表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/15

 3



電車に乗りいくつかの駅を過ぎる。そうすると首都近郊の都市である御崎市に着く。

電車が止まると、僕は駅のプラットホームに降りる。ここ最近はずっと屋敷にいたためかこうして御崎市にやってくることは久々だった。出口に向かい改札を出ると、御崎市で最も発達している駅周辺に出る。

御崎市の駅周辺は、付近にある街の中でも特に開発が進んでいて、レストランや映画館などの各種の商業施設を備えたショッピングモールがあった。こうした背景のために御崎市は近年では住宅街ではなく、商業都市としての役割が強くなっていた。結果、人口はさほど増大はしていないが、訪れる人間は多い。世間では夏休みに入り、今日は快晴であることも手伝って夏の日差しの中、多くの人が行き交っていた。

歩き出すと日光に暖められたコンクリートと人の熱で山とは違う粘りつくような暑さを感じた。視界に入る――人、人、人、その多さに圧倒される。僕が住んでいる魔術師の山ではけっして見ることの無い光景。僕は歩き出し、その中にゆっくりと紛れ込む。

しばらく歩くと、僕は軽く空腹を覚えた。近くのビルに取り付けられた時計をみれば、針は二時を指していた。そろそろ遅めの昼食を取ってもいい頃かなと思う。あまり量は多くなくてよかった、パンのような軽食で十分だった。辺りを見回すと『ローレライ』という喫茶店を見つけた。聞いたことがない店名。おそらくチェーン店ではなく個人経営の店なのだろう。そこへ向かう。戸を押し店内に入ると店員のいらしゃいませ、という声と外とはうって変わったクーラの涼しい冷気に迎えられる。

喫茶店『ローレライ』は木造であり全体的にシックな内装の施された店だった。店内は二十席ほどであまり大きくはないが、入り口付近にカウンター席と大きめの窓があることで店内は明るかった。客も昼食時のピークを過ぎてから、僕が入った時にもまだ十人ほどいてそれなりに繁盛していることが分かった。

注文をするためにレジに向かう。

「いらしゃいませ、何になさいますか?」

高校生ぐらいの女の子の店員と向き合う。

メニューを見る。メニューの種類は以外に豊富でコーヒーの種類、サンドのような軽食からカレーのような少し重めのものまで扱っていた。

「ブラックコーヒーとカツサンド、お願いします」

「はい、かしこまりました。オーダーはいります」

店員が応対する。ふとメニューを見直すと週変わりサンドというのが目に入った。

日々の生活に刺激を――ワサビサンド。二百八十円。

「……」

「あの、すみません」

「はい、なんでしょうか?」

「このワサビサンドってなんですか?」

「こちらは週ごとに変わるマスターの独創サンドになっております」

店員が笑顔で答えくれる。

だが、尋ねた途端……なぜだか酷く微妙な空気が流れた。

なにか問題があるのだろうか。すでに名前からして何かしら間違っている気はするが。

店員と目が合う。

ニコニコ。

店員の笑顔は神がかって崩れない。その笑みはプロのものだった。

僕らはしばし見つめ合う。

「――すいません、追加でワサビサンドお願いします」 

「かしこまりました。ワサビサンド、追加で入ります」

虫の知らせ――いや、神の啓示があった。

これはヤバイものなのだと。作った人物の淡い期待のみが掛けられた一品なのだと。

分かってはいた、だが溢れる好奇心には勝てなかった。

少ししてコーヒーと二つのサンドが載ったトレイが運ばれてくる。

温かいコーヒーと見た目にも美味しそうなカツサンド、そして――見た目にも薄緑のワサビが鮮やかなワサビサンド。ワサビがまるでクリームのようにパンに盛られている。それはまるで、デコレーションされたケーキのように美しかった。

