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   ◇

 

 

『ローレライ』を出た後、僕は特にどこに立ち寄るわけでもなく御崎市を歩き続けた。元々目的があって御崎市に来たわけではない。ただ気晴らしをするためだった。しかし、逆に考えれば、なぜ僕は御崎市を選んだのだろう。気晴らしであれば、他の場所でもよかったはずだ。なぜ『僕』が望月望の生まれた街を選んだのだろう。しばし考え込んでみる。

――歩きながら考えていたせいなのだろうか。気がつけば商業地域を外れ、閑静な住宅街に足を進めていた。この辺りには一般の住居以外の建物は無く、駅からも離れている。行き過ぎたなと思い引き返そうと踵を返した時、僕の視界に一軒の住宅が映った。

その住宅を見たとき、僕はひどく懐かしさを覚えた。

それはいつもの既視感ではない、もっと近い。『僕』自身が知っている気がした。

近づいて表札を見てみる。そこには望月、と書かれていた。そうして僕は思い出した。

僕の目の前に映る住宅は『望月望』が長く暮らした生家だったことを。

門を開け、中へ踏み入る。中には、都会の一軒屋らしいさほど大きくはない家とそれに合わせた小さな庭があった。人が住まなくなってからどれほど経ったのだろうか、家には人気はなく雨戸が閉められ、庭は雑草が生い茂り、そこに置かれたベンチは長い間手入れをされなかったためか茶色く錆びていた。錆びたベンチに近づき手すりに触れる。

『お兄ちゃん……誰?』

背中から声が聞こえたような気がした。振り返るとそこには――一人の少年がいた。背中にランドセルを背負い、手にはバイオリンのケースを持っていた。夏らしく半袖のシャツに半ズボンを着ていた。その少年を僕は知っている気がした。

『おかえりなさい、望』

『おかえり、望』

また声が聞こえたような気がした。家の玄関の方を見れば、そこにはまだ若い一組の夫婦の姿があった。その姿、その顔はぼやけていたが見覚えがあった。それは『望月望』の両親の姿だった。

『ただいまお母さん、お父さん』

少年が両親の元に駆け寄る。とても幸せそうに。そこにあるのは笑い会う三人の家族の姿だった。だがその光景は望月望にとっては、遠い昔に失われたものだった。望が小学校に上がりしばらく経った後、望の母は事故でこの世を去り、研究者であった父はその事があってから家に帰ってくることは二度となかった。

それから、望は誰も帰ってくることの無くなった家で一人で住み、生きるようになった。

生活費だけは銀行の口座に入っていたため、それを手に思うように勝手に生活してきた。そうやって望は少しずつ育っていった。だが積み重ねられていく日々の中で望は何かが足りないと感じるようになった。何を求めているのか。望はその形を知らなかった。だから望は様々のものに手を出した、時には法に触れるような悪事にさえ。だが望が満たされることは無かった。飢えだけが募り、苛立ったこともある。そして更に悪事に手を染める。ただそんなことを繰り返した。

そう、あの人に会うまでは。

――遠くでセミの声が聴こえる。

僕は呆然としたまま夕暮れの中に立ち尽くしていた。僕はいったい何を見ていたのだろう。見ていたのは記憶、望月望の記憶。僕はなぜそんなものを見たのだろう。望月望の生家を見たせいなのだろうか。

僕は知らずの内にここにやって来た。

僕はなぜこの街に、この家にやって来たのだろう。

それから、僕は呆然と『望月望』の記憶を辿るように歩き出した。

夕暮れの御崎市を僕は影を、過去を引き連れて歩く。そうして再生されるのは街並みから連想される望月望の記憶。今や僕は、街の中にある望月望の記憶を手繰るようにして歩いていた。

再生、再生。望月望の記憶はいつも灰の色だった。なにかを激しく望み、求め、しかしその形すら知らなかった望。何をしていても満たされることは無く、ただ激しく乾いていた。


――僕は何をしている。

――なぜ望月望の記憶を手繰ろうとしている。


止めろと言いたかった、僕は知っている。望月望の記憶の最後を、その結末を。

それなのに今や茫とした意識はなんの反応も返さず、ただ足を進め続ける。望月望の記憶の確信へと。

夕暮れの時、それは時として〝黄昏〟と呼ばれる。その語源は誰そ彼、それはすなわち行き違う人が、夕暮れの暗さのために互いの区別の付きにくいことを指す言葉だった。

僕は知らない。自分が『誰』なのか分からない。この多数の記憶が混在するひどく曖昧な存在が果たして何なのかを。『自分』とは果たして何であるかを知らない。

だが、この時僕は〝無意識〟の内に求めていた。『望月望』のその記憶を。その確信を。

記憶の、物語の確信。それは即ち望月望の人生の中で最もココロを揺り動かされた出来事。その後の人生すら変えてしまう程の〝なにか〟。望月望の人生の中には〝そういうもの〟があった。僕の足はその始まりの場所に向かいつつあった。

