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廊下から出て階段へと降りる。そこにはまるで高級ホテルのようなロビーが広がる。ただ受け付けだけが無い。そこを通り食堂へ入る。
「望おにいちゃん、おはよ――!」
食堂に入ると、夏らしい黄色のワンピース着た十歳くらいの少女がいた。にこーとした笑顔と 元気な声で迎えられる。可愛らしくお辞儀をしてくれた。
「おはよう」
僕もあいさつを返す。なんともすがすがしい。無表情な紫苑には望めないことだ。
灯火ちゃん。本名、上神灯火ちゃんは何時だって元気だ。例え、雨が降っていても灯火ちゃんが元気なら憂鬱にはならないだろう。逆に灯火ちゃんに元気がないなら、晴れていても憂鬱になるかもしれない。灯火ちゃんはこの屋敷の住んでいるというわけではない。近くの屋敷に住んでいるだけなのだが、ただ紫苑と仲が良くて遊びに来ていた。そしてそのまま今のように、一緒にご飯食べるようになっている。
僕としても、ずっと紫苑と二人きりはなにかと都合が悪いのでこの方が良かった。
「ごはん、もうできてるよ。いっしょに食べよ――」
そう言うと、灯火ちゃんはトタトタと歩いて席に着く。食卓には既に料理が並んでいて、食欲をそそるいい匂いがした。紫苑はまだ来ていない。
紫苑が来るまで灯火ちゃんと話をした。ご飯は三人で一緒に食べることが決まりだった。
夏は寒くなくていいこと。でも友達の猫さんは、暑くてまいっていること。スイカが美味しい事。最近、向日葵が沢山咲いている丘を見つけたこと。そんな取り留めの無いことを話した。
今度みんなで向日葵が咲く丘にいこうよ、と話したところで紫苑もやってきて席に着く。紫苑は灯火ちゃんの隣、僕は灯火ちゃんの前に座る。
この家の食堂は広い。十人以上は余裕をもって食事できるだろう。正直言えば三人だけでは空席と、教会で使うような長い机の空いているスペースの方が目立つ。しかし、この事は三人しかいないので仕方ない。内装は僕の部屋と同様、派手さはないが作りのいいもので統一されている。壁には所々絵が掛けられているが、その内の幾つかは高校などの教科書に載っていたものではないかと僕は思っている。しかも恐らくは本物であろう。テレビは巨大な液晶テレビがあるがつけない。
いだだきます、と三人で一緒に言うと、ご飯を摘まむ。
メニューはパンとシーザーサラダ、それとミネストローネのスープだった。
「おいしいね――!」
料理が灯火ちゃんの口の中に次々と消えていく。気持ちのいいほどの食べっぷり。
僕も食べる。美味しい。特にトマトの味の効いたミネストローネが絶品だった。トマトの味が効き過ぎず、また弱過ぎずほどよい味。
「今日もおいしいよ、紫苑」
「ありがとございます。望様、灯火ちゃん」
表情を変えず頭だけを丁寧にぺこりと下げる紫苑。しかし少しだけ――ほんの少しだけはにかんだように、僕には見えた。
紫苑が料理を始めたのはこの家に移り住んだ八ヶ月前だが、僕は彼女の料理に不満を覚えた事がない。最初こそは失敗もあったが、それも許容範囲だった。それから紫苑は料理の腕をメキメキ上げている。それは未だに止まることがない。
「もう少し、ゆっくり食べていいんですよ」
「だって、しーちゃんのお料理おいしいだもん」
しーちゃんと呼ばれている紫苑は、食べる勢い余って口の周りをベタベタにしている灯火ちゃんの世話を焼いている。ティシュで口の周りを拭いている。
「ありがと、しーちゃん。えへへ――!」
灯火ちゃんがにこーと笑う。
どういたしまして、と表情を変えずに返す紫苑。
静と動。正反対の組み合わせ。その対比が妙だった。
微笑ましい光景。
見ようによっては仲の良い姉妹、あるいは親子にも見えるかもしれない。しかし僕らは同じ食卓を囲もうとも、兄弟でも親子でもなかった。偶然かあるいは必然で一つ屋根の下に集まった、他人でしかなかった。
実の所、この状況は常に微妙な均衡を保って続いてきた。
続いている事は『偶然』なのかそれとも『必然』なのか。
なぜなら――ここにいる者たちは少なからず『異』を背負っているからだ。
『異』とは現代における『魔』だ。
この光景はいつまで続くのだろう。
ふとそんな事を思った。
◇
