降臨
<エルフ族長 グリント>
この町に引っ越してきてかて一週間が過ぎ、私たちは今の環境に少しずつ慣れはじめ、それぞれの種族の代表者を決め、重要な会議の際には各代表が中央にある集会場に集まって、物事を決める方針を取った。
今まではエルフの村や獣人の村など、仮の名前しか決めていなかったのだが、今回は八千人というとんでもない人数が集まっているため、その名前では色々と不満が出てしまう。もはや村でなく町だ。
と言っても、今あるのは各部族の集会所と公共食堂とトイレと銭湯、そして見渡す限りの真っ白い豆腐ハウス…ではなく、仮設住宅ぐらいなものなのだが。
驚くべきことに、仮設住宅では水道の蛇口をひねれば無限に水が出るし、窯の横には魔石が埋め込まれており、魔法が使えなくても触れて念じるだけで窯の中が燃えるのだ。料理器具も一通り揃っているので、自炊もしようと思えば出来る。
おまけに今まではせいぜい藁の寝床か薄く固い布以外使ったことがなかったが、手が沈むぐらいに柔らかく、全身を温かく包み込むような布団と呼ばれる寝具。引っ越した初日の夜にはじめて眠ったときは、息子ともども朝まで熟睡してしまい、なかなか起きられなかったものだ。他の部族の皆も初日は寝坊したようで、そのことでお互い照れながら笑いあったものだ。
本当に仮の住まいとはいえ、至れり尽くせりである。
さらに銭湯という施設もはじめて使用したが、温かなお湯で全身を洗うというのは、一度味わったら誰もが病みつきになるのは間違いない。こんなにも気分がさっぱりしたのはいつ以来だろうか。もはや銭湯のない生活など考えられないと言ってもいいだろう。
公共食堂も素晴らしかった。各家庭で自炊が可能にはなっているものの、プロの料理人…には見えないが、メイドさんとたまにロレッタが料理を出してくれるのだが、これがまた、とんでもなく美味なのだ。食事は朝昼晩の三食で、その中から毎日日替わりでABCの三種類から選ぶことが出来き、ご飯もおかわりは自由で、しかも全品無料なのだ。
まあ、我々は人間のお金はもっていないため、今現在は金品で払おうにも払うことが出来ないのだが。とにかく、毎日食券と呼ばれる道具の前に長蛇の列が出来ている。食材と調味料も公共食堂の一スペースで持ち帰り自由に置かれており、料理教室も週に何度か開かれているため、若い女性などは熱心に通って自炊で料理の腕を磨いたりもしている。
町の全体図はというと、きちんと真四角に区画整備をし、石畳の大通りで区ごとに繋ぎ、それぞれエルフ、ダークエルフ、ドワーフ、ホビット、狼、犬、猫、妖精、精霊といった部族が住みやすいよう、まとまって区分けされている。ここは猫区、隣が犬区、もっと隣が狼区という感じだ。さらに各仮設住宅ごとに、丁と番号を振り分け、同居人の名前も表の木札に書かれているので、全く同じ仮設住宅がずらりと並んでいても、迷うことなく行きたい場所にたどり着ける。アカネ様も便利なことを考えるものだと、ここに来てから関心しきりである。
ちなみにエルフ族の代表は、最初に彼ら五人と引き合わせて、比較的顔が知られており、意見を通しやすいだろうという理由で、私がそのまま務めることとなった。
実際の私の能力など大したことはないので、納得の理由だ。その際に五人の子供たちから授かったアカネ様の言葉は、誰もが最初は初心者、レベル1だからって気張らず焦らず、一つ一つ試していこうよ…とのことらしい。こんな私でも族長を続けていれば、きっと成長出来るだろう。いや、してみせる。彼女の期待を決して裏切らないためにもだ。
そして町の名前を決めるために、代表の皆で中央の集会場に集まり、座布団と呼ばれる四角く柔らかな布の上に腰かけているのだが、いくら意見を絞ってもこれがなかなか難しい。アッチを立てればコッチが立たずだ。
「なあエルフの、このままじゃ埒が明かねえ。何か皆が納得出来るいい案はないか?」
「ドワーフの族長が言う通りの案など、私には…いや、ならばこれはどうでしょう」
