凡庸な父親のありふれた喜びを記す
前日の昼、すでに出産予定日を過ぎていた妻は、入院したあとに残された家族が食事に困らないよう、餃子を包んでいた。最初は、尿意なのか陣痛なのかわからなかったという。連絡を受けて、通いつけている産院まで、車で連れて行き、入院手続きを済ませる。体力がいるから先に夕食をとるようとの医者の指示に、二人での食事はこれでしばらくはできないだろうね、と話した。陣痛の波が次第に短くなるにつれ、これまで一度も弱音を吐かなかった妻がはじめて、ちょっと怖いわ、と呟いた。この呟きは、孤独の深い溜息に似て、自分が入り込む余地のないものだった。励ます言葉も出てこず、勉めて明るい声で、妊娠最後の記念写真をとってあげよう、とポーズをとらせた。まだ時間かかるだろうからベッドで寝てるといいよ、と言って、妻は「待産室」に入っていった。
妻が寝るはずのベッドに横たわる。個室が空いておらず、二人部屋だった。隣はすでに生まれていた。心が浮ついて、スマホの画面に入り込めず、カーテン越しに聞こえる隣の会話や物音に意識が向かう。ささくれ立った神経を逆撫でされているかのような、呼吸ともうめき声ともつかぬ音が聞こえる。干からびた喉が閉塞し、息が吸い込めず、女はヒステリックに切実に男に水を持ってこさせていた。一度、トイレに立ったときは、片手を壁に、片側は男が支え、かろうじて歩行できる状態で、身体の中身が抜け落ちた枯木のように見えた。それでいて、瞳は爛々と獰猛に輝いている。出産直後の憔悴の生々しく野生的な姿は、傍に妻がいないから余計に、不吉なものに映った。姿の見えぬ新生児がぐずるたびに、機械的に「ママはここにいるわ」と繰り返す女に、ふと、子どもは生みの親を認識し、声を聴いて安心するのだろうか、と思ったりもした。
看護師があまりに気負いもタメもなく自然に入ってきたので、立ち会いのために呼びにきたのだろうと身体を起こすと、書類を読み上げるように、何時何分、女の子、何グラム、何センチで生まれたと淡々と報告するので、拍子抜けした。経過観察があるから二時間後に「待産室」まで迎えに来い、とのこと。カーテン越しにおめでとう、という女の声が聞こえ、ありがとう、と返した。出産の壮絶な現場を見ること、おそらく励ますこともろくにできないだろうと、覚悟を決めていたのだけれど、結果だけが、手渡された。ただ母子ともに健康で安堵した反面、「娘」と言われたことに、奇妙な感慨があった。妻が「引き寄せ」たんだ、と。中国では、病院は通常生まれるまで性別を告知しない。跡取りを重視する伝統と、一人っ子政策の弊害で、女とわかると堕胎させるケースがある。実際に妻の妊娠中、定期検査のとき、安定期に入るまで大きくなった子どもを無理やり堕胎させ、母体まで体調を崩して病院に通っている女性患者がおり、妻は憤慨していた。もちろん裏金など、事前に知るルートはあるのだが、それとなく聞いてみて、生まれたらわかるわよ、と医者にやんわりたしなめられる以上に、知ろうとしなかった。妻は何故だか最初から娘だと信じて疑わなかった。胎内で性別が分かれる以前から娘として接していた。しかしお腹が大きくなるにつれ、周りから祝福を受けると、必ず男の子か女の子か、どちらだろうかという話になり、みな口を揃えて男の子だと言った。事前に知ることができないからこそ、様々に推察する文化がある。お腹が大きくなり、後ろから見た時に、明らかに妊婦とわかる横に広がりがあるときは女の子、一見妊婦と分からなければ男の子、また、歩き方や食の好みの変化などいろいろとある。みなが男の子だと言うものだから、なんとなく息子ができるものと思っていた。妻は、男の子だったら好きに名前をつけていいわ、女の子だったら私が選ぶから、と。妻の直感の鋭さに、驚かされたり、辟易したりすることは多いが、このことは、妻の、女の直感という簡単な話で片付けられない妻の覚悟が関係している。少し前、妊娠中の妻を少し脚色して1000文字弱の小説を書いた。
「I was born」
結婚して5年、妻の実家の習慣に合わせて朝食は白米と決まっていた。その妻が、食パンしか食べられなくなった。物忘れが増え、情緒不安定になった。先日は、突然、マイホーム購入に踏み切れない私を詰った。今日も妻は悪阻がひどく、醤油の臭いを嗅いで、トイレに駆け込んだ。それでも、不妊治療をしていたときの眉の辺りに漂っていた憂鬱な焦燥感がなくなった分、表情は柔らかくなった。