食後、僕は紫苑の淹れてくれたコーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。
コーヒーの味はブラック。僕の好みの味である。
紫苑はキッチンで洗いものをしている。灯火ちゃんは僕の隣にいて、液晶テレビで教育番組を見ている。内容は『なんじゃらホイ』というものだった。アゲアゲさんというメガネを掛けた工作職人と、だいじろーという名前のごっつい熊が毎回折り紙やダンボールといった材料で遊び道具を作るといった工作番組だった。灯火ちゃんからはおお――、という感嘆の声が上がる。どうやら紙工作で凄い物が出来たらしい。
僕は新聞記事に目を通す。新聞の一面を飾っていたのは、連続変死体事件に関するものだった。
見出しには「逃げ出した大型動物の仕業か?」とあった。
事件のあらましはこう書かれていた。最近、都市部の近郊都市、御崎市において路地裏で人間バラバラ死体が発見された。現場は全て別の場所。被害者は今のところ九人でそのほとんどが、派手でドロップアウトしたような高校生ばかりであったが、彼らに面識はなく関係性は低かった。最後の被害者に至っては普通のサラリーマンだった。
ただこの事件は被害者が多いにも関わらず、当初から殺人事件とは見なされなかった。なぜならそれはとても人為的にできるとは思えないものであったためである。死体はまるで引き千切られるような有様であった。そうまるで、二、三匹のゴリラか何かに襲われ引っ張り合いでもされたかのような。ダンプのような大型車でも無理だった。現場となった路地裏は全て狭い所にあり、大型車が入ることは不可能だったためである。しかし近隣の動物園では動物が逃げ出したという不祥事もなく、事件は謎のまま四件目が起きていた。警察は未登録の輸入ゴリラが逃げ出したとして、捜査を進めているが、未だ事件の解決のメドは見えず、市民には恐怖だけが残されているという内容だった。ただ事件は夜の人気のない路地裏だけでしか起こらないので、該当しそうな場所には近づかないようにと注意が促されていた。
――人にはできない事件、というそんなどことなく奇妙な事件だった。
僕はなぜか、路地裏だけという文字が妙に目に付いた。コーヒーを飲んでいるせいもあってか、思考が無駄に走った。もしこの事件が人為的に――何かしらの意思を持つ者によって引き起こされたものであるのならば。僕が思うに、この事件の犯人は、〝路地裏〟という場所に異常な執着を持っている。もしかしたら、殺人は二の次で、殺人の前に路地裏で事が起こせる方が重要な可能性もある。
路地裏を現場に選び続けている――様々な可能性を捨てて一つを選び続ける、そんな〝異常〟ともいえる執着心を持つ生物は一種類しか知らない。ならば路地裏に意味があるのは事件を起こした者の方だけだ。そうであれば実の所、被害者には意味が無い。最初に路地裏が現場になったのは偶然だったのかもしれない。しかし二回目からは起こした者には意味があるのだ。
現代、こと都市部において人の目は多い。しかし逆に人が多いという事は多くを気にできない、如いては無関心を育てることにも繋がる。詰まる所、殺人が行なえる現場として路地裏だけを選び続ける意味が無い。現場であれば近郊の廃ビルなどでもいいはずである。むしろ、似たような現場を選び続ける事は通行人や警察に警戒されるなど、なにかとリスクがある。
仮にそうだとすれば、路地裏に執着し待っている殺人者が事を起こせるかどうかは実は、『必然』ではない。路地裏を通った被害者の彼らが『偶然』、災厄に会ってしまっただけなのだ。新聞に書いてある通りであれば、この事件は人には起こせないだろう。起こせるとすればそれは、現代の常識には無い『異』である『魔』だ。そもそもこの事件自体が現代では『人』ではできないという『魔』染みてきている。逆に考えれば被害者の方に出会ってしまった『必然』があったとも言える。 日常ではまず出会うはずのない『魔』に。たまたま今日だけはそこを通らなくてはいけなかった。あるいは道を間違えた。そんなどうしようもない『偶然』が。
しかし、それは死という『必然』の結果をもたらした。
『偶然』と『必然』、そこに差はあるのか。
その果てにはただ、どうする事もできない結果だけが横たわっている。