自慢のヒゲを指先で弄りながら、ドワーフの族長が私に声をかける。一瞬そんな都合のいい案があるわけないと思ったが、もしかしてアレならいけるかもしれないと考え、一つ意見を出してみることにする。
「我々をこの町に導いてくれた方の名前をいただいて、アカネ町というのはいかがでしょうか?」
「はははっ! アカネ町か! コイツはいい! 確かにこれなら皆が納得するし、町の名前になればアカネさんへの感謝も忘れることはねえ! 最高だぜ! エルフの!」
ドワーフの代表がバンバンと自前のビール腹を叩きながら声をあげる。そして他の代表も皆満足そうに、ウンウンと頷いている。どうやら町の名前は無事に決まったようだ。
そんな中、ダークエルフの族長が、所在なさげに恥ずかしそうに手をあげて発言を行う。
「盛り上がってるとこ悪いんだけど、今回の集まった本題に入らせてもらうわ。私たちはこれから何をすればいいのかしら? ううん、違うわね。どうすればアカネ様から受けた恩を返せるのかしら?」
瞬間、先程まで和やかに笑い合っていた集会所の空気が沈み、それぞれの族長からも笑顔が消えた。そんな中で少し泣きそうになりながらも、ダークエルフの族長が言葉を続ける。
「これだけの恩を受けたのよ? 私たちの一生を費やしたとしても、とても返しきれるとは思えないわ。アカネ様が私たちに何かを要求するならまだしも…」
いつの間にかこの一週間で私も含めて皆は、アカネさんからアカネ様へと呼称が変わり、まるで女神様のように敬うようになっていた。
実際には子供たちやメイドさんたちから聞いただけで、会ったこともないのだが、今の私たちにとっては、アカネ様は神にも等しい存在に変わっていた。
そして狼の族長が、苦虫を噛み潰したような顔で、ダークエルフの族長に続く。
「闇エルフの族長よ。某も同じ気持ちだ。アカネ様は、我らがこの地にて生きることを望んでおられる。それは確かだ」
…それでも! と、ダークエルフの族長が叫ぶように狼の族長の言葉を遮る。
「私たちダークエルフはずっと迫害されてきたのよ! 人間はもちろん、時には仲間だと思ってた亜人にまでね! それなのに今の状況は何なの? 私たちを無理やり働かせたり利用したりも一切せずに、何でこんなに優しくするのよ! どうすればアカネ様のお役に立てるの! 体を捧げろというなら捧げるわ! 命が欲しいといえば目の前で心臓を取り出してもいい! ねえ! 誰でもいいから答えてよ!」
時と場合によっては、人間だけでなく亜人も仲間も悪者に仕立て上げたりする。その中でダークエルフは褐色の肌で、邪悪な魔物に例えやすいため、格好の迫害対象なのだ。
しかし、それでも大なり小なりはあるが、私たちエルフも、そして他の種族も人間や亜人に迫害されなかったというわけでは決してない。
私も含めて皆も思うところがあるのか、集会所の中でワンワンと泣き崩れる彼女を、痛ましそうな表情を浮かべて何の言葉もかけられずに、ただ見つめることしか出来ない。
<アカネ>
屋敷の会議室の中で椅子にもたれかかり、アタシは真正面の筆頭メイドと、左右に五人の子供たちが分かれて腰かけた状態で、アルファからの報告をまとめて受けていた。
「…以上が、亜人の村…いえ、アカネ町の現状となります」
「うん、報告ありがとうね。そもそも何で自分たちの町にアタシの名前付けてるの? というか町人全員の信仰心高すぎない? おかしい? おかしくない?」
「いえ、ご主人様を敬う行為は普通です」
「そっかー。アタシを信仰するのは普通なのかー」
アルファがそう言うならそうなのだろう。ってそんなわけあるか! アタシは引き篭もりが大好きな極めて普通の一般人だよ。少し他人よりも力とか魔法が強いだけだよ。頭もよくないしね。
「しかし、どうしたものかな」
「放置するのでは?」
「うん、アタシとしては土地と住まいだけ与えて、あとは適当に暮らして欲しかったんだけど」
「ならば、今まで通りにこちらから手を出さずに、放置されればよろしいかと」
