クリス・ハワード
「大丈夫かい? 怪我はない?」
「……すいません。わたしは大丈夫です」
由衣は差し伸べられた手を握って、起き上がった。その人は若い男性だ。しかも外国人である。
「ありがとうございます」
顔を真っ赤にしながらお礼を言う由衣。
「いえいえ、ボクはどうもないから安心して」
その外国人の若い男は終始笑顔のままである。
由衣は、その男を見た。背の高い白人の男性である。歳は二十……いや、もしかしたらもっと若いかもしれない。金髪の髪も麗しい、美男子だった。グレーのシャツに、ブルージーンズというカジュアルな格好で、おそらく観光客かと思われた。
「本当にすいません。よく前を見てなかったもので……」
「いいんだよ。日本人って本当に何度も謝るね。どうもないのだし、一度でいいんだよ。可愛いお嬢さん」
若い男は笑顔を崩さない。
「は、はあ……」
「ボクの名前はクリス・ハワード。クリスって呼んでくれ」
「そうですか……わたしは早川由衣です。わたしの方も由衣と呼んでくれたら」
「ユイ! いい名前だね。姿だけじゃなく、名前もチャーミングだ!」
クリスは大袈裟な手振りで言った。こういう部分が、いかにも外国人という感じがした。
「……そうですか? あの、日本語お上手ですね」
「ああ、そうさ。ボクはね、日本語を勉強してたのさ。日本語はいいね。素晴らしい」
クリスは普通に日本語で話していた。発音もまったく違和感がなく、たいしたものだった。
「そうですか……」
それからしばらく、クリスはあれこれ話し始め、いつの間にか一時間は過ぎていた。
「――じ、じゃあ。どうも失礼しました」
赤みを帯びてきた夕方の空の下、由衣は足早に去っていった。その後ろ姿をずっと眺めているクリス。
「ふふ、君か……」
エリスは、<ニュクス>の親しかった捜査官と電話で話していた。
『――そっちはどうだ? エリス』
「ええ、特には。親しい人もできたし、ゆっくり骨休みをしています。お金も厳しくなりますし、こちらで仕事を探さないと……」
エリスはどこか力の抜けた声色だった。
今回のこの仕打ちは、言ってみればドイツに帰ってくるな、と言っている様なものだった。おそらくドイツに帰っても、<ニュクス>はおろか、他でもまともには仕事が回ってこない可能性が高かった。
『悪いとは思っている。だた有能であるだけに、我々も辛いんだ……ううむ』
「どうしたのですか?」
『いや、ちょっと気になる事があってな』
「気になる事?」
『ああ。フランスの軍関連施設でトリチウムが持ち出されている』
トリチウムは、水素の放射性同位体であり、三重水素ともいう。半減期が十二・三年と割合短く、毒性も弱い為、軽視されがちではあるが、体内に吸収されやすく危険である。
「トリチウムがなぜ?」
『わからん。わからんが……どうも気になる』
電話の向こうの声が渋くなった。
「テロの可能性ですか? しかしトリチウムなど何に……」
エリスは考えた。しかし思いつかない。やはり調べるのが最初だろう。
『そのあたりも調査が必要だろう』
「私では、たいして力にはなれないしょうが、できる事はやってみます」
『ああ、すまんが頼む』
午前十時すぎ、由衣は目を覚ました。いつもの通りではあるが、由衣の朝は遅い。会社を辞めてから、出勤時間をきにする必要がなくなり、あっという間に起きる時間が遅くなった。
以前は午前七時半には会社のオフィスにいる様にしていた事もあり、遅くとも六時半には起きて、顔を洗うと朝食と着替え、出勤の準備をして七時すぎには家を出ていた。
しかし、今では十時より早く起きる事がほぼない。元々朝が弱い体質なので、出勤という制限がなくなると、まったく起きれなくなってしまった。
あくびをしながら、のろのろとベッドを降りてシャワーを浴びにバスルームに向かった。毎度おなじみので、洗濯機の前で着ていたTシャツと下着を脱いで、洗濯カゴに放り込むとバスルームに入っていく。
