運命
「あの……すいません」
斜め後ろから聞こえる女性の声。聞こえないふりをしようとも、つい反応してしまった。
――しまった。と思いつつも、周囲を軽く見渡して……予想通り、そこに女性はいた。当然だ。目の前を横切るときもいたのだから。
女性は、由衣の方をじっと見ていた。その表情は少し影を感じる様な、憂いの表情に近かった。しかし、そんな事よりも……彼女はとても美しかった。
由衣は目の前の女性に、しばらく見とれてしまっていた。
「すいません。あのう、教えて欲しいのですが……」
目の前の女性は、少し困った様な顔で再び言った。
「――え、えっと。何を、ですか……」
由衣の前に立つこの女性は、何かを教えて欲しい様子だ。女性は一歩近づいて、手に持っているものを由衣の前に差し出した。
「これ……メールを受信したいのですが、設定がよくわからなくて」
「メール?」
その手に持つものはスマートフォン――iPhoneである。去年の秋に発売したばかりの最新型だ。実は由衣も去年買い換えており、同じ機種を使っている。しかし由衣のiPhoneは白で、女性のiPhoneは黒である為、カラーは違う様だ。
どうも詳しい話を聞くと、それまで使っていたスマートフォンを壊してしまった為に、先ほど新しいiPhoneを購入してきたらしかった。どこかで店員との意思疎通に不備があったのか、必要なメールアドレスの受信設定してもらうのを忘れて、先ほど自分で設定してみようとしたらしい。
「えっと、メールのアカウントなどは……」
「はい、これです」
女性はアドレス等が書かれたメモを差し出した。メモ書きを残していたみたいだ。
「いや、それは個人情報だし。自分でやったほうが……ええと、設定のアプリを開いて……」
由衣は一度、iPhoneを返して設定方法を教えた。
由衣の言う通りに設定してメールアプリを開くと早速受信が始まったようだ。うまくいったみたいである。女性は表情が明るくなった。控えめで大人しい印象の女性だが、嬉しそうにすると一層魅力的だった。
「――あ、ありがとうございます」
女性はiPhoneを胸に抱いて頭を下げた。由衣の視線に女性の胸元が見えた。
――お、大きい……。女性の豊満なバストに、つい視線がそこに集中してしまう。
「あ、あの?」
女性は、由衣が自分の方をじっと見ていたのに気がついて声をかけると、
「あ、いや……よ、よかったですね。ははは……」
冷や汗をかきながら、慌てて視線を逸らした。目の前にあんなすごいものを見せられると、気にするなという方が無理だ。しかし、気をつけねば……と少し反省した。
「じ、じゃあ、これで」
由衣は逃げる様にその場を立ち去った。
そこから少し先に行ったところの交差点で、信号を待った。
――それにしても綺麗な人だった。あんな人と恋人同士になんてなれたら、それはそれは楽しくしてしょうがないだろう。……自分には関係ない、とわかっていても……。
由衣にとっては、それは叶わぬ事だと理解していた。そんな都合のいい世の中ではない。
それにしても、せめてさっきの様な状況って、どうして『性転換』前になかったのだろうか? こんな、女の子の身体になってしまった今となっては、ああいう美人とお近づきになれる機会があっても、嬉しさも半減という事だ。
世の中、本当に理不尽である。
「――あの、すいません!」
ふたたび同じ様なセリフが後ろから聞こえた。聞き覚えのある声だった。そう、その声はついさっき聞いた声だ。声をかけてきたのは当然、先ほどの女性だった。
信号待ちをしている由衣ところを見つけて追いかけてきた様だ。
「えっと……」
由衣は視線を逸らしながら、どうしたものかと考えた。
「あの、よかったら——もしよかったら、私と食事でもいきませんか? お礼がしたいです」
「え? しょ、食事ですか? え、ええ。まあ……」
由衣は曖昧な返事をした。はっきりしない悪い癖だ。しかし、女性はOKと受け取った様だ。
「本当ですか。嬉しいです!」
女性は満面の笑顔で、由衣の両手を取った。
――ち、近い……いい匂いがする……。
由衣は目の前にある、豊満な胸とスタイル抜群の身体の前に少し混乱しつつあった。
「やあ、いらっしゃい」
「Y&H」の店長である中村が、やってきた由衣と女性に声をかけた。
「おや、今日は友達を連れてきてくれたのかい」
中村はニコニコしながら言った。
このカフェ「Y&H」の店長である中村は、見た目は白髪交じりの六十歳前後の容姿ではあるが、実は由衣と同い年だった。現在四十五歳である。なのになぜそんな老けて見えるのかというと、老化の<発症者>だからだ。
「ええ、まあ友達ってわけではないですけど……ちょっとそこで」
