アダムとイヴ
「――そのありえない事が、現実に起こってしまったのね」
早紀は、クリスを見てつぶやいた。
「そうだよ。起こってしまったんだ。……しかし、それは細胞分裂を遅らせるどころか、細胞分裂を何度繰り返しても、細胞が全く劣化しないという状態になってしまった。なんというか、身体を急激に変化させすぎて——突き抜けてしまったという感じだね」
クリスは苦笑いした。
「――どうして、『老化』したんだろう?」
由衣は口を挟んだ。
「うん、さすがに明確な理由はわからない。あくまでボクの想像でしかないけど……。身体を急激に老いさせていく事で、本来のペースで行われる細胞分裂を先に済ませてしまい、その後の分裂を抑える……そんな風ではなかったのだろうかねえ」
クリスは言った。だが実際のところ、その辺りはあくまで想像の域を出ていなかった。
「『早老症』という病気があるね。あれも表明上はよく似ている。同じ様に、急激に年老いていくんだから。でも『早老症』には『老化』は含まれない。そう、違うものだ。これは根本的にはまったく別の病気なんだ。そもそも『老化』は、症状が治まったらもう老いる事はないのだし、寿命もないのだからね」
皆、信じられないと言った風に考えているのだろう。あまり多くを言葉に出さなかった。
「まあ、それからだ。その際――発症の際に、もっと特殊な変化が起こった人達がいる。それが『若返り』の<発症者>だ」
「『若返り』か……」
由衣が呟いた。
「『若返り』の発症者は、『老化』を発症する行程で、何かしらのエラーが起こってしまった。そもそも、このカーター症候群と命名された、『老化』という症状自体が異常であるから、何が起こっても、もうおかしくはないのかもしれないね。――それによって、身体は若返ってしまうという、異常な変化になった。まあ、ありがちというか、あるよねえ。行きすぎて真反対にひっくり返ってしまったって事。冗談みたいな話だけども、そんな事が起こってしまったんだよ。実際にね」
クリスはひたすら話し続けた。
「――ただこれは通常の生命活動を遡る状態で、あまりにも異常な事態だ。言ってみれば、ビデオを巻き戻している様なものだからね。だから身体に無理がかかった。それが全身の痛みとして現れたんだ。辛かったよねえ。ボクは死ぬかと思ったよ」
クリスはしみじみと、過去の辛かった治療を思い出した。
「ユイもかなり辛かったんじゃないかな?」
「ま、まあ……そうだけど」
由衣は答えた。
「ただ……これらの症状は重い方が、その後の体に対する影響は大きい。ユイなんて、当時四十歳くらいだったんだよねえ。若返った身体年齢はどのくらい? 多分二十歳以上だよね? その上、『性転換』まで発症している。これは凄まじい事だよ」
クリスは由衣を見た。
「ボクは身体年齢自体は大した事ないさ。年齢差は十四歳だからね。でももうひとつの症状が大きいんだ」
そこで一旦、間が空いた。
「……そう、ボクも『性転換』の<発症者>なんだよ。ユイ」
クリスは言った。
「やっぱりそうだったんだ。じゃあ、やっぱりテロの……」
由衣のクリスを見る目が厳しくなった。
「そう、君にとっては……残念だけどね。でもね、これだけの身体を手に入れたんだ。いろいろやってみたいだろう?」
「——やっていい事と悪い事がある!」
由衣はクリスに向かって非難した。
「今までどれだけの人が、その碌でもない思いつきの犠牲になってきたと思ってるんだ!」
由衣はさらにクリスを非難する。
「ボク達は、進化した人類なんだよ。この突然変異は、宇宙線に堪えられる身体になったと同時に、素晴らしい叡智をもたらしてくれた。まさに神々の贈り物だね!」
クリスはそう言って笑った。
「叡智? 例の知力が高まっているっていう事?」
<発症者>は基本的に知力は高まっている事が、研究によって判明している。ただし、個人差はある。
「これだけの変化がという名の進化が起こっているんだ。我々<発症者>の頭脳は、革命が起きているんだよ。どうしてだかわかるかい? 我々<発症者>が、この地上を――いや、この宇宙を支配する、『新しい人類』だからなのだよ!」
クリスは高らかに言い放った。
「我々<発症者>が、数十年しか寿命のない、知能の低い下等な『古い人類』を管理するのだ! そして、その頂点に立つのがボク達だよ。――ユイ、ボクらは<発症者>を上位に置いた新しい世界の頂点に立つ、最初の人類『アダム』と『イブ』なんだ!」
クリスは、そう言って由衣達を見た。その自信にあふれた表情は、本当に世界の頂点に君臨しようとする者の自信と傲慢に満ちていた。
「く、狂ってる……世界をどうとか、管理だとか、何様のつもり! そんな事、許されないよ!」
由衣は、クリスのあまりの傲慢さに怒りの声をあげた。
「あなたにそんな事はさせない! 絶対に!」
早紀はクリスを睨み、銃を向けた。
「フフフ、撃てるかい? その銃を。ボクに向かって」
銃口を向けられているにも関わらず、まったく意に介さないクリス。その異様な態度に、早紀はたじろいだ。
「さあ、ユイ。一緒に行こう。ボク達は選ばれた人類なんだよ。この劣った人間とは違うんだ」
「誰が! お前なんかと行くもんか! 絶対お断りだね!」
由衣は叫んだ。
「どうして? キミとボクは選ばれたんだよ?」
クリスは、さも理解できないという表情で問うた。
「そんなの、クリスが勝手に言ってるだけじゃないか!」
由衣は叫ぶ。――この男は危険だ。危険すぎる。
そう思って、クリスを睨みつけたその時、ふいに今まで大人しくしていた男が口を開いた。
「む、無駄……お、オレ……は……」
ジャックは呆然とし、何かをつぶやいていた。どうやらクリスの言っている事を聞いて、もはや何もできない事が判明した為、絶望してしまった様だった。
あの鋭い悪意を秘めた目は、もはや面影がなく、どこを見ているのかもわかっていない。先の乱戦で、ボロボロの服と汚れもジャックの絶望感にひと役買っている様に見えた。
膝をつき、中性子爆弾を片手に持って、ガタガタと震えていた。ふと、震えが止まり、うつむいていた顔を上げると、大声で叫んだ。
「も、もう知るか! ここでこいつをを使ってやる! 道連れだ! 日本人どもを道連れだ!」
ジャックは中性子爆弾のスイッチを押そうとした。
「あ!」
由衣が叫ぶ。
「いけないわ!」
早紀がすぐに反応して止めようとした。
しかし突如銃声がしたと思うと、ジャックは目を見開き、小さくうめき声をあげてうつ伏せに倒れた。背中には撃たれた痕があった。
由衣達はジャックの背後を見ると、数十メートル先にひとりの男が現れた。ヴォルフだ。
「まったく、ロクでもねえ事するんじゃねえよ。ゴミが!」
ヴォルフは吐き捨てる様に言うと、由衣達のそばに近づいてきた。
「ヴォルフ。来ていたのね」
早紀は言った。が、次の瞬間、早紀の目が変わった。
「ちょ、ちょっと! 何を!」
由衣がヴォルフに腕を掴まれた。そのまま引き寄せられて拘束された。
「ヴォルフ! いったい何を!」
早紀は、いったい何事なのか、とヴォルフに問うた。
その言葉を無視して、ヴォルフは由衣の側頭部に自分の拳銃ワルサーP99を突きつけた。