翌日
次の日、由衣のマンションに早紀がやってきた。
「由衣、おはよう。体調はどう?」
「うん、特に問題はないよ。まあ上がって」
由衣はリビングに招いて、飲み物とお菓子を取りに行く。キッチンでコーヒーを淹れて、お菓子は何が何がいいか、棚を探した。先月に両親がやってきた際に持ってきていた、煎餅やクッキーがあったので、それを適当な皿に入れて持っていった。賞味期限は確認済みだ。
「早紀、よかったら食べて。それからコーヒーもどうぞ。砂糖とミルクは?」
「ううん。入れないわ」
早紀は笑顔で答えた。
「ああ、そういえば、前もブラックで飲んでたね」
「うん。由衣は甘いのが好きなのね」
「ま、まあね……」
「うふふ、私も甘いものは大好きよ」
早紀は微笑んだ。
「――由衣、本当に大丈夫?」
早紀の表情は、どこか心配そうである。無理もない。昨日の由衣はかなり憔悴していた。早紀は泊まっていくと言ってくれた。しかし仕事があると聞いていたので、帰ってもらったが、最後まで心配してくれていた。翌日は早くに来るからと言っていて、それで今朝やってきたのだ。
「うん、全然平気。別に体調が悪いという事もないし」
由衣は小さくガッツポーズをして見せた。体調は特にどこも悪くなさそうだ。
「ならいいのだけど。無理しないでね」
「大丈夫だよ。早紀、ありがとう」
由衣は笑った。
「……早紀、何か飲む?」
しばらくふたりで談笑していたが、早紀が飲んでいたコーヒーが無くなった様なので、由衣が尋ねた。
「ええ、じゃあいただくわ」
「何がいい? コーヒー以外でもジュースとか……」
「じゃあ……紅茶がいいかな」
早紀は少し考えて、遠慮がちに答えた。由衣は、紅茶は家に置いてなかったと思って、「しまった」と思った。
「紅茶かあ、わたしは飲まないから……」
苦笑いしながら、ない事を伝えた。
「じゃあ、コーヒーをもう一杯……」
早紀は言った。
「あ、いいよ、いいよ。ちょっと買ってくるから」
由衣は、近くのコンビニで買ってくる事にした。自分で言っといて、ないでは格好がつかない。
「そんなの必要ないわ。別に紅茶にこだわって……」
「いいって。せっかく心配してきてくれてるのに。近所のコンビニで買うからすぐ戻ってくるね」
由衣はそう言って出て行ってしまった。こういう時、人はなぜかやたら強引である。普段はすぐ妥協するというのに。
「じゃあ、ちょっと待ってて」
「気をつけてね」
早紀はそれを見届けると、行動を開始した。今のは早紀が、由衣のマンションを調べる為に、あえて言ったのだった。由衣がそういう行動をとるだろうと見越しての事だ。ちなみにこれが駄目なら、また別の手段がいくつかあり、順次試す事になる。
各部屋を手際よく調べていく。特に問題になるものはない。机の引き出しに拳銃が入っていた時は緊張が走ったが、よく見るとオモチャだった。エアガンというやつだ。グロッグ17という、早紀も以前所持していた事のある拳銃である。この銃は、実銃もグリップなどの本体が樹脂製であり、一瞬本物かと見間違えたが、よく見るとスライドもプラスチックであり、完全なおもちゃだとわかった。
パソコンも調べていく。特にパスワードでロックされているわけではなかったので、簡単に中を閲覧できた。メールなども見たが、怪しいものは何もなかった。
あとは持ち歩いている携帯だが、ここに何もない状態では、おそらく携帯にもないだろうと予想した。
そうしていると、玄関を開ける音がした。早紀は素早くリビングに移動して、棚に飾っていた、黒猫を模した置物を眺めているふりをした。
「ごめん、遅くなっちゃったよ」
由衣は苦笑いしながらリビングに入ってくる。
「ううん、全然遅くないわ」
「作るからもう少し待ってね」
「うん。由衣、ありがとう」
それからふたりは、他愛ない雑談に花を咲かせた。
「……どうだ?」
その晩、ヴォルフは早紀に向かって言った。
