エリス
「……久しぶりだな」
黒いニット帽を被った中年の男は、レストランに入るなり、若い女性のところに言って声をかけた。
「そうね、久しぶりだわ」
この若い女性も中年の男を知っている様子で、男に答えた。
男はいかにも低所得労働者といった風体で、無精髭とくたびれた服装が、いかにもそういった雰囲気を醸し出していた。目つきも悪く、あまり柄のいい人物とは思えない。
一方の若い女性も決して裕福な家の令嬢という感じはまったくなく、やはり下層で暮らす庶民の娘という服装だ。しかし、おそらく二十代前半くらいであろうその容姿は、とても美しかった。
男は女性の隣に座ると、向こうにいる店員を呼んだ。
「――まあ、とりあえず食わせてくれ。おい、ねえちゃん……」
ふたりは食事を終えた後、レストランを出た。すでに日が暮れて外は暗いはずだが、大きな通りは街灯に照らされてそう暗いわけでもなかった。街にはまだ人も多く、にぎやかでもある。
ふたりは、少し歩いて急に薄暗い路地裏に入った。暗いだけでなく、ゴミが散らかり人の気配もほぼなく、随分と寂しいところだ。中年の男は少し歩いたところで、
「――エリス、仕事だ」
と、突如つぶやいた。男は女性の方を見ない。ただゆっくりと並んで歩いている。
「――依頼主は?」
エリスと呼ばれた女性も、男の方を見ずに言った。
「――ニュクス。明日、午後七時。本部にて」
「ニュクス?」
エリスは少し驚いた。<ニュクス>からの直接の仕事は久しくなかった。別の組織などを通して間接的になら三ヶ月前まではあったが、今ではそれすらもなくなっていた。
親しい幹部や職員もいるので話をする事はあっても、仕事はない。
「――重要な件だと聞いている」
「――わかった」
なんとも奇妙な会話ではあったが、話は終わったのか、ふたりはそのまま歩いて、少し行ったところで別々の道を歩いて行った。
ミュンヘン中心部から少し外れたあたりに<ニュクス>本部ビルがある。周囲に似たようなビルが多くある為、まったく目立たない。機密機関とはいうが、意外と街中にあるものである。
ただ表向きは、ここが<ニュクス>の本部であるとはわからない様に偽装している。民間の調査会社を名乗っており、そんな会社に興味もない市民は誰も気にしてはいない。
エリスは昨日のカジュアルな服装とは真逆の、上下ダークグレーのスーツにサングラス姿でやってきた。
「――来たな」
通された部屋の中にいた男がエリスに向かって言った。頰がこけて、眼鏡をかけた神経質そうな表情の男である。彼は本部二課の課長であり、<ニュクス>の幹部でもある。背も高く、言うならば針の様な男である。
「依頼と聞きました」
エリスはサングラスを外すと、率直に仕事の事を言いた。ちゃんとメイクをしたその顔は、とても美しかった。
「――調査だ」
男はエリスに何の感情も抱いていないかの様にひと言だけ言った。
「調査?」
「そうだ。最近テロ組織の者を捕えた。その男を拷問した際に聞き出した。ベルリンで核爆弾を使ったテロを起こすという」
「核爆弾……」
エリスの顔が険しくなった。
「その核をどこかの国で手に入れると、情報が得られた。それが、フランスとアメリカ、そして日本だ」
「日本? そもそも日本は核を持っていないはず」
「それはわからん。実際我々としても日本でというのは疑わしい。だが、情報がある以上は確認せざるをえない。君にはそれを調査してもらいたい」
男は相変わらず無表情で話す。
「日本にですか?」
「ああそうだ。君は日本人なんだろう」
「ええ、そうです。国籍は日本です。長く帰ってはいませんが」
エリスは日本人だった。要するに在ドイツ日本人である。
「なら里帰りにもちょうどいいだろう」
<ニュクス>の本部から自宅に戻ってくると、サングラスを外して、バッグと一緒にテーブルに置くと、すぐベッドに寝転んだ。生活に必要な最小限のものしかない、無機質な小さな部屋。若い女性の部屋とは到底思えない部屋だ。観葉植物なり飾るものがあれば、もう少し違ったのだろうが、花瓶ひとつすらない。
――日本か。
エリスは日本という国を想像した。平和でテロの危険もほとんど無い、東の果ての国。
実は日本の生まれであり、小学生の頃まで日本に住んでいた。しかし親の仕事の都合で、母親の故郷であるオーストリアにやってきた。現在はドイツに住んでいるが、以来、日本には帰っていない。
いつか帰りたいとも思っていて、日本語も忘れない様にし、その後も勉強していた。なので現在使う事はないが、普通に読み書きもできるし、話す事が出来る。
確かに久しぶりであり懐かしかった。今どうなっているのか、テレビや雑誌などで目にする事はあっても、実際には久しく見ていない。
――調査。フランスやアメリカはわかる。しかし日本は……。
エリスには日本が候補のひとつに挙げられているのが、いまいち理解できなかった。無論、日本といえば、米軍基地があちこちにある。もしや日本といっても、実は米軍基地から強奪するという事なのかもしれない。
ひと通り説明を受けたとはいえ、<ニュクス>からの情報もほとんどない。ネットなどを通して幾らか調べはするが、とりあえず行ってみない事にはどうしようもない状態だった。
考える事を中断して、寝転んだからだを横にすると、ゆっくりと目を閉じた。