由衣
少女は眠っていた。今は午前十一時。もう昼である。太陽の明かりをカーテンで遮っている。閉め方が悪かったのか、わずかに開いた隙間から漏れる光が、線となって部屋を両断している。
ふいに寝返りをうった時、ちょうど目上に光が当たった。眩しそうな表情になって、手を持ってくる。しかし、どうやら目が覚めてしまった様子だ。
ゆっくりと目を開けると、薄暗い天井が視界に入った。まだ視界はぼやけていた。
少女は眠い目をこすりながら起き上がると、のろのろとルームランプのリモコンを手にとってスイッチを押した。すぐに部屋が明るくなる。
しばらくの間、上半身を起こしたままの体勢でじっとしていた。何も考えず、ただ半分夢心地の時間。
少女はベッドから降りて、ゆっくりと背を伸ばした。無駄のないスタイルの良い肢体が、しなやかに伸ばされる。その身体には、白いTシャツとライトグリーンの下着しか身につけていない。就寝時はいつもこの格好である。
十代半ばの様に見える、あどけない顔立ちのこの少女は、普通ではないある事情を持っていた。数年前に原因不明の奇病により、実際の年齢よりも若い容姿となっていた。
この奇病は『老化』と呼ばれ、発症すると、文字通り急速に老化していく。しかし『老化』ではなく、逆に若返っていくと言う、さらに奇妙な症状を発症する者も現れる。彼らは『若返り』と呼ばれ、こちらは若返ってしまう。
少女は『若返り』を発症したのだ。彼女の年齢は四十六歳である。見た目には十五歳程度の少女にしか見えないが、年齢ではもう中年である。現在、これらを発症した人達を<発症者>と呼ぶ様になっていた。
少女の名は、「早川由衣」という。
由衣にはもうひとつの特殊な症状があった。実は彼女は、元は「男」だった。それは『性転換』という、早川由衣にしか発症していない症状だった。この事により大きく容姿が変貌した為、彼女の世界は一変する事になる。
また、男性だった頃は「文彦」と名乗っていた。性別が変わってしまった事を機に名前も女性の名前に改名した。
由衣はその事はあまり公にせず、ただひっそりと暮らしていた。なので、この事を知っている人は以外と少ない。
仕事もせずに、ただひたすら時間が過ぎていくのを、呆然と眺めている様な毎日だった。
「……ふう」
由衣は小さくため息をつくと、のろのろと寝室のドアを開けて出ていった。
由衣は岡山市内の割合大きめのマンションに住んでいた。部屋は十階建ての三階にある。3LDKという、ひとり暮らしには広すぎる部屋だった。
由衣は去年の十二月に勤めていた会社を退職した。それから年が明けて、二月頃に突如引っ越しをした。どうして引っ越しをしたのかといえば、あえて言うならば気分転換というところだろうか。
辞めた会社は、給料はとても良かった為、お金には困らなかった。さらに去年から始めた投資で余計に困っていない。
『老化』や『若返り』の<発症者>は、とても知能が高くなる。どういう事情でそうなるのか未だ不明だが、発症していない人などと比べて明らかに高かった。
特に症状が重いほど高い傾向がある。かなりの重症であり、『性転換』というあまりに特殊な症状まで発症している由衣は、常識を超えた頭脳の持ち主でもあった。
由衣は『予測』を得意とした。膨大な情報を集めて、それを精査し、その後に起こりうる結果を導き出す。彼女の頭脳は基本的に覚えた事を忘れない。そしてそれを用いて瞬時に答えを出せるのだ。
その凄まじさは、正確な情報さえ揃えば、一週間後の同じ時刻の天気がわかる。何時何分何秒から、何時何分何秒の間に雨が、どの程度の降水量で降るのか、という事まで予測できた。もっとも由衣はそんな事はまったく気にしていないので、そんな予測はしなかった。
投資では、この予測能力があまりにも有効で、情報さえあればまず失敗する事がなかった。ネットなどで溢れかえる情報があれば、なにを買えば良いか、なにを売れば良いか、すべて正確に予測できた。
初めてもう半年以上になるが、貯金はすでに社員当時の年収などとっくに超えていた。むしろ派手に儲けすぎない様に調整しているくらいだった。
お金の心配がないと、では一体なにをやって生きていこうか、そう考えると由衣は困った。なにも思いつかない。なにをしようとも思わない。
会社を辞めてからまずあったのが、心にポッカリと穴が空いた様な気分である。
まるで仕事が生きがいの仕事人間が、定年退職後に何をしたらいいのかわからず、呆然としてしまう状態だった。由衣はそれほどワーカーホリック……仕事中毒というわけでもないが、目標を見失って呆然としている状態だった。
そのせいか、やはり日常生活は自堕落な毎日で、家事も時々しかせず、食事はコンビニなど、好ましい状態ではなかった。
由衣は寝室を出て、バスルームに向かうと、洗面所の前に置いている洗濯カゴに着ていたTシャツと、パンツを脱いで放り込んだ。カゴの中には三日分の洗濯物が、まだ放り込まれたままである。見るたびに、いい加減洗わなければと思うのだが、毎回思うだけで時々しかしていない。
勤めていた頃は、職場と家を往復する毎日という感じだったので、洗濯する時間を作れない事があったが、今は面倒臭がって洗濯していない。
裸になると、バスルームに入ってシャワーを浴びた。さっぱりすると出てきてバスタオルで体を拭いた。そして再び寝室に戻った。
寝室で下着を一枚取り出して履くと、再び寝室を出た。髪を拭きながら、今度はリビングにいった。
ソファに倒れこむ様に座ると、大きくのけぞった。天井を見つめ、しばらく無心のままじっとしていた。
――わたしは一体何をしているんだろう。何の目的もなく、ただ漠然と生きているだけ。わたしになにか価値があるのだろうか? ……多分ないのだろう。悲しい話だ。でもなぜか涙も出ない。自分自身で呆れ返っているのだろう。
そう思っていたら、自然と笑えてきた。愚かしい自分に対する自嘲だ。
ゆっくりと立ち上がると、なにか食べに出かけようと思い、服を着る為に寝室に戻った。
――アメリカ合衆国、カリフォルニア州ロサンゼルスの郊外に、古びた倉庫が立ち並んでいる施設がある。元は自動車部品工場の倉庫で、その工場が閉鎖されている現在、使われなくなって久しい。緑の少ないサンドカラーの背景に溶け込むような、くすんだ色の廃墟である。
この倉庫のひと棟に、十数人の男達がそこらに座り込むなどして、何かを話し合っていた。
「……本当に大丈夫なのか?」
短く刈り込んだ赤い髪に、刺すような鋭い目つきの男が、正面に座る若い男に言った。俳優かと思う様な端麗な容姿の若い男は、その表情に終始微笑を浮かべていた。
「ああ、完璧だね。ボクの計画に狂いはない。そうだろ、ジャック?」
若い男は、自信に満ちた表情のまま、赤い髪の男、ジャックに対して答えた。
「確かにお前の計画なら、まず間違いないのはわかっているが、なにぶん今回は……」
「心配するのはわかるよ。でもね、これはやらなくちゃあダメだよ。絶対に」
「ああ、お前の言うことに逆らおうとは思わねえよ……」
ジャックはひと呼吸おいて、
「でもな、今回は核爆弾だ。さすがにちょっと腰がひける」
と言った。
「それはわかるよ。でもボクの言う通りに動けば失敗はない」
「……あ、ああ」
若い男は立ち上がると、周囲の男達に向かって言った。
「フフフ、成功は約束されているのさ。大船に乗ったつもりでいてくれ」