「やはり匂わすようなものは、まったく出てこなかった。それは本当に確実なの? どこからの情報?」
「情報源は俺にはわからん。ただ、今回のはかなり信用できる筋だとは言っている」
<ニュクス>は、かなり自信を持った様子だった事から考えるに、誤報ではないと感じていた。
ただ、ヴォルフにしても、やはり由衣がテロに関与している風には思えなかった。
「まあ、少し様子見とするしかない。<ニュクス>には伝える。どう反応するかわからんが」
由衣はその日と、翌日は家で過ごした。早紀が遊びに来てくれて、雑談やら、ゲームやらをして遊んだ。夕方になると仕事があるからと、早紀は帰った。
その日の夕方、由衣はカフェ「Y&H」から帰る途中、後ろから声をかけられた。
「やあ、またあったね。ユイ」
声の主は、クリス・ハワードだった。相変わらず、綺麗な金髪をなびかせ、愛嬌のある爽やかな笑顔を浮かべていた。
「ああ、クリスさん……でしたね」
「そうさ。ボクの名前を覚えていてくれたんだ。嬉しいね!」
初めて会った時同様、明るく流暢な日本語を話している。
「ユイは何をしてるのかな? どこか遊びに行くの?」
「ちょっと、ご飯を食べてきたところで……もう家に帰るんですけど」
「ああ、そうなのかい? それは残念だなあ。一緒に食べたかったよ」
クリスは残念そうに、顔を歪め嘆いた。
「ユイはもう家に帰るの?」
「そうです」
「僕がお邪魔してもいいかい?」
「まだよく知らない人を家にはちょっと……悪いけど」
「ははは、まあそうだよね。当たり前の事を聞いてごめん」
「いや、まあ……」
その後、由衣はクリスとしばらく話し込んだ。とは言ってもクリスが一方的に話しているだけの様子であった。
なんというか、前もそうだがこのクリスという人物は、結構ひとりよがりな性格をしている様に感じた。常に自分から喋って、それに由衣が答えるという会話ばかりだ。
話し上手なのか、面白い話をするのだけれども、どうもひとりよがりな部分が少し気になった。
「じゃあ、また会える事を願って……ユイ、またね!」
そしてクリスは、そのまま走り去ってしまった。なんとも忙しい人間だと思った。ただ、彼は一体何をしているんだろう? と疑問を感じた。見た感じは学生の様ではあるけれど。
マンションに戻ってきた由衣は、しばらくしてコンビニで買いたいものができたので、日が暮れた午後八時ごろに自宅を出た。
すぐに買い物を済ませて、戻っている途中に何か違和感を感じた。足を止めて、周囲を見渡した。だが、周囲には人影はない。しかし、何か自分にとってよくない気配がする。それも複数だ。
途端にこの間の出来事がよみがえった。
——まさか……いや、でも。
あやふやだった違和感は、もう確信に変わっていた。
——いる。しかもひとりやふたりじゃない……。
気がつくと由衣は数人の男に囲まれていた。薄暗い街灯の下ではあるが、どの男もまともな生活を送っている様には思えない人間ばかりだ。
この辺りは、人や車の往来もそれなりにあって、犯罪とはあまり縁のない地域でもあった。普段なら、誰かしらが通行人の姿を見かける事が多いというのに、今に限って人も車もまったく来ない。
今、ここにいるのは、由衣とこの不審な男達だけだ。
『一緒に来てもらおうか』
男のひとりが英語で喋った。由衣はどう答えるべきか迷ったが、『どうしてですか?』と英語で言った。
『それを知る必要はない』
『……悪いけど、同意できないね』
由衣は、この場を無事脱出するのが、とても困難だと認識しながらも、視線を左右に振りながら状況を確認していた。
由衣の額に緊張の汗がにじむ。この男達は、どうやら逃してくれそうにはない。ひとりが由衣の腕を掴んだ。
『——何を!』
由衣が抗議しようとした。
しかし、その時――突如聞き覚えのある声が聞こえた。
「――その子を放しなさい」