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    ◇



しばらくして。

今はこの屋敷に居たくない――そう強く思った僕はどこかに出かけようと思った。特に行きたい場所があるわけではない。ただここに居たくないだけなのだ。そうこれは気晴らしだ。このままでは潰れてしまいそうだから。

ホテルのロビーのような玄関に出る。靴箱へと向かいスリッパから靴へと履き替える。

玄関から外へと出てみれば、夏特有の生暖かい風、強い日差しに直接晒される。

「暑い……」

思わず呟く。肌の下から汗が噴出すのを感じる。時間は正午に近い。朝に比べると気温は大きく上がったみたいだった。今まで室内にいたせいか強い日差しに眼が馴れず、いささか眩しかった。顔に手を持っていき光を遮る。

顔を覆っていたせいなのだと思う。その物体の接近に気が付けなかったのは。

ポツ。

「ん……」

頬に当たって、何かが弾けたように感じた。だが、その衝撃はほとんどない。頬に手をやれば妙にベタベタした感触を覚えた。

「望お兄ちゃんよけて―――!」

声がした。それもかなり大きめの。

声のした方を見てみれば、干し終わった洗濯物の側に灯火ちゃんと紫苑がいた。灯火ちゃんはすごく慌てた顔をしていた。手には先の割れたストローと液体の入った容器を持っている。対する紫苑はいつも無表情だ。でも格好が今朝着ていた服ではなく、黒と白のメイド服だった。

紫苑は確かに屋敷では家事をしてくれるが、決して使用人ではない。

そう、偏った呼び方でいえばメイドではない。

灯火ちゃんとメイド服の紫苑、なぜか二人の姿が妙に歪んでも見えた。

何故?疑問はいろいろと果てしなく尽きない。

頭がくらくらした。

ついにこの暑さに僕の頭はやられたか?

ちょと、眼を取り出して精度を確かめてみるべきだろうか。

そこでふと気付く。

僕に迫って来るものがある。それは泡だった、僕の体の半分はあろうかという巨大な泡。

それがゆっくりと、しかし確実に迫る。もう避けられそうにない。

そのまま立ち尽くす。

「ああ……」

最後にもう一度紫苑を見てみる。やはりメイド服。

そして思った。

おそらくこの泡は、灯火ちゃんが遊びで作ったシャボン玉なのだろうとか。

視界が歪んだのはシャボン玉のせいだったんだろうとか。

シャボン玉にしては大きなとか。

紫苑のメイド服は、いったい誰の趣味なのだろうとか。

――最後のは本当にどうでもいい事だった。


 

「望様、タオルをどうぞ」

「うん……ありがとう、紫苑」

シャボン玉に当たりベタベタになってしまった顔を屋外の水道で洗った後、紫苑からタオルを受け取る。

「……望お兄ちゃん、ごめんね」

灯火ちゃんは謝りながらシュンとしている。そんな姿は灯火ちゃんには似合わない。

タオルで顔を拭いた後、メガネを掛けながら言う。

「大丈夫だよ、灯火ちゃん。今日は暑いから、こんな風に水に漬かるのも悪くないしね」

「……望お兄ちゃん怒ってない」

「全然怒ってないよ。むしろあんな大きなシャボン玉を作れる灯火ちゃんは凄いなって思ってる」

灯火ちゃんが僕の眼を見る。

「ありがとう、望お兄ちゃん!」

どうやら怒ってない事が伝わったみたいだ。灯火ちゃんがいつもの笑顔を浮かべる。

やはり灯火ちゃんに悲しい顔は似合わない、僕はそう思う。

「ところで、灯火ちゃん。あんな大きいシャンボン玉どうやって作ったの?」

「灯火スペシャルのことかな?それはこれだよ――!」

灯火ちゃんが持っているストローを見せてくれる。そのストローはプラスチックでできていて、先端が大きく膨らんで割れている。恐らく、市販品のシャボン玉を作る為の専用の物なのだろう。確かにこれなら、練習すればさっきのような大きなシャボン玉も作れるかもしれない。

「焔お姉ちゃんが、この間帰って来たときプレゼントにくれたの。だからいっぱい練習して、今度帰ってきた時もっと大きなシャボン玉を見せてあげるの!」

灯火ちゃんには二人の姉弟がいる、だが今はどちらも傍にはいない。たとえ傍にいられる時間があったとしてもその時間は、あまりに少ない。

「そっか。ところで灯火ちゃんもうひとつ訊いてもいいかな?」

「なにかな、望お兄ちゃん?」

僕は今まであえて触れなかった事に触れてみようと思った。

メイド服の紫苑。紫苑が自分からこういう服を着るとは僕には思えない。

「……どうして紫苑がメイド服を着てるのかな?」

「わたしがね、しーちゃんにきてみたらって言ったの。このお洋服を着たしーちゃんかわいいと、望お兄ちゃんは思わないかな?」

灯火ちゃんが紫苑を見る。僕もつられて見る。白いカチューシャ、フリル、それと対比するかのような黒いブラウスとスカート。紫苑の容姿と相まって僕の目から見てもそれは可愛らしく見えた。無表情なのが気になるが、逆にそれが良いという輩もいるかもしれない。だが特にそれが趣味というわけではない僕には、それ以上の感情の動きは無かった。