目が痛い。

「……」

戦慄が走った。トレイを持つ僕の手が震えてる。僕は早くも後悔しつつあった。

「ごゆっくり、逝ってらしゃいませ」

どこまでも、おだやかな声に見送られる。

窓際のカウンター席に着く。もう一度その物体を見る。美しい薄緑色の暴力。今ここに戦いが始まろうとしていた。

僕は覚悟決める。

「いただきます――」

―――結論から言おう。コーヒーとカツサンドはとても美味しかった。だが、ワサビサンドは……全部食べることはできなかった。本能がそれを拒絶したからだ。 

―――好奇心は身を滅ぼす。先人の言葉は本当に正しい。


 

ブラックコーヒーを口に含む。紫苑のコーヒーとは違った美味しさ。

……味覚が戻ったのはつい先ほどだった。

コーヒーが美味しい。ほんとにおいしい。

心の底からそう思う。

コーヒーを啜りながらカウンター席から夏の日差しの中、人々が行きかう通りを見る。

老若男女、様々な人間の姿がそこにはある。目でどれほど人が通るのか数えてみる。四百、五百を数える辺りで正確さが無くなり諦めた。まるで川の流れのように途切れることなく続く人の歩み。そこか『人』がいない世界を連想できる人間がいるだろうか、あるいは『人』以外の存在が紛れ込んだ世界を連想できる人間がいるのだろうか。それほどまでに世界には人間が溢れている。

現在の人間の人口は七十億近いと言われている。比較的大型の単一の動物種でありながら、これほどまでに増えた種は現在の地球には存在しないだろう。

それらの人間が地球上にいて、別々に生まれ、動き、止まり、息をし、見て、話し、聞き取り、掴み、離し、感じ、殺し、生かし、苦しめ、救い、笑い、怒り、悲しみ、愛し、憎み、信じ、裏切り、傷つけ、治し、背負い、捨て―――最後には死んでいく。想像もつかないほどの意識の集合体。

そうした営みの果てに作り上げてきた、歴史、社会。いまだ終わりの見えない螺旋。

それは人という種の『群体』によって作られてきた。だが同時にそれ『群体』に属している『個』の選択の、行動の結果でもある。

『個』――それは個人、人格、個性、性格、パーソナリティ、『自己』を示す言葉。

――それは果たしてなんなのだろう?


『個』とは何か?


自身の社会の立場である職業か、経歴か、自身の体か、それとも個人の記憶か。あるいはその記憶の捉え方である感性か。

何をもって『個』とするのか。

『個』とは定義も存在も酷く曖昧なものだった。

僕は思うのだ。

僕の今見ている往来行く人々、その内の何人が本当の『自分』というものを知っているのだろうか。

ある学者は言った。人は状況に合わせ仮面(ペルソナ)を被るのだと。

例えば大人で仕事をする時は制服を着て仕事をするために仮面を被り、家庭に帰れば、父や母といった仮面を被る。子どもであれば学校では生徒という仮面を被り、家庭では子という仮面を被る。仮面とは求められた役割に対して応じるための姿、顔。

仮面は他者が自分をどう思うかを意識することで生まれるものである。

だがしかしと、僕は思う。

仮面を被る時、意識する自分とは本当に『自分』なのだろうか。

何をもって自分としているのか。『個』とは酷く曖昧なものだというのに。

あるいは仮面こそが『個』なのだろうか。だが時として人は被った仮面の下で痛みを覚える。そうであれば『自分』とは何処にあるのだろうか。

肉体も感情ですらも、この世界に変わらないものなどなにも無いというのに。

『自分』といえるものはなにか。

何をもって『個』とするのか。

――恐らく、そんなものはどこにもないのだ。

ただ、仮面を被った肉体の中で時として軋む〝なにか〟が『個』なのかもしれない。

それはきっと太陽の下で映し出され、ほんの少しの事でも形を変える影のようなものなのだろう。

コーヒーを飲み終えた僕は店を出た。

歩き出した雑踏にはあまりに多くの人がいた。きっと皆が仮面を被っている。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