襲撃
「クリス・ハワード! お前だ!」
ヴォルフは叫んだ。狼という名にふさわしい、鋭い眼がクリスを睨む。
「どういうことなの? ヴォルフ!」
「な、何言ってんの……」
由衣と早紀は信じられないという顔で、ヴォルフを見た。そして、クリスの顔にはいつの間にか、緊張の色が見え始めた。
「――少し前に<ニュクス>から連絡があった」
『テロの首謀者は、クリス・ハワード。アメリカ人の若い男だ。この男は『性転換』の<発症者>でもある』
「『性転換』? どういう事だ。『性転換』はひとりだけじゃなかったのか。どうしてその男が」
『おそらく、闇で治療していたと思われる。一切を隠してな。信じられない話だが』
「そんな事が可能なのか?」
『ハワードの経歴を調べた結果、彼は発症前にはエミリー・ハワードという名前だった。発症を機に、男性名に改名したのだろう。ハワードという名に覚えがあるかもしれんが、ハワードといえばチャールズ・ハワード博士を知っているだろう。遺伝子学で大変な功績を残した人だ』
「ああ、ハワード博士は著名だからな……まさか?」
『そうだ、ハワード博士の長女エミリーがクリスだ』
「本当なのか? しかしどうして……」
『ハワード博士は十年ほど前に亡くなったが、彼の不肖の甥を知っているか?』
「なんだったか覚えていないが……一度ニュースにもなった、ジェフリー・コスタか? 頭は相当いいらしいか、碌でもない奴だと聞いたが」
『ああ、研究の為なら手段を選ばない、その情熱は評価するが、コスタは違法行為も躊躇がない。今までに何度も逮捕されている。そのたびにハワード家に助けてもらっている』
「まさか、コスタがエミリー・ハワードの発症の治療をやっていたというのか?」
『ああ、完全に秘密にしていたそうだ。家族ですらも知らない。もっとも、エミリーは家族と仲が悪くて、誰も探さなかった様だが』
「なるほどな……」
『現在の写真を送る。至急拘束してくれ』
「了解」
「……でたらめ言うのも、ホドホドにしてほしいね」
クリスは呆れ顔で両手を軽く上げた。
「そもそも――ボクが、その『性転換』の<発症者>であるという証拠でもあるのかい?」
「今、ここで貴様に突きつけるに足りるものはない。ただ、重要参考人である事は確かだ。同行願おうか」
ヴォルフは銃口を突きつけたまま、鋭い視線でクリスを睨んでいた。
「丁重にお断りしたら?」
「フフ……その場合は強制的に連れて行かせてもらう事になる」
ヴォルフは不敵に笑う。
「この日本でそれができると思ってるのかい?」
「……そもそもお前は、どうしてここにいるんだ? お前はドイツにいるはずだが?」
ヴォルフは言った。
「……よく調べているね。君達も馬鹿じゃない様だ」
クリスはわずかに笑みをこぼすと、苦笑いした。
実は、<BND>が調査したところ、クリスは現在ドイツのハノーファーに滞在中である事になっていた。しかし彼は日本の岡山県にいた。
ドイツに旅行にいった様に見せかけて、日本に来ていた様だ。
「クリス――あなた、本当なの?」
早紀はクリスに問いただした。
「さあ、でもだからと言って、僕がテロの首謀者だという証拠がどこにあるっているのかな? 日本に来ると言って、ドイツに行ってるのなら……疑われてもしょうがないと思うけどね」
クリスは言った。
「……フフフ、ユイ。どうしたんだい?」
「ク、クリス……」
由衣は少し後ずさった。その顔にはクリスに対する不信の感情が芽生えていた。
「どうしてそんな顔をするんだい? それとも、この怪しげな男の言う事を信じるのかい?」
「で、でも……」
「僕達は友達だろう?」
由衣には信じられなかった。クリスがテロの首謀者……どう考えても結びつかない。
そして、クリスが『性転換』の<発症者>であるという。そんな話は聞いていない。由衣が聞いているのは、『性転換』とは由衣だけの特殊な症状だという事だ。クリスを信じるか? このヴォルフの言う事を信じるか……ヴォルフという男は、見るからに怪しげで信用できない。実際、由衣はこの男に怖い思いをされたのだ。
