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俺は夢を見ていた。白い日々の夢を。
それは俺には過ぎた夢にも思えた。
それでもそれを失った時、俺はもう一度それを手にしたくなった。
それから俺は時を忘れたように打ち込んだ。
失くした白い日々の音色を見つける事に。
こうして手にしたのは、まったく同じでありながら別のもの。
そうなったのは『偶然』か、それとも『必然』か。
結果だけが横たわっていた。
この時『俺』は『僕』になる事を受け入れた。
女が微笑む。
それは同じでありながら、まったく別の微笑みだった。
かつての日々の再現のようでありながら、同じものではない。
僕もまた変わってしまった。
そうして続いていく日々は僕の望まなかった結末、開かれた可能性。
まるで鏡合わせのような望まぬ螺旋。
僕は失ったものは二度と手に入らぬという結果を知るために、足掻き続けてきたのだ。
この手はもう届かない。
同じ旋律が奏でられる事は、二度と無い。
一章 白亜幻想
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――夢を見ていた。
しかし、それは夢だと言えるものなのだろうか?なぜならそれは、古代から続く魔術師達の記憶なのだから。古代から現代まで様々な時代の中で魔術師達は、一人の魔術を行使する者としてその時代の中にあった。そこには様々な体験、様々な記憶、感情があった。時という大きな流れ。魔術師達はその流れの中で確かに生きていた。
それらが、螺旋となって渦巻く。人いう生き物は戦争や政治、宗教、日々の営みを行う。それらは同じように見えながら、決して同じものはない。ただそれは積み重なっていく。
まだ終わりの見えぬ螺旋。それは魔術の歴史であり、同時に人の歴史でもあった。魔術は、人の知れぬ所で常に人の歴史と共に在り続けていた。
その螺旋が何処に向かうかは、僕は知らない。僕が今代の魔術師だとしても。
それを知るものは人の未来を、人の世の終わりを知るものだろう。
どんな万物にも、やがて終わりは来る。
それはどうする事もできない一つの真理である。
ただその螺旋はまだゆっくりと上へと伸びていた。その様は僕に一本の木を連想させた。
――世界樹
その名前を持つ樹は人が生まれて以降、共に在った樹だ。そして恐らく人の歴史の終わりまで人と共に在り続けているもの。その樹は常に魔術師の側にある。
螺旋の中、その中心にいる僕は思わず呻いた。過去から積み上げられた魔術師達の体験に、その記憶に、その感情に。それは、魔術師たちの〝生〟の記録だった。遥か過去から積み重ねられたそれは『僕』という個人の前では大海の波を連想させた。それが押し寄せる。それに抗する術を僕は知らない。ただ身を委ねるしかなかった。
今日もまたその奔流の中にいた。すぐに記憶という名の情報の波が肺を、脳髄の限界を超えて満たす。
――朝はまだ遠い。
魔術師となった者は、過去の魔術師達の記憶のすべてを受け継ぐ。それが魔術師となった者に課せられる数少ないルールの内の一つである。『魔術師』は時代を超えて引き継がれていくものであった。その終わりを、魔術師である僕であっても見ることはできない。
八ヶ月程前、二十二歳の時に魔術師となって以来、僕の見る夢は他の魔術師達の〝生〟の記憶だけだった。
――この夢はいつ終わるのだろうか。
今日の夢は隻腕の――業火を纏った魔術師のものだった。
僕は彼を知っていた、会った事もある。彼は先代の魔術師だった。僕は彼から『魔術師』の称号を引き継いだのだから。
彼は焼いた、その業火で。自らが憎んだものを、肉親を、敵を、そして愛した者も。
――神ですら焼いた。彼は神殺しでもあった。
彼は業火だった。彼を構成する箱庭の中身をことごとく、自分で焼き続けた。それ故に手にできるものは何もなく、最後は自らすら焼き切った。
それでも彼は歩み続けた。すべての罪を背負って歩き続けた、灰になるまで。
夢は続く。
余りにも多くの奔流、魔術師達の〝生〟の記録、『魔』と共にあり続けた命。その圧倒的な情報量の前で僕の意識は虚ろだった。
――溺れているとも言えた。意識は大海に沈み、たゆたう。
しかしその中で、虚ろなのは僕の意識だけではなかった。『僕』という存在もまた、限りなく虚ろだった。幾多の時を重ねた魔術師達の〝生〟の記憶と、二十年と少ししか無い僕の〝生〟の記憶。それらが混じり合う。大海に注がれる僅かなコップの水。幾らか色や成分が違っていたとしても、大海に混じってしまった水は見分けることも、区分けをすることもできない。それと同じだ。意識が融ける。人を人として成り立たせるのが個人の〝生〟の記憶であるのなら、それらが限りなく混在する僕はなんなのだろう。
そしてふと思うのだ。
僕は、いったい誰なのだろう?
大海に寄る辺はあるのだろうか。
『僕』は何処にあるのだ。
何処にあるのだ。
底知れぬ恐怖が襲う。
分らない。
それが、ワカラナイ。
致命的にワカラナイ。
恐怖ヲオサエられない。
――ボクハ、イッタイダレナノダロウ?
僕の中に僕でない記憶が詰まっている。
ソチラのホウがアットウテキにオオイ。
ボクハ、ダレ?