アルファの言葉を受けながら、アタシは腕を組んだまま椅子を傾けギコギコと船をこぐ。何となく煮えきらないのだ。
「まあ、アルファの言う通りなんだけどね。何事も適当でいいんだよ。適当で」
「適当ですか?」
「うん、アルファや他のメイドさん、それに子供たちにも適当に生きて欲しいし、アタシも適当に生きたい」
毎日庭で太陽の日差しを浴びながら流れる雲の動きや形を楽しんだり、牧場に散歩に行くついでにメイドさんに頼んで直搾りの牛乳をその場で一気飲みしたり、魔の森で皆と一緒に木の実やキノコを探してお昼にピクニックしたり、気まぐれに海が見たくなったら即座に転移し、水平線に沈む夕日を皆と一緒にじーっと眺めて黄昏れたりする。アタシはそのぐらいアバウトに生きていきたいのだ。現に今までは思いつくままに行動して生きてきたので、今さら自分のスタイルを変えようとは思わない。
そんなことを気持ちを込めて力説したら、何故か一人の例外もなく皆に物凄く呆れた顔をされた。アタシは本気だよ!
「それで結局のところ、ご主人様はこの先どうなさるおつもりですか?」
「んー…アタシはアタシだよ? でもそうだね。取りあえず亜人の皆にも、適当に生きてもらおうかな」
「……はぁ」
いまいち釈然としないという表情を皆が浮かべているのがわかる。アタシも別に具体的にプランがあるわけではないので、いつも通りの丸投げか、思いつきで行動していく。一先ずはアタシを神として崇める変な信仰を止めさせよう。平凡な女の子を神様として祀るとか恥ずかしいし、何よりもっと他に相応しい信仰対象があるはずである。
「あっ、それとは違うんだけど、八千人も一気に召喚したんだよね。世界中に与えた影響とかヤバイんじゃないの?」
「問題ありません」
アルファは冷静な態度を崩さずにアタシの質問に答える。八千人の亜人を世界中から強制連行…ではなく、強制召喚して問題が起こらないわけないと思うんだけど。
こちらの疑問がわかっているのか、筆頭メイドはあくまでも淡々と言葉を続ける。
「まず、連合都市、帝国、魔王国、その他小国の影響ですが、裏で亜人奴隷の販売及び購入を不正に行っていた者たちが互いに争い始めました」
魔王国にも亜人奴隷とはいたんだね。そちらの対象は人間だけかと思ってたよ。なお、アルファが言うには、他の国と比べて少数ではあるものの存在はするらしい。
「確保していた亜人奴隷が全員突然跡形もなく消え去ったので、まずは近しい関係者を疑うのは当然です。せいぜい裏の亜人奴隷関係者たちが口汚く罵り合い、完全に潰れるまで互いの手足を食べ続けること期待しましょう。表立った影響はまだ少ないようですが、各国の今後の対応次第では、状況が悪化する可能性もあります」
今までは亜人奴隷のおかげで潤ってた人たちは苦境に立たされるわけだ。他にも大なり小なり影響は受けるけど、まだ国の頑張り次第では傷が浅いままの可能性はあるということだろう。
そんなことを考えている中、アルファはものすごくいい笑顔ではなく、暗黒微笑を浮かべてなおも説明を続ける。
「最後に聖王国ですが、今まで管理者である人間たちが飴を与えることもなく、鞭で叩きながら最下層の亜人奴隷に命令を行う完全なカースト制度でしたが、召喚魔法によりその制度は完全に崩壊しました」
一番下層の亜人奴隷の大半が消えてしまったのだ。聖王国の基盤はもうガタガタだろう。となると、労働力の代わりを急いで補わなければいけない。管理者である人間が動き出せばまだいいが、最悪国内の亜人の奴隷狩りがさらに苛烈になるかもしれない。
「聖王国が今後どのように対応しようと、状況の悪化は食い止められません。最悪国家が崩壊します」
「アルファ」
「何でしょうか?」
何となくアタシが気まぐれで助けたのに、その後で各国が目の前で煽られているように感じて気分がよろしくない。こうなったら毒を食らわば皿までよ。どうせアタシは働かないので、集めた亜人の皆に丸投げすることに決める。アカネ町の未来を決めるのは、全て君たちの手にかかっているのだ! だがら適当に頑張って! アタシは頑張らないけど!