しかし、その事をとりあえず置いておいて、冷静に考えると、ヴォルフの言う事には信憑性があった。早紀がこのヴォルフを知っている事を考えるに、ヴォルフがわざわざ日本にやってくるのは、そういう仕事を実際にする目的でやってきているはずだ。
それに……クリスが『性転換』の<発症者>であるという事も間違いなさそうに思った。あのヴォルフという男が由衣を狙ったのもそのせいだろう。
自分自身では自分が『性転換』の<発症者>である事は間違いない事実だと知っている。自分の事なのだから。
でも、由衣はテロリストではない。だとしたら――由衣の知らない誰かがテロリストなのだ。それが……目の前の……。
その時、早紀は異様な気配を感じた。複数の殺気の籠った嫌な気配だ。その気配の方向を凝視した。由衣やクリスも気がついた様子だ。
付近を通る車の音が、ここを平和な日本の街だと認識させてくれる。しかし、その認識が揺らぐ様な、鋭く研ぎすまされた殺気が早紀達を狙っている。
「……だから言ったのだ。早く移動するべきだとな」
ヴォルフはそう呟くと、早紀と同じ方向を見た。
「――よう、クリス」
そして、暗闇の中からひとりの男が姿を現した。ニヤニヤしながらゆっくりと近づいてきた。
「君は誰だい? 僕は知らないねえ」
クリスは自分の名前を呼ばれたが、知らないと答えた。
「はあ? 知らないわけがないだろうがよ。この俺様の顔を……このジャック様の顔をよう!」
ジャックと名乗った男は、クリスを睨みつけた。
「ようやく見つけたぜ。しかもどいつもこいつも揃ってやがる。楽なもんだぜ!」
ジャックはそういうと、指を鳴らした。ジャックの背後からふたりの男が出てきた。どちらも善良な一般人とは言い難い男だ。そもそも片方は、由衣には覚えのある顔だった。
「仲間か……」
「――まだいる」
早紀は周辺を警戒した。
ふたりだけじゃない、五人、六人、八人……どんどん姿を現した。
「囲まれている……」
由衣は左右に視線を動かしながら、周辺を見回した。
「クリス。お前にゃあ、そろそろ死んでもらわねえとな。お前は大したやつだ。でもな、もうお前には用がねえ」
ジャックはクリスに対して言った
「……どういう事かな?」
クリスもジャックに対して厳しい目を向ける。
「もう用済みだからな。お前を殺して、その後、中性子爆弾テロをベルリンで起こして、俺は名を上げんだよ」
由衣は、こいつがテロの首謀者なんじゃ? と思った。そもそも堂々とテロを予告しているし。
「クリス、準備はできているんだぜ。あのベルリンが中性子の光にやられて、死の街になる時がきた。楽しいよなあ!」
ジャックの笑い声が、夜の街に響きわたった。
「やれ!」
ジャックがそう言うと、ジャックの手下らしき男達が一斉に襲いかかってきた。
「由衣!」
早紀が、由衣に近づく暴漢を見つけて、その間に入った。早紀は男の正面に入って、殴りかかる男の腹部めがけて思い切り殴った。男は身を見開き、気絶して崩れ落ちた。
「由衣、大丈夫?」
「う、うん――大丈夫」
「由衣、こっちへ!」
乱戦の最中に、早紀は由衣に呼びかけて、一緒にここを離れる様にしようとした。ジャックの手下達は皆銃を使わない。クリス以外も、生きたまま捕まえて連れ去ろうと考えている様子だ。
「早紀!」
由衣も早紀とともに逃げようと、早紀に近づいた。そこに早紀に向かって、大柄な男がタックルを仕掛けてきた。軽い動きでかわす早紀。男は勢い余って、前につんのめって転がった。
暗がりの中、混乱が続く岡山ドーム前。遠くからサイレンが近づいている。
「警察?」
早紀は、警察に踏み込まれる前に、この場から離れないと。と思いながら、由衣を探した。
「ゆ、由衣?」
早紀は、いつの間にか由衣の姿が見えない事に気がついた。