見つからない。ミツケルコトガデキナイ。
コノままデハ、オボレテシマウ。融けてしまう。
クルシイ。ドウシヨウモナク、苦しい。
手を伸ばしても水面は遠い。
ドウスレバイイ。ドウすれバイイ。
「の…ぞむ…さま……」
コエガ、キコエル。
ダレカガ、ナマエヲヨンダ。
「のぞむ…さま……」
ソノナマエヲ、ボクハシッテイル。
「望様……」
ソレハ、ボクの名だ。
ノゾム――僕の名だ。
僕こと、空望は魔術師だった。
意識が覚醒する。夢が終わる。
朝が――来ていた。
ただ、光がある。
「おはようございます。望様……」
朝の目覚めはいつもの通りだった。
ゆっくりと目を開け、僕は枕の隣のメガネに手を伸ばす。これでぼやけていた世界はクリアになる。僕は目があまり良くない。そこは僕の部屋だった。贅沢な内装でありながら、派手さはない落ち着きのある部屋。けれど見る者が見れば一流と判る部屋。この部屋が僕の部屋になったのは八ヶ月前だ。質素ではあるが、アンティークで作りのいい時計を見れば時間は8時だった。夏だけあって、朝でも蒸し暑く、体はわずかに汗ばんでいた。
しかし、それは決して不快ではなかった。目覚めも悪くない。夢に関しては慣れたつもりだ。
「おはよう……」
僕は挨拶を返しながら、僕を起こした人物を見た。
ベッドの傍にいたのは黒髪が長く、腰近くまで流れる少女だった。年は十七、十八歳ほどに見えた。
彼女の名を、紫苑という。
パッとみれば彼女は、ひどく容姿の整った黒髪の長い人形のように見えた。無表情な顔がその印象を強めていた。
「お食事ができております……。食堂にお越しくださいませ」
抑揚のない声。白いブラウスに青いロングスカート。シンプルな服装。朝食の準備の名残であろう可愛らしいヒヨコがプリントされたエプロンだけに茶目っ気があった。
ちなみにヒヨコのエプロンは僕の趣味ではない。近所の子、灯火ちゃんが持ってきたものだ。
普段は質素な服装をしている彼女だが、程よく可愛らしく着飾って街を歩けば、その容姿で何人もの男が寄って来ることは容易に想像がついた。
紫苑はこの屋敷の家事全般を受け持っている。だが彼女は、豪邸といっても差し支えのないこの屋敷の使用人という訳ではなかった。正確には同居人なのだが、いつの間にか家事をするようになっていた。その理由を僕は詳しくは知らない。しかし紫苑が家事をしてくれることは助かっていた。僕一人ではどうしようもなかっただろう。
「ああ、わかったよ。早めに行くよ」
返事を返す。
「はい……」
彼女は頷いた。この後、ベッドから離れ一礼をして立ち去る。それがいつもの朝だった。
しかし、今日は違った。
紫苑は立ち去らずベッドの傍にいた。そして体を寄せて、僕の顔を覗き込んでくる。丹精な顔も近づく。
「どうしたの……?」
「望様、大丈夫ですか?」
そういって手を伸ばして、頬に手を当ててくる。無表情な顔が心なしか心配そうに見えた。顔が更に近づく。
僕は不意に頬が熱くなった。体温も上がったなと思う。
ただ――同時に胸に鋭い痛みが走る。どうしようもなく。
その理由を僕は知っている。
――彼女の顔が、あまりにも似ている。
――失ったものに。
そのことは彼女には言わない。だから僕はこう返した。
「大丈夫だよ」
「本当…ですか?」
「ああ、なんの問題もない」
「そうですか、失礼しました」
深く追求はしてこない。紫苑が離れる。そしてこちらを見たまま入り口へと下り、一礼した。僕はまだベッドの中にいた。
「ところで、紫苑。一つ聞いてもいいかな?」
「なんでしょうか?」
僕は彼女に聞いておこうと思った。彼女の行動がいつもと違っていたので。
「僕はどこか悪そうに見えたのかな?」
「それは、望様が泣いていらしたからです……。それも心が」
そう言って彼女は、部屋を去った。
僕は目元に指を当ててみる。
そこには――確かに水滴が溜まっていた。
昨日の夜、僕は何故泣いていたのだろうか。
それが、分からない。僕は泣いた時、悲しかったのだろうか、それとも嬉しかったのだろうか。
泣く理由が思い付かない。
どうしても。
朝ご飯を食べるために、着替えることにする。ベッドから出る。
立ち上がると少し眩暈がした。無視をして寝巻きに手をかけ脱ぐ。紫苑が綺麗に畳んでくれた服を手に取る。洗剤の匂いがした。ブルージーンズを履き、シャツのボタンを留める。シャツの下には何も着てないが、真夏なので寒くはない。ベルトを締める。
着替え終わった後、僕は茫として自らの部屋を眺めた。
この部屋は、八ヶ月前に僕の部屋となった。大抵の事があっても八ヶ月あれば、部屋に慣れてくると思う。しかしこの部屋は――馴染み過ぎていた。そう何十年も住んでいるかのように。正直に言えば、魔術師となってこの部屋に初めて入った瞬間から、何の違和感もなかった。むしろ今まで『僕』が住んできた自宅よりも親しみを覚えたほどだった。だから家具の使い方も、どこに何が仕舞われているかも全て知っていた。
――そう初めて訪れた時、それは帰還でしかなかった。
――この部屋は歴代の魔術師達が引き継いできた部屋だった。
――部屋は主が変わらない事を、きっと知っていたに違いない。
――いつもの通りに。それは何代にも渡って続いてきた事。
身支度を整えた後、赤い絨毯の敷かれた廊下に出る。
窓からの日差しは強く、そして暑い。近くに蝉の声がした。
部屋と同じように歴代の魔術師達に引き継がれてきたこの屋敷は、人里を離れた山の中にあった。
人為的な音はしない。人が在るべき世俗は遥かに遠い。
季節は夏。いつもの夏と同じようでありながら、それはもう二度と訪れない季節だった。