「存在する亜人たちの全てをアカネ町に召喚して。そうそう、呼ぶ前に本人の許可はちゃんと取ってよね。無理やりは駄目だよ。来たい人たちだけだよ」
「了解しました。ご主人様のお望みのままに…!」
敬礼を行う冷静なアルファが気のせいか小さく震えているような気がする。それと表情も微妙に笑顔が崩れていて、いつもの彼女らしくない。他のメイドも皆アタシに深々と敬礼しているので、かなりびっくりする。普通に召喚するだけなら優秀な筆頭メイド一人で事足りるだろうけど、やはり数が多そうなので大変なのだろう。他のメイドさんの動員も必要になるぐらいには。
「うん、でもまあ時間はどれだけかけてもいいから、無理だけはしないでね。皆の体が壊れちゃったら、主人のアタシだけだと何も出来ないから。頼りにしてるよ」
毎度のことながらメイドさんたちに丸投げである。駄目な主人ですまない。しかし、アタシの言葉を聞いたメイドさんの何人かが子鹿のように足を震わせている。さらには口元に手をあてて、必死に何かを堪えているメイドさんもいる。一体何があったというのだろうか。やはり日頃の激務のせいでとうとう…。
しかし無理はしないでと言っておいたので、多分大丈夫だろうと強引にでも誤魔化すために、話を元に戻す。
「取りあえず、これから亜人の町…ええと、アカネ町に転移するよ」
「ご主人様自らですか?」
「うん、実際にアタシが姿を見せて言葉を交わせば、すぐに夢から覚めるでしょ? 神様だと信じてたのに、会ったら普通の人間だった! ガッカリした! アタシもう、アカネ様崇めるの止める! …こんな感じの作戦だよ」
思いつきだけどなかなか悪くない案だ。しかし、他の皆の表情は固い。ハンマーで叩けばパラパラと崩れそうなぐらい固い。そんな中で、アルファが堂々と質問してくる。
「ご主人様、勝算はあるのですか?」
「思いつきを数字で語れるものかよッ!」
別に怒っているわけではないけど、何となくそう返さなければいけない気がした。実際のところは行き当たりばったりだけど、どう転んでもこれ以上酷くはならないだろう。たとえ駄目元でもやってみる価値はある。
「はぁ…わかりました。それではご主人様の来訪を、アカネ町の町人全員にあらかじめ伝えて、会場の準備を整えておきます」
アルファが他のメイドにテキパキと指示を出す。
こちらも準備を整えよう。今回は堂々と姿を見せるのが目的のため、隠者のフードには頼らない。では何を来ていくべきだろうかと考えたとき、アタシは外に出るときは隠者のフード、敷地内にいるときには着脱が楽な運動着以外、基本的に身に着けていないという驚愕の事実に気づいてしまった。うわ、アタシの女子力低すぎ!