結果だけがもたらされるなら、その中で僕らはどうすればいいのか。
まるで不条理のような世界の中で何ができて、何が残るのか。
魔術師になる前の出来事が頭をよぎった。
――壊れた白い日々の果て。
――無くした旋律の音色は何処にあったのか。
――辿り着かない、どうしても。
いささか行き過ぎたかなと思う。思考を切り替えるとする。
それはどうする事も出来なかったのだと、自分に言い聞かせて。
事件だって恐らく『魔』など関わっていなくて、なんらかの形でそのうち解決されるだろう。『魔』は〝現代〟ではそう出会えないから『魔』なのだから。だいたい僕の推察は所詮、新聞を読んだ程度の素人の推察だ。当たっている訳もない。影月に聞けばもう少し詳しい話が聞けるかもしれないが、それはそれで面倒だった。
「御崎市か……」
御崎市は『僕』が生まれ育った街である。この屋敷ある県内にあり、ここからもさほど離れてはいない。住んでいた時の事を思い出そうと思ったが、うまく出てはこなかった。
コーヒーを口に含むと、いつの間にか冷たくなっていた。
◇
「ねえ、望お兄ちゃん。しんぶん読み終わった?ちょっとおはなししてもいいかな?」
飲みかけコーヒーを飲み干そうとしていると、灯火ちゃんに話しかけられた。
テレビを見ていた灯火ちゃんが僕の方に向き直る。テレビを見ると番組は経済ニュースになっていた。この番組はさすがに灯火ちゃんにはつまらないだろう。
ちょうど気分を変えたかったので僕はいいよ、と頷いた。最初は先程まで灯火ちゃんが見ていたテレビ番組の事で話した。
アゲアゲさんとだいじろーが作った思春期の娘がいるお父さん必須の変な虫が付かなくなるバンノウハエトリソウや、家族と住む中高校生が欲しがる大切な本を安全に隠せるニダンベットの作り方。それから男女の修羅場になった時に必要なソノバシノギの上手いやり方。
「どれもどうして必要なのかな?望お兄ちゃん、わたしにはぜんぜんわからないよ――」
「……灯火ちゃんにもたぶん何時か分かるよ」
「……望お兄ちゃんに、今教えて欲しいな?」
灯火ちゃんがとことこと近くに寄って来て上目遣いで聞いてくる。その姿は可愛らしい。
だが灯火ちゃんにはまだ早いと、もしくはまだ知らなくてもいいと思う僕は間違っていないと思う。だいたいどれもこれも、紙とダンボールで作るものではない。
だから僕はこう答えた。
「それはね、灯火ちゃん実はね誕生日のプレゼントと一緒なんだよ」
「どういうこと?」
灯火ちゃんが首を傾げる。
「つまりね、誕生日のプレゼントも誕生日よりも早く分かっちゃうと少しつまらなくなったりしない?」
「そうかも――、焔お姉ちゃんとかわかりやすいし」
灯火ちゃんが頷く。灯火ちゃんには年の離れた姉兄がいた。
「それと同じなんだよ。ちゃんとした時に分かった時の方がより嬉しい事もある。だから今は教えられないんだよ」
「そっか、わかったよ。望お兄ちゃん、ありがとう!」
灯火ちゃんが笑う。一応納得してくれたらしい。
しかしどうにもいまいち笑えなかった。
それから最近灯火ちゃんがお気に入りのヒーローもののキメゼリフについて聞いた。
「どんなセリフなの?」
「オレの弱さに――オマエが泣いた!」
灯火ちゃんがポーズを決める。そのポーズはどう見ても土下座にしか見えなかった。
全米が泣きそうだ。
正義の味方なのに。
アーメン、なんとなく十字を切ってみる。
……なんか間違ってないか、最近の番組。
「ところ、望おにいちゃん……ちょっと聞いてもいいかな…?」
急に声のトーンが落ちる。灯火ちゃんの表情はひどく真剣なものだった。
この子がこんな表情をすることはひどく珍しい。
なにかな、僕は灯火ちゃんと向き合った。なにか大変な事なのかもしれない。
「望お兄ちゃんは……そのね…うんっとね…」
「うんっと……その…」
言いにくいことなのか、言い淀んでなぜか顔が赤くなった。どんな事なのだろう、何か恥ずかし事なのだろうか。でも表情はやはり真剣だ。
「ゆっくりでいいよ」
すこしでも言い易くなるように、優しく笑いかける。
「う、うん。わかったよ……」
灯火ちゃんは落ち着こうとするためか、自分の胸に手を当てて何度も息を大きく吸い、吐いた。
その様子はまるで、始めての幼稚園の演奏会に臨む子どものようで可愛らしい。