由衣はどう説明したらいいか、判断に迷って言葉を濁した。女性はなぜかニコニコしている。
「そうなのかい。何にする? 昼時だし、なにか食べるかい?」
「そうですね。まだ食べてないから」
そう言って、由衣はメニューを見た。由衣はカレーが好きなので、ここでもよく食べるが、前も食べた事もあって、今日は違うのを選ぼうかと考えた。ふと、女性がこっちを見ているのに気がついた。
「……えっと、何にする?」
由衣は、正面に座る女性にメニューを渡した。
「どんな料理があるのかしら……」
女性はざっと眺めて、それから少し考えると、
「そうねえ……じゃあこれにするわ」
と、女性はオムライスを選んだ。由衣はチャーハンを食べる事にした。ここのチャーハンは由衣のお気に入りなのだ。
「私の名前は白鳥早紀と言います。早紀と呼んでください」
そう言って、早紀と名乗った女性はにっこりと笑った。由衣は、白鳥とは割合珍しい苗字だな、と思った。
「ええと、わたしは早川由衣。わたしも由衣と呼んでくれていいです。えっと……よろしく」
由衣も続いて自己紹介した。
「……白鳥っていう苗字は割と珍しいですね」
「そうですか? 私はあまり気にした事がなかったので……でも、確かに他では聞きませんね」
そう言って早紀は微笑んだ。苗字についてはあまり興味がなさそうだった。話し下手な由衣は、いきなりつまずいてしまった。どう話したら……一瞬、沈黙がその場を包む。
「――由衣はとっても詳しいですね。私じゃ多分無理だったと思うから」
「ははは、そうかな……うーん、まあどうなんですかね」
「とってもすごいと思います。学校で習ったりするのですか?」
「いや、それは……ないんじゃないかな?」
由衣はチャーハンを食べながら、早紀の顔を見た。とても綺麗な顔だ。しかし、ちょっと気になったのが彼女の瞳だ。
早紀の瞳は青かった。吸い込まれそうなほどに透き通った、ライトブルーの瞳。どこかで見覚えがある様な気もしたが、それは気のせいだろう。
ちなみに、<発症者>の瞳の色は淡い色になりやすい。欧米系の人はもともと青かったりして、あまり気にならないが、日本人では結構目立つ。由衣も瞳の色は淡褐色だ。
早紀の顔立ちは東洋系で、日本人の顔をしていると思うが、目が青い。早紀は由衣の視線に気がついた。
「由衣、どうしたの? あらいやだ、もしかして口に付いちゃったかしら……」
早紀はナプキンを取って口元を拭いた。
「ああ、いや。そうじゃなくて……」
「なあに?」
早紀は笑顔でたずねた。
「早紀さん、の目って青いんですね」
「え、目ですか? ふふ、そうですね。以前から青いんですよ。それから……由衣、私の名前に『さん』はいらないです。早紀と呼んでください」
「あ、ああ。まあ、そうですね。……えっと、早紀」
ちょっと照れくさそうに言った。
「なあに? 由衣。うふふ」
早紀は両手を握って頰に当てたまま、ニコニコとしていた。由衣はどうしたものかな、と考えたがまあいいかと諦めた。
「早紀、コーヒーを飲む? ここのコーヒーは美味しいから」
「ええ、由衣のおすすめだもの」
「――今日は本当にありがとう。私、とっても楽しかったです。また会いたいです」
早紀は少し頬を染めて由衣に尋ねた。
「う、うん。いつでもいいですよ。わたしも楽しかったし」
「嬉しいわ」
早紀は微笑んだ。
「じゃあ、またね由衣」
「うん」
そう言ってふたりは別れた。
夜中、午後十時。エリスは宿泊しているホテルの、薄暗い部屋の中で何か話をしている。電話をしている様子だ。
電話の相手は、今回のこの事件を担当している<ニュクス>の幹部の男である。どうしてこんな時間に電話をしているのかというと、ドイツでは現在午後三時頃である。日本では夜遅いが、ドイツでは昼下がりの時間帯だった。
『どうだ? 久しぶりの故郷は。今は故郷の街に戻っているのだろう?』
「ええ、まあ……」
エリスは、日本に来てもう一ヶ月くらいになる。すでに調査を終えて、日本は関係なしとの結果を報告していた。その後、まだゆっくりしていろ、故郷を訪ねてみたらどうだ? と言われ、かつて住んでいた岡山県にやってきていた。
『――先ほど情報が入っている。どうやらアメリカの様だな』
「やはりアメリカですか」
『フランスの線が最も有力だったんだがな。CIAとも情報を交換しつつ、捜査を進めている。CIAは、奴らに対する包囲網を少しづつ狭めているというから、もう時間の問題だろう』
「そうですか、私はどうすれば。調査終了として帰りますか?」
『いや、せっかくの故郷だろう。しばらくゆっくりするといい』
そう言って電話が切れた。エリスは切れた電話をしばらく眺めたまま、ため息をついた。