「ご主人様、今回の外出用の特別なお召し物をご用意しますので、こちらにどうぞ」
流石は付き合いの長いアルファである。何に困っているのか、言葉に出さなくても察してくれた。アタシは普通に会うだけだし別に運動着でもいいんじゃ? と脳裏によぎったことを、深く反省する。
ついでに椅子に座っている子供たちに、メイドさんからの呼び出しがかかるまでは、館の中で自由にしてていいよと伝え、自分は頼りになる筆頭メイドの後をトコトコと歩いて付いて行く。
<フィー>
僕たちはアカネさんの着替えが終わる前に、少しだけ早くアカネ町に転移する。中央集会所の前面ほぼ全てには、既に八千人の亜人が集まっており、彼女の来訪を今か今かと待ちわびていた。
その様子を同じ仲間や担当のメイドたちと、子供一人分の身長ぐらいの高さに規則正しく組まれた、木製の舞台の上から眺める。ちなみにメイドさん以外の子供五人は、全員戦闘用の装備である。
アカネさんいわく、八千人のライブ会場での行き過ぎたファンとのトラブル防止に備えるとことだ。言葉の意味はわからないけど、僕のことを大切に思ってくれているのは、しっかりと伝わっている。もっとも、残り四人も追加で同列なのは、悔しく感じるけれど。
「フィー、なかなかの眺めだな」
「そうだねアレク。まさか人間でない亜人八千人が、一箇所に集まるとは思わなかったよ」
アカネさんを巡ってのライバルではあるものの、表向きは仲がいいアレクと二人で、感慨深げにそんな会話をしていると、ロレッタが横から口を挟んでくる。
「二人共、そろそろ時間ですわよ。しかし、流石に多すぎますわね。この舞台では、後ろのほうからは全く見えませんわ。アカネさんは一体どうするつもりかしら?」
実際に舞台をもう少し高くあげたとしても、今度は前が見えない。さらに言えば、後ろからでは米粒程度でも視認出来ればいいほうである。
そんなことを考えていると、急に空が暗くなったような気がする。今日は雲ひとつない晴天だったはずなのに、明らかに妙である。
するとレオナが雲一つない青空なのに、急激に光が陰りつつある空中の一点を注視しながら、小さく口を開いた。
「これは大規模魔法の反応。アカネさんかアルファの仕業」
確かに今現在で一時的にでも天候を変える程の大魔法を使えるのは、目の前のレオナか、筆頭メイドのアルファ、それがもし世界規模ならば、アカネさんただ一人しか不可能だろう。
僕も彼女の見つめる先に視線を向けると、驚くべき光景が広がっていた。
元々の白い太陽に少しずつ黒い太陽が重なっていき、やがて完全に黒い太陽に飲み込まれて消えてしまう。
「アカネさんから聞いた太陽が月に隠れる現象、日食に似ている。でもコレは全くの別物」
あまりの事態に皆は一様に空を見上げて町中が静まり返っているなかで、レオナの澄んだ声は周囲によく響いた。
しかし黒い太陽は辺りの光を完全に消し去るわけではなく、まるで月明かりのように、温かく僕たちを照らしている。
それだけではなく、地上は僅かに明るく照らされているにも関わらず、黒い太陽を中心にして、空に満天の星空が広がりはじめる。その今まで見たこともない圧倒的な光景に、ロレッタがポツリと呟く。
「まるで、…星の海ですわね」
普段は真夜中でさえ光が届かない名もなき小さな星々も、今だけは眩いばかりに光り輝いているのが、ここからでもはっきりとわかる。これ程美しい光景は、今まで生きていて一度たりとも見たことがなかった。
やがて、全ての空が満天の星に姿を変えた瞬間、新たな変化が起こった。
「んっ…来る」
レオナの言葉通り、黒い太陽の中心の一点から、まるでひび割れるように少しずつ光が溢れ、夜空の星々を全て集めたかのように煌めく漆黒のドレスを身にまとう、僕たちのよく知っている女性が町中の人々が声一つ漏らさずに静かに見守る中、ゆっくりと姿を現したのだった。
<エルフ族長 グリント>
私も含めて集会場で空を見つめている八千人は感動に打ち震えていた。何という美しい光景だろうか。かつてエルフとして長く生きて世界を見て回った自分でさえ、これ程の絶景を見たことはなかった。他の皆も同じ気持ちだろう。その証拠に感動のあまりに涙を流したり、言葉を失い輝く星を眺める者、または地面に崩れ落ちて嬉し泣きしている仲間の姿も、あちこちで見かける。
