暑い夏の、ある一日
「佐藤三郎さん、終わりましたよ」
受付の人に呼ばれ、しぶしぶ冷房の当たる位置の長椅子から立つ。そして外来と書かれた立札を横目に見ながら、会計に向かって歩いて行った。近くの窓から照らす夏の日差しが、ふてくされた男の身体に痛々しく降り注いでいく。
ポケットから貰い物の財布を取り出す。古びた財布から、しわがれた万札が顔を出していた。
ああ、それにしても今日はなんて暑い日なのだろうか。妻に追い出されるかのように定期検診を受けに来たのだが、こんな日にしたのは間違いだったに違いない、と心の中で自分を責める。
妻も妻で、前に少し体を悪くした程度で心配性な奴だ。自分のような輩を心配するなら、その弾力のある二の腕をなんとかした方がよいだろうに。
そんなことを考えている内に、会計に着く。
そこには、若い女が営業スマイルで突っ立っていた。
「佐藤三郎さんですね」
鬱陶しい確認に、苛立ちを覚えつつ頷く。卓上にはカエルのマスコットがアホな面構えで突っ立っているのが見えた。
「本日のお会計、12300円になります」
はきはきと述べる女の表情は全く変わらない。無表情の方がまだ愛嬌があるに違いない。
無言で、札を投げた。
「はい、ではお釣りの7700円のお返しです」
笑顔で返された釣りを財布に突っ込み、ズボンのポケットにしまう。なんでこんなことに酒代のはずの金を大量に使わなきゃならんのだろう。心の中で愚痴を吐き、軽い圧迫感を感じている尻をマスコット女に向けた。
ふと、自分がいた長椅子を見る。
そこには、息子の祐樹と同じぐらいの餓鬼がいた。こちらに気付いたようで、俺に向かって微笑みかけて来た。うざったらしい餓鬼だ。病院でなければひねりつぶしてやりたい位だ。軽く舌打ちをして、足早に自動扉をすり抜けていく。その瞬間、熱気の籠もった空気が、涼んだ体を包み込んだ。
しかめっ面をしながら、照り返すアスファルトの中を進んでいった。
聞きなれた電子音が、耳を通り抜ける。同時に、涼やかな風が蒸れた男の身体を冷やしていく。中に陳列されている、色彩鮮やかな商品達が目に飛び込んできた。心地よい空間に、外の熱に苛められた心がほぐれていく。
「いらっしゃいませー」
レジ周りにいる店員が、こちらに脇目も振らずに言った。その声に安堵しつつ、近くにあったカゴを持って店の奥へと向かう。雑貨や本等には目を奪われないようにしながら飲料コーナーにたどり着いた。
有名なブランドの茶やコーヒー等が並んでいる中、祐樹がよく飲む茶を手に取りカゴに入れる。
「お母さん、コーラ買って買って!」
隣では、ちびっこが母親に飲み物をせがんでいた。
母親は少しの間断っていたが、すぐに
「今日だけよ」
と折れてしまっていた。コーラを手にもって仲良く手をつなぐ親子に、聞こえないように舌打ちをし、酒のある方へと向かう。勢いのまま黄色いラベルの束を2つ、カゴに放り込む。
そして首を回し、軽くあたりを見回してからレジへと向かう。
「俺このチョコバーな」
「じゃ俺はバチバチ君買ってくるから」
レジの前のお菓子コーナーに、二人組の餓鬼がいた。買うお菓子の相談をしていたようだ。その内の一人が、会話に夢中のまま氷菓子コーナーがあるこちらへと走ってくる。気付いたところでここは狭い通路である。避けようがない。
「外で待ってろよ、絶対だからな!」
大声で騒ぎつつ、脇目しか振らずに、こちらへぶつかって来た。胸部と腹部に軽く衝撃を受ける。
餓鬼は驚いたようで、俺と目を合わせてきた。一瞬気まずそうな顔をしたが、何も言わずに氷菓子の方へと向かっていった。引っ張り倒してやろうかと考えたが、その気力も湧かずに、お菓子の横を通り過ぎていく。
