夜明け
ヴォルフは、もはや避ける事は不可能であろう、迫り来る弾丸を前に、少しだけ思考した。
――俺はどうして……どうしてこんな事になっちまったんだ? 俺が何をしたっていうんだ? どうして兄貴の仇を討つ事ができなかったんだ?
――どうしてだ? どうしてなんだ!
――どうして!
――どう……し……て……。
ヴォルフの眉間を弾丸が貫いた時、ヴォルフの思考は真っ暗な闇の中に沈んだ。
「由衣!」
早紀はヴォルフと一緒に倒れこんだ由衣の元に駆け寄った。
「早紀、ありがとう」
由衣は早紀に微笑みかけた。
「怪我はない? 大丈夫?」
早紀は心配そうな顔で由衣に問いかける。
「ううん、大丈夫だよ」
そう言って、由衣は早紀に手を貸してもらって起き上がった。
「そう、クリス! クリスはどうなったの?」
「クリス・ハワード!」
由衣と早紀は、近くに倒れていたクリスに近寄った。
「クリス!」
由衣は呼びかけるが、反応がない。早紀が仰向けに寝かせて、状況を確認した。
「まだ生きているわ。でも、早く治療しないと」
「クリス! 返事して!」
由衣が必死に呼びかけた。
「……ううっ……」
クリスが小さな声で呻いた。しかし、予断を許さない状況の様だ。
「由衣、私が……」
早紀はヴォルフのジャケットからメディカルキットを取り出してきた。痛み止めなど、各種医療用品がセットになっているものだ。ヴォルフの様な一匹狼で仕事をしているものは、たいてい何かの時の為に携帯している。もしかしたら持っているかもしれない、と思って探してみると、やっぱりあった。
早紀は痛み止めを打って、銃弾を取り出す準備をした。
「耐えられるかわからない……けど、このままでは病院に運ぶ前に死んでしまうわ」
「早紀……なんとかしてやって欲しいんだ」
「ええ、このままここで死なせるわけにはいかないわ。彼は今回のテロ計画の重要参考人よ」
それから一時間程度経っただろうか。銃弾はなんとかクリスの体から取り出す事ができた。クリスもまだ命が繋がっている。
早紀は救急車を呼んでいる。警察にも通報した。また、<ニュクス>の方にも連絡を入れていた。実は<ニュクス>からはふたりの捜査官が、昨日来日しており、独自にジャックやクリスの行方を探っていたらしい。
電話では、なるべく早く現地に向かう、と言っており警察や救急車とどちらが早いだろうか、といったところだ。
「クリス……」
由衣は心配そうにクリスを見ていた。
「……大丈夫。間に合うと思うわ。きっと」
早紀は由衣の肩を抱いた。
あの殺伐とした空気が、嘘のように穏やかになっていた。静まり返ったこの空間には、ここだけ世界とは切り離されて、時間など存在しないかのようだった。ただ早紀は、まだ命までは奪っていなかった、ジャックの手下達がここにやって来るのではないかと警戒した。しかし、物音もしない。
ふと音がした。早紀は素早く銃を構えた。由衣も警戒して、音の方を見ている。
そうしていると、大きな鉄の扉がゆっくりと、音を立てて開いた。現れたのは<ニュクス>の捜査官だ。
「エリス! いるのか?」
「ええ、こっちだわ」
捜査官は、由衣達のそばにやってきた。
「大丈夫なのか?」
「ええ。ただ、電話で言った通りクリス・ハワードが重症よ。救急には通報しているのだけど」
「応急処置は?」
「できるだけの事はしたわ。ヴォルフがメディカルキットを持っていたから」
「そうか」
捜査官は、近くに横たわっているヴォルフの亡骸を見た。
「ヴォルフは、いったいどうしたんだ? どうして死んでいる?」
「裏切り者よ。詳しくは後の聴取で説明するわ……今回のテロの外部協力者だったようね。向こうで死んでいる、ジャックというテロ犯と共謀していたみたい」
「ヴォルフが……まあ、ありえない話でもないか」
「何か?」