スマホに妊婦が使うアプリをいれ、食べてはいけない食品や葉酸のサプリメントなどのチェックに余念なく、就寝前には、今この子、親指くらいの大きさなんだよと、と教えてくれた。寝る前にWi-Fiの電源を切る習慣が加わった。出産に際して必要な費用の算出、産院の選定、自治体の補助から、粉ミルクやベビーカー、おむつなどの必要になる物の書き出し。食パンしか食べない妻のどこにそんなエネルギーが蓄えているのか、不思議なくらい精力的に調べた。
試しに無臭のにんにくを買ってきて、吐いた。下腹が痛いと言う。声をかけることもはばかられ、息を詰めて見守る。わたしはこんなにつらいのに、あんたは何もしてくれないのかと罵られた。肉が捩れ、骨が軋む音を聞いているようだった。妻が妻でなくなる。外的ストレスに起因するのではなく、体内調和の崩壊。身体の内側にある異物は、ごく当たり前に、妻を侵食し、別人にする。
見た目からして妊婦らしくなったころ、悪阻は少し落ち着きを見せたが、今度は腰痛に悩まされはじめた。仰向けで寝ることができず、側臥し何度も寝返りを打ち、夜中にトイレに起きる回数が増えた。そんなある日、妻がダイニングに一人座り、お腹をさすりながら、つぶやいた。妻は寝ている時も無意識にお腹に手を当てる。「ああ、この痛みは、君が与えてくれる希望なんだね」。俯いた拍子に、妻の顔にひと束の髪がかかった。その妻の横顔には、美術館に飾られた芸術品のような凝縮された凄みがあった。峻酷で神聖な美。これほど美しい妻を見たことがなかった。いや、この美しさは妻のものではない。慈愛の母の美しさだった。
生命をつなぐ。妻は、母は、生命の螺旋の奔流と清流にさらわれ、崩れ輝き、生きている。こうして、自分は生まれたのだし、息子はもうすぐ生まれる。
I was born
吉野弘の詩「I was born」が意識の根底にあり、妻が妻でなくなる様子が、怖かった。高齢出産で妻の身に何かあるのではないかと、心配だった。だから小説の語り手のとおり、息を潜めて観察した。その過程で、母親になるとは、子どもを産んだ瞬間からではなく、妊娠の過程で育まれることを知った。そして、覚悟を決めた人間の美しさを見た。妻は強く子どもを望み、前だけを向いた。妊娠中の不調を自分の中でどう折り合いをつけるのか、強靱な意志を示した。過酷と神聖が体内に混在するなかで、前を見据えていた。この覚悟の中で、妻はお腹の中の子どもが娘であることを望み、それを当たり前のこととして、覚悟の中に組み込んだ。妻の欠点であるはずの視野狭窄が、その狭窄ゆえに、彗星のような光り輝く推進力を生み、観る者を驚嘆させた。このような妻の姿に、かすかな既視感があった。
十五年以上も前、大学4年のとき、祖母の癌が発覚した。当時、祖母は、足腰はしっかりしているが痴呆が出て徘徊する祖父の面倒を一人で見ていた。その祖母への降ってわいたような癌宣告に、親戚は一様に動揺した。祖母は実質的に母の実家の屋台骨だった。それは祖母の手術の前か後か忘れてしまったが、ある日、三兄弟の末っ子の母が宣言した。母の面倒は私が見ると。祖母の最晩年は、幸せだったと思う。摘出手術に失敗したあとの小康状態だった一時期、六十年以上も住んだ田舎から離れた祖母は、すべてから解放され、穏やかな顔をしていた。そこには、母の宣言通りの献身があった。母の献身は、自分を犠牲にするものではなかった。祖母を看る、そこに全身全霊をかけ、そして悲壮感の欠片もなかった。笑顔が絶えなかった。田舎にありがちな、親戚連中の見栄や外聞の圧力がどれほどのものなのか、孫世代ではいまいち測れなかったが、母の行動に影響はなかった。根底にあるのは、母の覚悟だった。母自身が信じる祖母にとって一番正しい道を選び、ぶれなかった。祖母は、ただニコニコと母に従った。何が話の端緒だったか、「会ったこともない曾孫たちにまで自分の墓を参ってもらいとは思わないわ」と祖母が言ったとき、窓から祖母に降り注いだ冬の暖かな陽射しを今も鮮明に覚えている。大学院入試を控えていて、誰よりも暇を持て余していた時期に、ただ母と祖母の生活を観た。このとき、母をはじめて格好いい人だと思った。このときの母も、覚悟を決め、まっすぐ前だけを見ていた。
