決戦
早紀は大きな空間の部屋に、ヴォルフの姿を発見した。由衣を盾にして、壁を背後にして立っている。
部屋に入ってすぐの、この位置から狙撃するには距離がありすぎた。正確にヴォルフだけを狙うのは無理がある。かといって、周囲には隠れて近づける様なものはない。ヴォルフはそれを分かった上であんなところにいるのだろう。
やむなく出て行かざるをえなかった。
「ふん、来たか」
ヴォルフは、やってきた早紀に向かって言った。
「ヴォルフ! 由衣を放しなさい!」
再びヴォルフと対峙した早紀は、拳銃を構えて叫んだ。
「立場が分かっていない様だな。エリス」
ヴォルフは、由衣の頭に銃口を押し付けたまま、早紀を睨んだ。
「銃を捨てろ。でないと、このガキが死ぬ事になる」
「由衣を撃ったら……ヴォルフ、あなたを殺す」
「フッ、できるのか? エリス。お前にこのガキが殺される様を見る事ができるのか!」
ヴォルフは不敵な笑みを浮かべた。
「早紀! こんな奴の言う事なんか聞くな!」
由衣は大声で叫んだ。しかし、早紀は撃てない。どうしても引き金を引く事ができなかった。
「ゆ、由衣……」
少しの沈黙の後、早紀は構えを解くとゆっくりとしゃがみこんで、足元に銃を置いた。
自分が殺されたとして、その後ヴォルフが由衣を殺さないとは言い切れない。はっきり言って、ここで銃を手放す事は、対抗する手段を完全に失い、ヴォルフの思うがままになってしまう。しかし、現状ではどうにもならないから、従うしかない。
何か――そう、奇跡でも起きてくれたら……そう願わずにはいられなかった。
「早紀! ダメだ!」
由衣は叫んだ。
「よし、エリス。両手を挙げろ」
ヴォルフの命令に、早紀はゆっくりと両手を挙げた。少しでも時間を稼ごうとしているのか、とてもゆっくり挙げた。
「フフ、いいザマだ。やっとこのクソ女を殺せるんだからな!」
ヴォルフは由衣に向けていた銃を、早紀に向けた。
「あの世でお前を待ってるぜ! 親父とお袋がな!」
ヴォルフは引き金を引いた……いや、引こうとした時、後方から気配がした。
「――このっ!」
その気配はクリスだった。その距離、二メートル程度。パイプを振り上げて、躍り掛かってきた。
ヴォルフは完全に対応が遅れてしまった。早紀を射殺できる最大の瞬間に、周囲への警戒を完全に怠っていた。
「チィ!」
ヴォルフは早紀への狙いを変えて、クリスを狙おうとした。
しかし――それはすでに遅く、銃を握る右手を後方に向ける前に、クリスの振り下ろしたパイプが右腕を殴打した。
「——ぐっ!」
ヴォルフはその攻撃に不覚を取った。殴打された衝撃に、手に持った拳銃を落としてしまった。
顔をしかめるヴォルフ。
「ユイ!」
クリスは由衣を助け出そうと、掴みかかった。しかし、次の瞬間銃声が響きわたった。
「ぐ、あ……」
クリスは目を見開いて、言葉にならないうめき声を出した。クリスは腹部を撃ち抜かれ、ふらふらと後ろに下がって倒れた。撃たれた腹からは赤い血がじわじわと流れ出し、クリスのシャツを赤く染めていく。
「クリス!」
由衣が叫ぶ。
「このやろう! 邪魔をするからだ。クソったれが!」
ヴォルフはふたたび拳銃を手にしていた。素早くジャケットの裏に収めていた、もう一丁の拳銃を取り出して撃ったのだ。
「ヴォルフ!」
その時、早紀は素早く足元の自分の拳銃を拾い上げて、すぐさまヴォルフに狙いをつけるとトリガーを引きかけた……引きかけたが、引けなかった。
その銃口はやはり由衣の側頭部に突きつけられていた。
「さ、早紀」
「あぶねえ、俺としたことが油断したな」
「銃を捨てろ!」
ヴォルフは、早紀に向かって叫んだ。早紀は、ヴォルフに羽交い締めにされている由衣を見た。側頭部に銃口を突きつけられ、由衣の命は再び、ヴォルフの手に握られていた。下手な真似はできない。
早紀はまた、自分の拳銃を足元に置いた。その瞬間、由衣は自分の側頭部に押し付けられていた銃口が微妙に動いた事に気がついた。
――早紀を撃とうとしている? 今度は即座に狙うつもりだ!