「ああ、あまりにも都合よくいきすぎているからな。それに今回、ヴォルフの様な外部の人間をどうして投入したのかも調べる必要がある」
「まだ完全には解決していないのかしらね」
早紀は、随分と複雑な事件の様だと思った。まだ全てが解決していないのかもしれない。
捜査官の言う通り、素性のはっきりしないヴォルフを、今回の様な重要な事件に依頼するというのは通常では考えられない。<ニュクス>の内部にもテロの協力者がいたのかもしれない。その疑いを指摘している。
「まあ、どうなる事やら。一悶着あるかもな」
「そう……大変ね」
早紀はぶっきらぼうにつぶやいた。とはいえ、少し心配そうな表情だ。
「正直言って……エリス、お前を手放すのは惜しい。お前の代わりはそう簡単には見つかるまい」
「そんな事はないわ」
「いいや、見つからんよ。まったく、<発症者>だからと言って何が変わるんだ。今後<発症者>は増えていくだろうし、組織も苦しくなるだろう」
捜査官はさも憎たらしげに愚痴った。
「エリス。お前は日本に残って、こっちで暮らすんだろう。今まで辛い事が多かったし、ちょうどいい。今度は人生を楽しむ時だ」
「――ありがとう」
その時、救急車とパトカーのサイレンが聞こえた。どうやら到着したようだ。
「元気でな」
「ええ、そちらこそ」
その後、少しして大勢の人がやってきた。捜査官の開けた大きな扉に救急車を横付けしたのか、外に見える。
「――患者は?」
「――警察です。大丈夫ですか?」
たちまち、部屋の中に人があふれる。
「早紀、なんかすごい事になったね」
「ええ、さっきまでは嘘の様ね」
由衣と早紀は、あまりの状態に顔を見合わせた。
「……う、うう」
担架に乗せられたクリスの意識が戻った様だった。
「クリス!」
由衣はクリスの元に駆け寄った。
「ゆ、ユイ……。大丈夫……だったかい?」
「う、うん」
「怪我……は、ないか……い?」
「平気だよ。クリス、あんまり無理しちゃ……」
「はは……。ユイ、ボクはね……キミに会って、思ったよ」
クリスは苦しそうだった。
「ボクは……なんだってできると思っていた。キミの事だって……そうだった。傲慢だった……狂っていたんだ。ユイの言う通りだった」
「クリス!」
「キミが危機に陥った時、ボクは……胸が締め付けられる思いだった……。多分、これが愛するという事なのだろう……」
クリスは由衣の顔を見た。
「ボクにとっての……最高の……愛する人よ。ボクは目が覚めた気分なんだ……。ボクはいけない事をした。……それを償わなくていけない」
クリスは震える手を、由衣の前に差し出した。
「……もうキミと逢う事はないのだろう。そんな気がする。さよなら、ユイ。……ありがとう」
「クリス……」
由衣とクリスは握手をした。クリスの手は弱々しいが、その手の奥には力強い意思のようなものを感じた。
「うぐっ!」
急にクリスが顔をしかめた。
「クリス!」
「――もう運ばなくては。それでは」
救急隊員は由衣に離れる様に言って、クリスを救急車に運んでいった。
「――え、ええ。怪我はありませんから」
由衣と早紀は、刑事と話をしていた。岡山県警の刑事で、事前に色々と事情を聞かされている風であった。
「ドイツの方から話は聞いています。……ええと、あなたが臨時捜査官の白鳥早紀さん?」
早紀はいつの間にか、「BND」の臨時捜査官という肩書きにされていたらしい。警察の話によると、今回のテロ計画の捜査の為に極秘に来日、任務を遂行していて、最終的にこの騒動に巻き込まれていると聞いているらしかった。
本来なら、かなり面倒な事になってもおかしくはない為、早紀は、わざわざそうしていくれているのだから、それに合わせる事にした。
「一応、主犯は……先ほどのクリス・ハワードという男で……あなたの言うジャックという、向こうの建屋内で死んでいた男がテロ組織のメンバーという事で?」