指定された時間に、そわそわと「待産室」前で待っていると、中から赤子の産声が聞こえた。娘はもう生まれているのだから、この泣き声は別の子どもだろうと見当をつけた。扉が開き、名前を確認された。透明のアクリルケースの台車に、娘がいた。病院の使い古された布で蓑虫のように包まれ、安全ピンには「14号」という名札がつけられていた。看護師がベッドを押して出てきた。妻は平気な顔で、「さっきまでよく泣いてたんだけどね」と、上目遣いで娘の方をみた。変わらぬ妻に、安堵した。看護師に娘の乗った台車を押して病室まで行くよう指示される。車輪の床を滑るかすかな振動が娘を傷つけないかと緊張する。いくつかの注意事項を残して看護師が出て行った。何事もなかったかのように話しかけてくる妻の声を聞き流し、こわごわとアクリルケースをのぞき込む。身じろぎもせず眠る娘は、まだ耳のあたりの輪郭がぼやけていた。奇妙な腹の底から沸騰した水のようにポコポコと沸き上がる感情があった。それは今まで体験したことのないもので、自分でもなんなのか分からなかった。妻は憎たらしいほど普段通りに生まれたばかりの娘に接した。
私は不妊治療に消極的だった。妻が治療に通い、薬を飲み、子宮手術するそばで、私の心は右往左往した。十年以上も日本から離れて生活するうち、徐々に辺境に生きる日本人だという感覚が生まれていた。島国という非常に明瞭な国の輪郭の中で、内向きに生活をしていれば、日本人という意識は、肉体感覚ではなく、テレビやネットの世界という次元を隔てたところにあり、普段の生活で日本人を意識することはない。日本に増えつつある外国人の存在は、日本人意識を呼び覚ます鏡ではなく、あくまで異物としか映らない。それが、十年という年月を海を隔てた辺境に暮らし、島国の日本人とは感覚がずれ、合わさらなくなっているのではないかという不安が芽生え蔓延る。日本を日本たらしめるモノは何か、という晦渋で明確な解のない問いを自分にする。日本人を知るためには、昭和の歴史を学びなおす必要があるのではないかとあたりをつけて、歴史書をめくってみる。日本を日本たらしめるのは、日本語文化と象徴としての天皇だ、という仮説を立てて、知人に話を振ってみても、相手の瞳に光が点らず広がらない。辺境の日本人という意識は、心の、どうしようもなく、膝が笑うような発作的震えだった。それでも私は足下から崩れ落ちなかったのは、自分が間違いなく日本人であるという、絶対的な事実があるからだった。私に日本とは何か分からなくても、私が日本人だということは、どんな精神状態に陥っても変わらない。この不変さに、心を預けることができる。
自分の子どもが、私と同じような、救いようのない思索に溺れるとも限らないが、少なくとも自分にとっての支柱である「日本人」であるという事実を、子どもには与えられない。むしろ成長の過程で、自分自身の存在を問わねばならない命題を与えることになる。日本人と中国人の血が流れ、日本人でも中国人でもない。どう教育を受けさせるかにもよるだろう。日本の教育は、敗戦からはじまっており、中国は戦勝国のそれである。私の苦手な「選択」をしなければならない。半分の日本人と半分の中国人である子どもは、どちらに属するのか?日本人である私が中国人の妻との間に作る子どもは、生まれながらにして業を背負う。結局、このようなことは、自分で解答を模索するしかなく、それを見守るしかないのだと、思考することを放棄した。妻のお腹がかなり大きくなってからのことだった。
脳内迷走する中でのもう一つの気づきを、少しメモ代わりに残すことにする。上に記した「日本人」という枠組でのもがきと同時に考えたことは、ある意味で矛盾する内容だった。日本人であることやハーフであること、男女の別もそうだが、結局はカテゴライズにすぎず、どう切り取ろうとも、一人の人間の断片だということ。外見内面のコンプレックスを含め、ありとあらゆる分類を集めた全体こそが、一人の人間を形作る「個性」なのだ。曖昧さを嫌う現代社会は、言葉によって規定し、分類することで、人を理解したつもりになったり、善悪に割り振る。流行りのLGBT問題は、一部の性的少数者を言葉で定義付けし運動することで、マジョリティ化している。それで救われる人がいると同時に、LGBTの分類にも当てはまらないマイノリティが存在する事実がある。社会運動という政治活動は取捨選択がベースにある。分類され区別され差別され取捨選択がある。しかし、人間の「個性」は、言葉で分類されない部分も含めた全体であって、他者を理解することは、理解を超えた想像力が必要になる。これは、若いころから、他人を小賢しく安易に分類し決めつけて、それ以上、理解しようとしない自分自身への戒めでもある。