「どうでしょうか、望様?」

紫苑が尋ねてくる。

「……まあ可愛いとは思うよ」

とりあえず答えておく。

「……本当でしょうか、望様」

紫苑は声色が少し不安げなものに聞こえた。

「似合っている、とは思う……」

言葉を繋ぐ。

「ありがとうございます、望様」

安心したように紫苑が軽くお辞儀した。

「よかったね、しーちゃん!」

「灯火ちゃん」

灯火ちゃんが紫苑に嬉しそうに抱きつく。紫苑はそれを抱きとめる。

メイド服なんてどこにあったのだろう。この屋敷に以前いた使用人のものだろうか。

「やっぱり、テレビはすごいね。わたしこの間見たもん。今しーちゃんのカッコをした女の人が働いてるきっさてんが流行ってるって。男の人がたくさんいたから望お兄ちゃんももしかしたらって思ったけど、合ってたよ――!これで望お兄ちゃんは、もっとしーちゃんのことみてくれるようになるかな」

それはきっと、灯火ちゃんのどこまでも純粋な紫苑に対する思いやり。

だが――

ベクトルがおかしな方向に進んでいるような気がしてならない。

誰が悪いんだろうか、僕か、テレビか、それとも神様か?

ただ、これだけははっきりしている。

……僕はあらぬ疑いを受けたように思えてならない。

念のため言っておこう。僕はメイド服をかわいいとは思うが――いわゆる〝萌え″たことは一度もない。



いくつものシャボン玉が空へと昇っていく。

しかしそれが青い空に辿り着くことは無い。

なぜならシャボン玉はあまりにも脆いから。

壊れやすくて、仕方ないから。

だが、それ故に――

灯火ちゃんが楽しげにシャボン玉を吹く。

その光景を紫苑と二人で並んで見ていた。服装は先ほどのメイド服ではなく、今朝着ていたものだった。メイド服からは着替えてもらった。僕には今日一日ずっとあの格好の紫苑と顔を合わせるのは、気恥ずかしいものがあったからだ。

シャボン玉が生まれては消える。ただそれだけが繰り返される。

青い空に届くようにと。ただ、儚い夢を見続けるように。

「望様、聞いてもよろしいでしょうか?」

「なにかな、紫苑」

紫苑の方に顔を向けてみれば、紫苑もこちらを見ていた。視線が合う。

「シャボン玉はどうしてあんなに――壊れやすいのですか?」

それはとても純粋な言葉のように聴こえた。まるでまだ世の中の(ことわり)を知らぬ子どもが発するもののように。

「それはきっとシャボン玉が、どうしようもなく――綺麗なものだから……」

知らずの内に僕はそう、答えていた。

「壊れやすくて、綺麗なもの。それ故に人はそれに焦がれのでしょう。でも、それを綺麗のものだと感じるのはいったい何故なのでしょうか。壊れてしまう事を知っているが故に人はそれを綺麗だと感じるのでしょうか?」

紫苑は続ける。その言葉はどこまでも透き通る。僕から視線が外れることはない。

人が綺麗なものが壊れやすい事に気がつくのは何時なのだろうか。

壊れる前からなのか、それとも壊れてしまった後からなのか。壊れた後、綺麗なものだったと思い返すのか。

それは――果たして何時(いつ)なのか?

僕はこう返す。

「紫苑、僕は綺麗なものは本当は最初から綺麗なんだと思う。そして――」

綺麗なもの。それは本当はありふれていて、それ故に透明だから気が付くことが難しい。だから壊れてしまった後に人はその事に気がつく。それはよくある物語。

しかし。

僕は、望月望は――そうではなかったのだと思う。

「――僕は出逢ったその瞬間からその存在を綺麗のものだと感じたんだ。そしてもう出会えないとも思っている」

望様は…そう感じているのですね、そう今もまだ。私は――」

紫苑の声が悲しげに聴こえた。

なぜ悲しげに聴こえたのか僕には分からなかった。

紫苑はいつも無表情なはずなのに。

短い沈黙。

そのとき風が吹いた。紫苑は髪を押さえながら答えた。

「――綺麗なものは創りあげていくものだと思います。それが、どんなに壊れやすかったとしても。その在り方が綺麗なのだと思います」

「紫苑、それは……」

紫苑の言葉に僕は詰まった。なぜなら紫苑は、その〝本来〟の在り方は――

「続いていく日々を――それが私の意志です」

紫苑の瞳は揺るがない。

シャボン玉。それはあまりに脆い。

壊れやすい幻想のように。

少しの風に吹かれ、または軽い衝撃でもすぐに割れて壊れてしまう。

だが、いつか消えてしまうとしても、どんなに壊れやすくても、それは確かに存在する。

この世界で変わらないものなどきっと無い。そして最後には消えて行く。

だが、消えてしまった後も〝存在していた〟という真実だけは決して誰にも消す事はできない。

夢はまだ終わらない。紫苑はいつしか夢を見ていた。


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