以前は、あまり朝にシャワーを浴びる事は少なかったが、最近はほぼ毎日である。当然夜も風呂に入るし、入浴の機会が増えた。
朝入らなかったのは、出勤時間の事があるからで、その制限がなくなった今、元々の風呂好きに拍車がかかった様子だ。
今はまだ、暑い時期ではないからこんなものだが、夏になると一日に二度も三度も入る日もある。
由衣は発症する前は、汗っかきだった事もあって、とにかくシャワーで汗を流した。仕事から帰ってくるたびに一度シャワーを浴びて、夜にまた風呂に浸かるのである。
現在では、ほとんど汗をかかないので、そういうのはあまり気にならないが、今でも風呂好きは変わっていなかった。
シャワーを浴びて、バスタオルを出そうとするが見当たらない。これもいつもの風景だ。バスタオルは洗面所の棚に積み重ねておいている。しかし、由衣が数日に一度しか洗濯をしないので、次第に減ってくる。由衣は一度拭いたバスタオルは洗濯しない限り、もう一度使う事はないので、数日に一度こういう事がある。
やむをえず濡れたまま、寝室に戻った。部屋の片隅にある衣装ボックスを開けて、新品を出した。よく見ると、もうこれで最後の様だ。買っておかないと……と思ったが、買うよりも全部洗濯して仕舞っておかなくては、と思った。
体を拭き終えて洗面所に戻ると、バスタオルを洗濯カゴに放り込んだ。そして、下着を取りに再び寝室へ……。
下着を履いてTシャツを着ると、リビングに向かった。
入ってすぐ左側にキッチンがある。冷蔵庫に入れてある。ペットボトルのカフェオレを取り出して少しだけ飲むと、それを持ったままソファに座り込んだ。そして、手前のテーブルに置いてあるリモコンを手に取ると、テレビに向けてスイッチを押した。
ニュースでは、アメリカの有名なテロ組織が、軍とCIAによって制圧され、リーダーが自殺していた件を詳しく説明していた。
――やれやれ、何やらすごい事になってたみたいだねえ……。
由衣は、漠然とテレビの画面を眺めて思った。
――事前に情報を掴んでいて、半分泳がせていたっていうんだから、やっぱりCIAはすごいもんだ。
ジャーナリストがこの手腕を絶賛している。非常に手際がいい、日本もここまででなくても、もうちょっとまともにできないと、今後は危険だとか言っている。
由衣は、つまらなくなってテレビを消した。ソファから立ち上がると、再び寝室に戻った。
由衣の自宅には、広いリビングの他に三部屋ある。そのうちの一室を寝室にしているが、そこにベッドだけでなく、パソコンをおいている机だとか、本棚だとか、タンスだとか、家事以外はほとんどの生活がこの部屋でまかなえる状態だった。残りの二部屋は使っていない。荷物もそんなに多くないので、倉庫にすらなっていなかった。
ここを借りる際には、広い方がいい、ゆったりしているだとか考えて、ひとり暮らしには広すぎるとの忠告も無視して契約した。
はっきり言って、忠告を無視した事を後悔していた。
家賃は別に問題ないが、玄関から生活スペースまでの距離が微妙に長いのが、地味に良くなかった。いつら時間は余っているとはいえ、掃除も大変だし。
寝室に来た由衣は、少しネットのニュースなどを覗いてみて、久しぶりに洗濯をする事にした。
「さあて、やるかな!」
ちょっと気合を入れて洗面所に向かった。
ロサンゼルスの郊外、古びた倉庫。
「――こちらも準備は進んでいる」
ジャックは電話で何者かと話している。
『とりあえず、必要な量のトリチウムは手に入れたんだ。あとはそっちだけだ』
「ああ、任せておけ」
『三日後にはそっちに送る』
「わかった」
ジャックは電話をきった。そして、今度は別の相手に電話をかけた。
「――トリチウムは手に入った。予定通り明日午後十時に行動に入る」
『了解、すぐに準備にかかる』
「ああ」
ジャックは電話をきると、不敵な笑みを見せた。
「フフフ、面白くなるぜ……」