レジ前でホットスナックを軽く覗く。そこには祐樹の好物である衣色をした油物がたくさん並んでいた。金がないことを嘆きつつ、レジにカゴを置く。奥で仕事をしていた店員が、その音に気づいて対応しに来た。
青色のカゴを手に取り、無言でレジ打ちを始める。商品のバーコードを読み込む音が、俺と店員のいる空間を形成していく。
「3537円です」
値段を淡々と告げ、酒と茶をレジ袋に詰めていく。この手際の良さはあのカエル女には真似できないだろう。
少し気分がよくなり、ポケットから音が鳴るようになった財布を取り出す。丁寧に、札と硬貨を取り出してレジの前に置いた。
「3600円で、63円のお返しです。ありがとうございました」
事務的な調子で、レシートにお釣りを包んで渡してきた。それをこぼしそうになりつつ、財布に入れる。また軽くなった財布をポケットに戻した後、重みを感じるレジ袋を持ち上げる。すでに店員は仕事に戻っていた。店の中とは対照的な外の世界のことを考え億劫になりつつも、出口の方へと歩み出ていく。
自動扉から丁度出た所に、先程のチョコバーの餓鬼と、先程見なかった新顔の餓鬼がいた。その餓鬼はこちらの目線に気付くと、病院にいた餓鬼と同じ表情で笑いかけてきた。
なぜ笑いかけてくる。どうしようもない苛立ちを感じる。無理やり目線を逸らし、固まりかけていた足を強い意志で動かす。
後ろは振り返らずに、家への帰路をたどっていった。
見慣れた電柱の並びの間から、剥がれかけの屋根が覗いている。通りには人影が見当たらなかった。暑さで家の中に籠もっているに違いない。それなのに、俺は何故このような灼熱の道を進んでいるのだろう。
電線の上では、カラスが騒々しく泣き叫んでいた。電柱の角に破れた袋の残骸が見える。あのカラスが荒らしたのだろう。俺も荒らせるならそうしてやりたい。
昼下がりの熱気に身を委ねたくなりつつも、壊れた屋根へと歩みを続けていく。
そうして家も目前になったとき、電柱の陰から餓鬼が再び姿を現した。
「なんなんだ、お前は」
初対面の餓鬼に、躊躇いもなく言葉をぶつける。
餓鬼は、何の反応も示さずに、変わらず笑いかけてきた。
「本当になんなんだ。俺に何か用か?用ならはっきり言え、クソ餓鬼」
苛立ちを隠さずに口に出す。本当にむかつく餓鬼だ。邪魔をするな。俺はさっさと帰って酒を飲みたいんだ。
しかし、餓鬼は何も言わない。口を結んだまま、延々と変わらずに笑顔を浮かべていた。
その態度に、俺は怒りが込み上げてきた。
「クソ餓鬼、お前いい加減に…」
「何、家の前でごちゃごちゃ言って」
怒りをぶつける直前、妻が玄関から顔を出した。ふてくされた顔でこちらを睨み付けている。その表情に少し気圧されつつも、感情の起伏を抑えて餓鬼を指さした。
「この餓鬼がずっと笑顔で迫ってくるんだ。なんとかしてくれ」
それを聞いた妻は一瞬固まり、指をさした方を一瞥する。
そして何事もなかったかのように踵を返した。
「早く家入んな。どうせまたビール買ってきたんでしょ」
その雑な態度に俺は感情を抑えきれなかった。
数年来の大声で妻に言い放つ。
「何故だ、何故そのような態度を取るんだ、人がなんとかしろといっているのに」
その声に、妻はこちらを見ないまま、鋭く一言で返した。
「祐樹は居ない。もう何回も言ったでしょう」
夏の熱気が、身体をすり抜けていく。電柱の陰には、喧しい蝉の鳴き声だけが響いていた。
お読み頂きありがとうございます。
少しでも良いと感じて頂けたら感想、評価等頂けると作者の励みになります。