一瞬、そうひらめいた。
銃を置いた早紀が、体を起こそうとした時、
「――早紀っ! ダメ!」
突如、由衣が大声で叫んだ。早紀は、はっとして由衣を見た。ヴォルフの持つ拳銃が、自分の方に向こうとするのを悟った早紀は、素早く先ほどおいた拳銃を手にとって、ヴォルフに銃口を向けていた。片膝をついた姿勢で、両手で支えて構える早紀。
「――このクソガキ!」
由衣の事を憎々しげに睨むヴォルフ。ヴォルフの持つ拳銃は、一瞬にしてふたたび由衣に向けられていた。早紀は、トリガーを引く事ができない。その構えた体勢のまま、固まった様に動かない。
「エリス! 銃を置け! でないと、このガキを殺す!」
ヴォルフは正気を失ったかの様に、大声で吠えたてた。しかし、由衣に向けられた銃口はしっかりと固定されたままだ。
しばし、沈黙の時間が流れる。
早紀は考えた。やはり形勢は有利にはならない。先ほどのクリスが作ってくれたチャンスも生かす事ができなかった。
――やはり、駄目なの……か……。
早紀は苦渋の表情のまま、銃を捨てようとした。……が、その時、早紀の視線の早紀にクリスが見えた。
クリスは、うつ伏せで倒れたまま、銃を握っていた。クリスの奇襲によって落としていた、ヴォルフの拳銃だった。
顔を伏せたままであり、ヴォルフの姿を捉えているわけではないはずにもかかわらず、クリスが持った拳銃はヴォルフの方を向いていた。
……しかし、早紀の視線にヴォルフが気がついてしまった。早紀は、クリスを長く見すぎてしまった、と後悔した。
ヴォルフは、鋭い目つきでクリスを睨むと、
「まだ、生きていやがったか!」
と、ヴォルフが叫んだその時、銃声が響いた。ヴォルフの耳を掠めた。小さな痛みがにじむ。ヴォルフを狙ったその銃弾は、クリスが寝転んだままの体勢で銃を持って構えていた。その下には赤い血が広がっている。そしてもうクリスは身動きひとつしていない。
「て、てめえ! 舐めた真似をっ」
ヴォルフは、由衣に向けていた銃をクリスに向けた。その時、由衣は叫んだ。
「早紀、わたしは……わたしは信じているから!」
由衣は叫んだ。そして、目一杯暴れた。
「うるせえ! クソガキ!」
ヴォルフはすぐに、暴れる由衣を抑え込んだ。しかし、由衣の声はすでに足元の拳銃を拾い上げて、片膝をついた状態で、構えている早紀の耳に届いた。
それに気がついたヴォルフは「チッ! このやろう!」と言って、クリスに向けた銃を早紀の方に向けようとした。
早紀は、とっさに手に取った自分の拳銃を、すぐに前方へ向けていた。その先にはヴォルフの眉間があった。
「早紀!」
由衣が叫ぶ。
早紀はその刹那、さまざなな事が頭に浮かんだ。
——小さい頃、仲の良かった友達と別れて泣きながら外国へ引っ越していった事。
——その引っ越し先のオーストリアの親戚達は、みんな早紀の事を暖かく迎えてくれていた事。
——しかし、その数年後には、両親が何者かに殺されるという悲劇に見舞われた事。
——すぐに祖父母までも亡くなり、叔父に引き取られて、内緒で両親の敵討ちを計画していた事。
——その叔父までも、マフィアの抗争に巻き込まれて亡くなった事。
——独自に、暗殺の仕事を請け負っている男に弟子入りして、仇討ちの為の技術を学んだ事。
——見事両親の仇を討ち、その墓前に報告できた時。そして……一度踏み入れた世界からは、二度と脱出できない事を悟った事。
——発症し、苦しみの中で必死に治療し、復帰した時には全てに見捨てられていた事。
——知人のつてでドイツに仕事を紹介してもらえた事。
——今回、三十年以上の歳月を経て、日本に帰ってきた事。
——由衣と出会って、まだ短い期間であったけど友達になってくれて、本当に嬉しかった事。
……そして、最後に由衣の「信じている」という言葉が浮かんだ。
絶対に失敗できない瞬間。そして、絶対に成功すると信じてくれている。
――私は由衣の信じる心に答える。いや、答えられる。必ず!
次の瞬間、早紀は拳銃の引き金を引いた。