もしアカネ様が我々のためにこの景色を見せているとしたら、どれだけ途方もない力を持っているのだろうか。そしてどれ程の慈愛を向けてくださっているのだろうか。私も必死に堪えていたが、やがて涙が次々と溢れ、地面に小さな水たまりを作っていく。
そして隣の息子が嬉しそうに、満天の星空をキラキラと瞳を輝かせて見つめているのがわかった。
「んっ…来る」
この声は使徒のレオナさんだろうか。いつの間にか子供たちにもさんをつけて、うやうやしく呼ぶようになっていた。最初は子供を相手に年上の自分たちがかしこまることに抵抗があったが、圧倒的な力と知識を、我々のために奮ってくれる方に、無礼を働くわけにはいかないと考え、他の部族の皆とそう取り決めたのだ。呼称はあっという間に広がり、今ではすっかり慣れたものだが。
彼女の言葉と共に、同じように星空を見つめている何人かが、黒い太陽を指差す。私も釣られて視線を向けると、小さくヒビが入るように光が漏れ出ていることに気づく。
やがて黒い太陽のひび割れから、この世のものとは思えない程に美しい黒髪と黒い瞳の女性が、漆黒のドレスを身にまとい、空からゆっくりと我々の集まる広場に降下してきた。
瞬間、直接伝えられておらず、距離が離れているためはっきりと視認出来ないにも関わらず、皆が理解した。あの美しい女性こそが女神アカネ様だと。
ある程度近くまで降りたところで、青い半透明な六角形の硝子板が彼女の足元に出現し、その中央にフワリと着地する。
「あーあー、本日は晴天なり。本日は晴天なりー。マイクは使ってないけど、ちゃんとアタシの声は届いてるかな? 会場の一番奥の人、聞こえてたら手をあげてよ」
硝子板の上のアカネ様は遠くの亜人に向かって声をかける。気づけば彼女の背後には、半透明で巨大なもう一人のアカネ様が空中に映し出されており、全く同じ動作を行っていた。
気になって後ろを見ると、彼女に声をかけられた最後尾の一列の亜人が、満面の笑みを浮かべて元気よく手をあげていた。とても羨ましい。私も族長という立場でなければ、そして次の機会があれば、ぜひ最後尾に並びたいものだ。
「うん、聞こえてるようだね。3D投影も問題ないようだし、これならアタシの声も姿もちゃんと届くだろうし、取りあえず一安心かな」
それから、喉に手を当てて、何度かんんーんんーと声を出して、おもむろに私たちに向かって挨拶を行う。
「ええと、亜人の皆さんこんにちは。アタシがアカネだよ」
アカネ様であることは、薄々気づいていたし、現在の満天の星空を見て十分に驚いたので、皆は言いようのない高揚感に全身を包まれながらも、冷静に次の言葉を待つ。
「あれ? 予想よりも動揺が少ない? まあいいや。それじゃ本題に入るけど、私はこの通り、皆に信仰されるような大した人間じゃないよ」
「「「「嘘だああああああーっ!!!!」」」」
満場一致の皆の心からの叫びとツッコミである。アカネ様は一瞬ビクリと小動物のように身を強張らせたものの、コホンと咳払いをして、気を取り直し次の言葉を続ける。
「いやいや本当だよ。今回も亜人の皆さんにはこの場所で適当に、そしてのびのび暮らして欲しいから気まぐれで助けただけだよ。そうだ! アタシなんかじゃなくて、信仰するなら聖王国の神様とか手頃じゃない? 何か大勢の人間たちに崇められて…」
「「「「嫌だああああああーっ!!!!」」」」
またしても満場一致の皆の心からの叫びで拒否である。今度はアカネ様の言葉を遮ってでも強行する。たとえ気まぐれにしても、亜人の八千人を己の身を顧みずに救いの手を伸ばして助けてくれたのだ。それも何の見返りも求めずにだ。しかもただ平和に暮らして欲しいからと、この場で言い切ったのだ。
それに自分は皆から信仰されるには値しないので、それよりは今まで奴隷狩りを推奨して私たちを散々な目に合わせてきた、いわば敵である聖王国の神を信仰しろと言う。何なのだこの女性は、天使なのか? いや、天使を越えた女神だ。間違いない。
