなかったが、とても良い両親に恵まれたと感謝している。


 だからクユリは下を向かずに前を向いて生きて来た。

 望みは天寿を全うして、気の合う仲間に看取られること。

 夫も子供もいらないが、心から信頼し合える友人は欲しかった。


「それなのに、わたしはどうしてこんな所で下を向いているんだろう……」

 

 早朝の冷やりとした川の水に洗濯物を浸しながら呟く。


 今クユリがいるのはレイカン国の宮殿だ。

 宮殿。

 都にある、まつりごとの中心。正真正銘まさに政治の中心。

 全力で走っても走り切れない広場に始まり、幾つもの門に建物。皇帝陛下がお住まいになる御殿も宮殿内にある。


 勉学に励んだクユリもいつかは官職を賜ってみたいと憧れた。

 政治に携わりたいとは思っていないが、学者として貴重な文献を読める立場を得るために、黄金に輝く宮殿で働いてみたいと。


 今クユリはまさに憧れの宮殿で仕事をしている。

 夢が叶ったと喜ぶべきである。

 確かに宮殿で働く夢は叶ったが、官職を賜ってのことではないし、学者としてでもない。洗濯女としてだ。

 皇帝の妃たちが集う後宮で、洗濯女として働かされているのである。あらゆる学を身に付けているクユリには役不足な場所だ。

 これまで学んだ知識や学力など必要としない洗濯女として『働かされている』のだ。

 

「わたしの努力は何だったんだろう。古書殿に行く事も出来ないんじゃ、宮殿にいても何の得にもならないってものよ」


 クユリが生まれ育った一帯を治める領主の娘が、皇帝の妃の一人に選ばれた。

 頭が良く見た目が他と異なるクユリは、皇帝の気を引く道具の一つとして、嫌だと返事をしたのに聞き入れてもらえず、無理矢理一行に加えられ、攫われるように宮殿にやって来たのである。


 当初は妃となったミレイの側にいたのだが、肝心の皇帝は後宮に足を運ばない。

 つまり、ミレイ妃の元にも足を運ばない。

 短気で癇癪持ちのミレイ妃は、すぐ側にいる毛色の変わったクユリを虐めて遊ぶようになった。


 虐められるのには慣れていたが、女しかいない場所で敵に囲まれるのは命の危険もあって良くない。

 ミレイ妃の側を離れたクユリは頭を布で隠して人目を避けた。

 礫が飛んでくるのは構わないが、クユリの顔に嫉妬して傷をつけて来ようとする輩がいるから下を向いた。

 毒のついた小刀で顔を傷つけられそうになった時は流石に怖かったからだ。


 そう、クユリは自分で思う以上に美しい顔立ちをしていた。

 髪と瞳の色にばかり注目が集まっていたが、十人問われたなら七人がクユリは美人と答えるだろう。

 まぁその程度ではある。

 絶世の美女ではないが、平均値よりも確実に上だ。

 侍女たちはミレイ妃に厭われたクユリで、窮屈な生活の憂さを晴らそうとする。

 何しろ後宮と言う場所は入ったら最後、皇帝の許しがなければ出ることが出来ない恐ろしい場所であるのだ。鬱憤も溜まって当然だが、矛先は別に向けて欲しかった。


「あぁ、せめて本が読みたい。古書殿になら喜んで閉じ込められるのになぁ」


 古書殿は宮殿の一角にある、歴史書や文献といった古い貴重な書物を保管している場所だ。官職についたら配属を希望すると夢見ていた場所だ。領主の命令でしかたなく攫われるようにやってきたが、もしかしたら古書殿に入れるかも知れないと小さな希望を抱いていた。


「洗濯女じゃねぇ……」


 もしミレイ妃が皇帝に気に入られ、クユリの珍しい見た目が皇帝との会話を盛り上げるのに一役買いでもしたなら。いつか許されるきっかけになるかも知れないと淡い期待を抱いていたのだ。

 しかしミレイ妃に厭われた洗濯女ではどうしようもない。


「ん?」


 ふと顔を上げると、小川の向こうから何かが流れて来るのが見えた。


「あれは何、たらい?」


 目を細めると大きな盥のようだが、誰かが乗っている。

 どんぶらこ~どんぶらこぉ~と、小川を流れて来る盥。

 盥が近付くと、白い寝衣を身に付けた男が乗っているのが見えた。


「おや、あれは……」

「やぁ、おはよう」


 クユリに気付いた男が爽やかに手を振り、クユリも思わず振り返してしまう。

 盥に乗っているのは若い男だ。

 体格が良いせいで大きな盥が小さく見える。

 クユリは盥に乗る男を知っていた。

 頭が良いせいで一目見た人間は忘れない。故郷で彼を見た記憶がある。二度目は宮殿で、遠く離れた場所からだったが、くっきりした眉に細めの眼、高い鼻に薄い唇には確かに見覚えがあった。

 

「皇帝陛下ではございませんか」


 どうして皇帝が盥に乗って小川を流れているのか。

 呆気にとられたまま声が出る。


「濡れたくないんだ、助けてくれないか?」


 濡れたくない皇帝に代わって小川に飛び込むと、水をかき分け盥を掴んで引っ張る。


「ああ違う、そっちは駄目。妃に見つかったら大変だ。対岸に渡しておくれ」

「かしこまりました」


 小川の一番深い場所はクユリの胸まであったが、流れが緩やかなので何とか反対側へと盥を押しやり、皇帝を濡れないように陸にあげることに成功した。


「ありがとう、助かったよ。褒美を取らせよう」


 まさかこんな所に幸運が転がっていようとは。洗濯女も捨てたものではない。


「古書殿への入室許可を!」

 

 遠慮なく声を上げると皇帝は一瞬怯んだようだが気にしない。

 期待の籠った眼差しを向けると、皇帝は苦笑いを漏らした。


「古書殿なんて、あんな臭い所。女性は好まないと思うよ?」

「古書の匂いは大好きです!」

「へぇ。でも古書殿は秘密が多いから駄目だ」

「そんな……」


 がっくりと項垂れたクユリに「他の望みを」と皇帝が問うが、他に望みなんてない。クユリは首を振ると、皇帝の許しも得ずに小川に入ってもといた場所に戻ってしまう。

 対岸に戻ったクユリが顔を上げると、寝衣に身を包んだ皇帝はいなくなっていた。






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