しばらくすると灯火ちゃんが落ち着いてきて、もう一度こちらを向く。
そして彼女は言った。
「それじゃあ…言うね。望お兄ちゃんは…しーちゃんのこと……好きかな?」
「えっ……」
コーヒーのカップを持ちながら笑顔のまま固まった。一瞬、テレビの音も灯火ちゃんの声も遠くに聞こえた。
「きっとね…しーちゃんはね、望お兄ちゃんのことが好きなの。だから、お料理もいつもおいしいの。食べてほしいひとがいるから。しーちゃんにとって望お兄ちゃんは大切なひとなの、ほんとうに」
灯火ちゃんが言葉足らずになりながらも言葉を紡ぐ。もう顔は赤くなく、真剣そのものだった。
「……」
――紫苑が僕を。
言葉が出ない。この子を前にしたら嘘はつけない。灯火ちゃんは鋭い。その鋭さは子ども故か、それともそれ以外のものなのか、僕には分らない。それよりも灯火ちゃんの真剣さを裏切りたくなかった。灯火ちゃんの真剣さは純粋に紫苑に対するものだから。それだけは分かるから。
でも、うまく答えることはできなかった。紫苑に対する僕の感情。それはとても複雑なものだった。
紫苑は僕の失った大切な人に似ているのだ。似ているどころではない、瓜二つだ。
――なぜなら彼女を生み出したのは、魔術師になる前の僕自身に他ならない。
それは本来僕の大切だった人を黄泉返す、という行為になるはずだった。
そうすればすべて取り戻せると信じていた。信じたかったのだ。
しかし、その行為は新たな命を生み出す『再生』でしかなかった。
それが僕の限界だった。
『偶然』の果てのどうしようも無いほどの『必然』
僕は、いつも無表情な紫苑の感情の多くを知らない。知ろうとはしてこなかった。
僕はいつも彼女にどう接すればいいのか分らなかった。
死んでしまった大切な人と同じ顔した紫苑。けれど紫苑は同じ人間ではなくて。
――君はなぜ生まれたのか?
僕は紫苑に大切なことは何ひとつ話してはいない。
それでも生み出された紫苑は、ただ何も言わず僕の傍にいる。
いっそ問い詰められたり、拒絶されれば楽なのに、今も傍にいて。
僕は怖いのだ。彼女の内側を知ることが。
紫苑が僕をどう思っているのか。
それはきっと、傲慢。
「灯火ちゃん、僕は……」
なにか言葉を捻り出そうとして口を開いた、その時だった。
「灯火ちゃん、少しいいですか……」
食器が洗い終わったのか、食堂に紫苑が入ってきた。
「「―――― ! 」」
突然の登場に二人して思わず息を呑んだ。
「どうかしたのですか?」
「ど、どうもしないよ。ね、ねえ、望おにいちゃん……」
「あ、ああ、まったくいつもの通りだよ……紫苑」
二人とも、バクバクしている胸を押さえる。
話しの内容だけに正直、驚いた。
「そうですか」
いつもの平坦な口調で紫苑が返す。話の中心人物だけが、極めて冷静だった。
「……ところで紫苑なんの用かな?」
「そうでした。灯火ちゃん、洗濯ものを干すのを手伝ってもらえませんか?」
「う、うん、いいよ」
灯火ちゃんがまだぎこちないまま笑顔で頷く。
「では、先に行きます。それでは灯火ちゃんお願いします」
お辞儀をすると、紫苑は食堂から出て行った。
残された僕らは、二人して大きく息を吸い吐いた。
それでようやく呼吸が落ち着いてくる。
「びっくりしたね。望おにいちゃん」
「そうだね」
二人して顔を見合わせる。
確かに紫苑の登場には驚かされた。しかし僕の興味は、なぜ灯火ちゃんがこんな話をしてきたのかという方に移っていた。
それを灯火ちゃんに訊いてみると彼女は夏の日差しの中、笑顔でこう答えた。
まるで揺ぎ無いひとつの真実を告げるように。
「ひとはみんなひとりしかいなくて、もしたいせつなひとがいて、そのひとがおなじきもちでいてくれたら、とてもしあわせになれるとおもったから」
後で望おにいちゃんの答えを教えてね、灯火ちゃんはそう付け足すと走って食堂から出ていった。紫苑の手伝いに行くのだろう。
一人きりになった食堂でブラックコーヒーの最後の一滴を飲み干す。苦い。
食堂の窓から入る夏の日差しが、コーヒーのように黒い僕の影を映す。
――分かっている。自身の影ばかりを見続けても答えはそこにはない。
過ぎ去った過去はどうすることもできない。しかし未来を考える材料は過去にしかないのも事実だった。
今の僕には、どうしても答えを出すことが出来ない。