――その場所は繁華街を外れた路地裏だった。高層ビルの間にあり、昼間でも薄暗く訪れるものはほとんど無い。そこは都市という空間が作り出した吐き溜まり。

――だがしかし、その場所こそが彼女に出会った望月望にとっての始まりの場所だった。

街を外れ、その場所に向かう。正確な道筋や場所は覚えていない。最初にそこを訪れた時はただの気まぐれだった。だから今回も『偶然』その辻を曲がった。暗い、夕暮れを迎えた路地裏は周囲が見えないほどに暗い。

だがこの選択がいけなかった。そこにあったのは闇、昏い闇。

「―――!」

ふと声が聞こえたような気がした。気のせいだったのだろうか。

「―――!」

いや確かに聞こえた。それは――押し殺したような悲鳴。確かめるために辻の奥に向かう。

〔う……〕

思わず鼻を押さえ、激しく咳き込んだ。突然とてもひどい匂いが鼻を付き、喉に絡まるような空気を吸い込んだからだ。それは肉の解体所のような生々しい肉と臓腑の匂い、大量の血を含んだようなむせる空気。段々と辻の暗さに目が慣れてくる。

〔ああ――〕

そこはあまりに酷い有様だった。周囲には大量の血が飛び散り、あるいは地面に血溜りを作っていた。そしてそれに浸る布を巻きつけた肉と内臓のミンチが辺りに散らばっていた。その光景に驚き、思わず後ずさる。その時何か、ヒドク柔らかい物を踏んだ。足元を見てみる。そこにあったのは――手だった。千切れたニンゲンの手だった。

〔―――!〕

その時僕の中で何かが焼き切れた。生理的に限界だった。もう喉の奥からこみ上げてくるものを押さえられなかった。屈んでただ嘔吐した、胃液すら出なくなるまで。どうしてこんな事が起こっているのか――何も考えられない。この光景は日常などには絶対にない異常だった。思考が状況に追いついていかない。


しばらくすると、胃がむかついてはいたが吐き気が収まってくる。顔をあげる。見上げた視線の先、路地の最奥に〝なにか〟がいた。直立している〝それ〟は手にニンゲンを掴んでいた。その手は大きく、掴んでいるニンゲンの頭しか見えない。まるで人形を掴んでいるように見えた。掴まれているニンゲンの顔が目に入った。顔つきから男だと分かった。男はもはやなんの表情も浮かべてはいなかった。ただその圧倒的な恐怖の果てに壊れきった顔面を張り付けているだけだった。男と目が合う。こちらを見た男は何かを言おうとして口を開けたが声には――ならなかった。次の瞬間、男を掴んでいる〝なにか〟が手に力を込めるのが分かった。なにかが軋み、折れるような嫌な音がした。そして男の肉体が破裂した。肉と血が飛び散る。それはあまりに呆気無くて、どこか酷く現実味の薄い光景のように感じた。だが〝それ〟は確かにそこにいる。男を握り潰した〝なにか〟がこちらを向いた。そうして僕は〝それ〟の全体像を見ることができた。

その姿はゴリラのような類人猿に近かった。全長は三メートルほどに見えたがその手だけが異様に大きかった。一人の人間の体を鷲摑みにできるほどに。身長に対してバランスが取れていないように見えた。だがこれだけは言える。こんな生き物は地球上には決していない。

存在するとすれば恐らくは幻想の中に、物語の中にしか登場しない生物のように思えた。

――鬼、僕の頭にその言葉が浮かんだ。

僕は望月望の記憶を手繰ることに夢中になって忘れていたのだ。夕暮れ時には、黄昏とは別のもう一つの呼ばれ方が有ることを。〝逢魔が時〟その言葉は、大禍時が転じて生まれた言葉。人の時間である昼が終わり、災いをもたらす魔の時間である夜へと移り変わる時間。昏い闇を背負って魔が現れる。

鬼がその双眸に僕を捉えた。すさまじい圧迫感を感じて、背筋が凍る思いがした。その冷たさに自らの手で自分の体を抱く。そこで僕は自分がひどく震えていることに気付いた。体が――動かない。

「「Gaaa――――!」」

『魔』の亡き現代に、自らの存在と威容を示すかのように鬼が咆哮を上げた。辺りの空気が呼応するかのように震える。

世界が反転する。

常識は崩れ『異』たる『魔』が跋扈(ばっこ)する世界へと。 


幻想の生物――鬼が確かに今僕の目の前にいた。


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