今きっと、会場の使徒とメイドと亜人たち全員の心が一つとなっていることだろう。たった一人の例外である女神アカネ様以外は。
「ああもう、本当に崇めてもいいことないよ? アタシからは直接何かしてあげるつもりはないよ。せいぜい子供たちやメイドさんにお願いして、この場所での安全な暮らしを整えたり、これから先の生活に必要な技術を教えたりするだけだし、それでも本当にアタシなんかを崇めるつもり?」
「「「「崇めますううううううーっ!!!!」」」」
何という慈愛に溢れた女神様だろう。私だけでなく、八千人の信者が一生ついて行くことは確定である。確かに彼女が直接手を差し伸べることはなくても、私たちが道を踏み外さないように、間接的に助けてくれるということだ。
すなわち、アカネ様の溢れんばかりの愛に溺れて堕落する前の、我々が自立出来るちょうどいい塩梅を保ち、亜人たち自身の力で発展を続けることが出来るのだ。毎日を生きている充実感も得られ、これ以上に素晴らしい待遇はないとさえ感じる。
周りを見ると私以外の皆も、これからの人生に希望を見出し、全身がやる気に満ち溢れていることがわかる。これは自分も負けていられない。
「うーん、…困ったなぁ」
明らかに困惑しているアカネ様の顔も可愛い。女神を困らせてはいけないとは思いつつも、この顔が見られるのなら、誰もがもっと困らせたいかもと考えてしまうほど、殺人的な可愛らしさがそこにはあった。
「はぁ…わかったよ。信仰は認めるけど他の人に迷惑をかけないでね。あと、強引な宗教勧誘も止めてね。あと、アタシから皆に命じることは一切ないし何も要求しないから、神様がそう言ったからーとか好き勝手に使わないでね。基本は適当にのびのび生きることが信条だけど、それだけは必ず守ってね」
「「「「わかりましたああああああーっ!!!!」」」」
心底困ったという表情をして、アカネ様は重くため息を吐く。それとは正反対に、亜人の皆は元気いっぱいである。女神に直接信仰の許可をいただけたのが、嬉しくて仕方がないのだ。
「それじゃ、話はこれで終わりでいいよね?」
「お待ちください!」
アカネ様が話を切り上げようとしたところで、女性の声が辺りに響いた。女神様に向かって何と無礼なと感じたが、言われた本人は何も気にしていないように、声の出処を探すようにキョロキョロと視線を彷徨わせる。
「あっはい、そこのお姉さんだね。どうかしたの?」
やがてアカネ様が一人の女性、ダークエルフの族長に目を合わせて、次の発言を許す。
「発言をお許しくださり、ありがとうございます!」
ダークエルフの族長の姿も半透明な巨人となり、アカネ様よりも低い位置に映し出される。彼女の頬はほのかに紅潮し、直接女神様に声をかけてもらった嬉しさのあまり興奮状態となり、荒い呼吸を繰り返している。
「じっ実は、私たちの今後についてなのですが、女神様からの明確な望みを教えてください!」
「何もないよ」
「えっ?」
「さっきも言ったけど、適当にのびのび生きるのが望みといえば望みなのかな?」
女神様の言葉を受けて呆然とするダークエルフの族長、ショックを受けたのか小さく体が震えているのがわかる。
「そっ…それでは、我々はどうすれば…」
「それはお姉さん自身で考えることだよ。アタシに聞かれてもねー」
「私が、…考える?」
「うん、今まではどうだったか知らないけど、アタシに命令されるんじゃなくて、お姉さんがこの先どう生きていくのか、何がやりたいのかを、自分で考えて決めるんだよ」
ダークエルフの族長はアカネ様の言葉を受け止め、何やらブツブツと呟いている。
「お姉さんだけじゃなくて、他の皆も同じだからね。でもまあ、焦ることはないよ。時間はたっぷりあるし、そのための道もちゃんと用意するから。どれを選ぶかは個人の自由だけどね」
何とも重いお言葉だ。自由など私たち亜人には無縁だと思っていたが、こうして手に入ると持て余してしまう。女神様に言われなければ、気づくことさえ出来なかっただろう。
やがて、ダークエルフの族長がハッとした表情で、アカネ様を真っ直ぐに見つめる。
「アカネ様! 私のやりたいことが見つかりました!」