それにしても、子どもを産むために、これほどの言い訳をしなければいけない自分がいるのである。
娘の髪の毛は、まだ濡れて張り付いていた。生え際はM字だったが、よく観ると額にも耳にも細く小さな産毛が覆っている。目は開かず、まっすぐ一文字で、腫れているように見えるが、顔全体も赤みがかっていた。首まで布にくるまれており、手足の大きさはわからない。安らかな寝顔だという言葉が浮かび、消えた。安らかとはこのような表情だっただろうか。未知の生き物に、自分の言葉が定着しない。微動だにしないものだから、ちゃんと呼吸をしているのか確かめたくて人差し指を小さな団子鼻の鼻先に近づけたが、息を感じる前に、指を引っ込めた。妻が、こちらからは乱暴にみえるほど手慣れた様子で、アクリルケースから娘を抱き上げ、ベッドの上で向かい合うように側臥した。乳を与える。口先にあてがわれた乳首を、それまで身じろぎ一つしなかった娘の口がとらえると、驚くほど力強く、リズムを刻んで吸い始めた。私の驚きに気づいた妻は先回りして、赤ちゃんはお腹の中にいるときから、羊水を飲んで哺乳の練習をしているのだと教えてくれた。お腹の底に沸く感情は、暖かく止まらなかった。
布の中で足が動いている。飽きず眺める私に、娘を抱くよう妻が促す。娘をおそるおそる胸に抱き抱えたとき、先ほどから続く腹の底から沸き上がるモノが何なのか、唐突に理解した。重さがあり、温もりがあり、柔らかさがある。これは「希望」だ。私はこれまで、希望という言葉は、言葉の中にしか存在しないものだと思っていた。魯迅が引用するペテーフィの言葉「絶望の虚妄なるは希望の虚妄なると相同じい」。これが希望という言葉の意味で、すべてだった。心の平穏を愛する私は「色即是空」という理屈が好きで、すべてが「空」であれば、不確かな転落人生で何が降りかかろうと、受け入れることができる。消極的な自己肯定。希望というのは、都合のいいときに使えばいい言葉にすぎなかった。娘の存在は圧倒的だった。重さがあり、温もりがあり、柔らかさがある。距離感を排除して存在している。他者は、自分を映す鏡であり、物差しだ。つまらない人や醜い人に対して、そのつまらなさや醜さが自分の中にもあることをずきりと感じていたし、尊敬できる人に対して、こうはなれないとうなだれた。娘は違う。この小さな生き物には、自分の血が半分は流れているはずなのに、そこから自分を省みることができない。不羈奔放で、存在世界の中心にいる。私の世界の中心に、突如現れた娘は、何か導いてくれるわけでも指し示すわけでもなく、ただ存在し、それを言葉で表すならば、「希望」でしかなかった。私は自分の手で「希望」に触れられることに感動した。半泣きの私をみて、妻が微笑んだ。
この文章を書き始めてから、もうすぐ三ヶ月になろうとしている。娘は寝返りを打ちたい様子で、身体をひねっている。泣き、むずがる原因がお腹空いているのか、眠いのか、おむつなのか、未だに判別できない。妻が出かけて、娘を一人で観ているときは不安になる。病院で娘を抱いたときに感じた希望は、おそらく娘に自我がないからだろうと思う。これから娘が自我を獲得していく過程が楽しみで仕方ない。個人的には、私のようではなく、妻や母のような、芯の強い人間に育ってほしい。まっすぐに。娘を得た父親の気持ちとしては、とても平凡であるのだろうが、それでも、こうして記さずにはおれないほどの、喜びがある。私は、この手記でもって、個人の自由のために子どもを産みたくないという夫婦に、子どもをえる喜びについて説得したいとは思っていない。どこまでも個人的な体験だから。
ただ一言だけ自信をもっていえることがあるとすれば、私の娘はこの世で一番可愛い、これだけだ。
娘を溺愛し家事を手伝うようになった私をみて、娘が私を変えたと妻はと言う。しかし人はそんなに簡単に変わるものではないと思う。妻を観察していて、ワンオペで子育ては無理だと気がついたから、手伝っているだけだ。私の本質である、怠惰は変わらない。娘は絶対に妻や母に似た性格でなければならない。