「いえ、テロ組織はジャックがリーダーだったのでは、と思います。それにハワードが協力した、もしくは話を持ちかけた、という形だと思います」
「ああ、なるほど」
刑事は、手帳にメモ書きしている。
「それで……あの、ええと、ボルフ? とかいう男は?」
「あの男は——おそらくですが、周囲には内緒でジャックと協力関係にあったのではと思いいます」
「ふん、協力関係ね……」
さらに書き込んでいる。
「それから、あのジャックだという男や、ボルフとかいう男のフルネームはわかるかな?」
「いえ、私にはわかりません。そのあたりはBNDの捜査でおいおいわかってくるのでは、と思います」
「なるほどね」
さらに由衣の事を尋ねられた。夜中に自宅マンションが襲撃されている事について間違いないか? だとか、今も警察の者が数人マンションにいる事、現場検証は終わっているので、自宅で休んでもらって問題ない事などを伝えられた。
刑事は一応これで、この場は納得した様子だ。
「では、今日はもう辛いでしょうから、明日か明後日にも事件の聴取をさせてもらっても大丈夫ですか?」
「はい」
「それから、あなた方も一度見てもらった方がいいだろう」
「——ええ」
早紀は頷いた。
「パトカーで病院まで送ります。……おい」
刑事は、近くにいた警察官に指示して、外のパトカーでふたりを送っていく様に言った。
由衣と早紀が建物の外に出ると、もう夜が明けていた。いつの間にか、朝が来ていた様だ。
外は大勢の警察や、パトカーが数台あった。若い警察官は、由衣と早紀に「こちらです」と言って、一台のパトカーの方に案内した。ふたりは、警察官の後をついていく。
由衣は早紀の顔を見て、「あ、頰が汚れてるよ」と言って自分のシャツの裾で拭いた。
「ありがとう。由衣」
微笑む早紀。
「一件落着……なのかな?」
「――うん。そうだと思うわ」
早紀は頷いた。ふたり並んで歩いていく。
――随分田舎だけど、ここはどこだろう? 由衣はそんな事を思って、ポケットからスマートフォンを取り出すと、地図を表示させた。
「ああ、ここは……」
「どこなの?」
「そんなに遠くじゃない。そりゃそうだよね。遠くまで移動した覚えないし」
パトカーで病院まで向かっている途中、ふたりは何も喋らなかった。早紀は何かを話そうとしたが、言い出せなかった。が、ふと言葉がもれた。
「……大分明るくなったわね」
「う、うん」
由衣は少しぎごちない風に返事した。しばらくふたりとも、時間が止まってしまったかの様に黙り込んだ。
「あの……早紀」
「なあに、由衣」
「早紀は、もう帰るんだよね。ドイツに」
「……ううん。帰らないわ。いえ、帰れなくなっちゃった」
早紀はもう諦めた様な顔をして、苦笑いした。
「え? どうして?」
「仕事の事で、取引先に嫌われちゃって……仕事がもらえなくなったの。それで、ドイツではとりあえず食べていけないから……もう日本で暮らすつもり」
「そうなんだ」
由衣は、少しほっとした様な気分になった。
「うん。とりあえず、お仕事探さなきゃ。もうお金があまりないから……ホテル代が足りなくなるわ。住むところも探さなきゃ」
早紀はそう言って由衣を見ると苦笑いした。それを見た由衣は、少し笑ってすぐに沈黙した。……そして考える様な表情をして、そわそわした。
そっぽを向いていた由衣は、ふと早紀を見て言った。
「――じゃあさ、早紀。うちに来ない? ひとり暮らしなのに、広いマンションだから、部屋が余ってるんだ」
「い、いいの?」
早紀はその提案に驚いて、由衣の顔を見ると思わず聞き返した。
「ぜひ。早紀、来てくれる?」
「うん!」
由衣の冒険4、完結です。
最後まで読んでくれた方、どうもありがとうございました。