「何?」
「私は、アカネ様のお役に立ちたいです!」
「いや、あのね? だからアタシはそういうのは望んでな…」
「アカネ様!」「私もです!」「俺もお役に!」「女神様!」
ダークエルフの族長の言葉が終わるやいなや、次のアカネ様の声に被せるように、八千人の町人が自分たちも女神様のお役に…っという発言が相次ぎ、一時会場は大混乱となってしまう。
困りきったアカネ様は五人の使徒とメイドに頼み、現場の沈静に務める。ダークエルフの族長の半透明の巨人もいつの間にか消えており、十分程たった頃に、皆はまだ興奮覚めやらぬ様子だが、周囲の声も小さくなり、少しずつ落ち着いてきた。
熱気に飲まれたとはいえ、私も彼らと一緒になって騒いでしまったのが、少しだけ恥ずかしかったが、何だか誇らしくも感じてしまう。
「ええと、自己犠牲とか本気で望んでないからね。でも、明確な目標や望みがないと皆が困ることもわかったよ。だから一つだけ。もしアタシの役に立ちたいと思うなら、今から言うことを精一杯叶えてよ」
硝子板の上で何処となく対応に疲れた顔をしながら、アカネ様は皆に向かってはっきりと話しかける。八千人の亜人たちは誰もが次の言葉を聞き逃さないように、真剣そのもので、まるで戦場の真っ只中にいるかのような緊張感を放っている。
「アタシの望みは、皆それぞれの人生を後悔せずに生き抜くこと。死ぬ時ぐらいはやりきったーっ! て悔いなく笑顔で死ねるようにね。せっかく助けたんだから、苦しいー! 全部アカネのせいだーっ! ってことを、死ぬ前に言われるのは絶対にごめんだよ。以上がアタシの望みだよ」
アカネ様の望みは簡潔だった。それでもいざ達成しようとするとなると、とても困難である。しかし、彼女が本当にそれを望んでいることは、しっかりと皆の心に伝わったはずだ。
ああ、やはり女神様は慈愛に溢れている。アカネ様を信仰出来てよかった。薄っすらと嬉し涙を流しながら、私は心の底からそう感じていた。
「それじゃ、皆の自立の道筋ぐらいは整えてあげるから、あとはそれぞれがのんびり適当に頑張ってよ。以上でアタシの話は終わり。解散! 閉会!」
その言葉が終わるやいなや、アカネ様の半透明の巨人は姿を消して、足元の硝子板も完全に透明になり見えなくなる。そのまま女神様は黒い太陽に向かって上昇を続け、光のひび割れに吸い込まれるようにかき消えてしまう。
直後に黒い太陽と満天の星空が溶けるように、元の青空と白い太陽に上書きされる。
あとにはまだ興奮が静まらない我々と、五人の使徒とメイドだけが残された。彼らの存在がなければ、先程起こったことは全て夢だったのだと、そう思えてしまう程の、現実離れした美しい光景だった。
そして私は思った。先程体験した神話の一幕のような出来事を、そして女神アカネ様と五人の使徒の偉業を、余さず後世に伝えることこそが、私にとっての悔いのない人生の目標であると。
聖域の近くに町を築いた八千にも及ぶ亜人たちは、この場所をアカネ町と名付けることに決める。
そして移り住んで一週間の間に、白く四角い家、神の食べ物を振る舞う建物、お湯で体を洗い流す建物、汚物を浄化する建物が建てられる。
奴隷や逃亡生活から逃れ、まるで夢のような素晴らしい町に住むことが出来たにも関わらず、亜人の皆の顔は暗い。それはこれ程の慈愛で包み込んでくれた女神アカネ様に、与えられるだけで何も返せていないからだ。
我々は女神アカネ様のお役に立つことだけを一心不乱に望み、さらに数日が過ぎた頃、奇跡が起こった。
まだ昼近くの晴天にも関わらず、白い太陽が突然現われた黒い太陽に隠れ、空には満天の星空が輝き出したのだ。やがて黒い太陽からひび割れるように光が溢れ、それは人の姿を形作った。
黒く艷やかな髪と、黒い澄んだ瞳、そして白くみずみずしい肌を隠すように、夜空の星々が煌めく漆黒のドレスを身にまとい、とうとう我々の前に姿を現してくださったのだ。
その人物こそが、女神アカネ様であった。
女神アカネ様は我々に信仰されることをお許しになり、そのための条件をいくつかお出しになられた。さらに亜人たちに一つの望みを告げた。