危機
由衣はふたつのアイスクリームを持って歩いている。チョコとストロベリーだ。早紀は何でもいい、と言っていたが、由衣も抹茶とかでなければ、何でもよかった。これも適当なのを選んだだけで、特にこだわって選んだわけではない。
「どっちを選ぶかな?」
別にどっちでもいいものの、早紀がどちらを選ぶか当ててみようと思った。
――やっぱりストロベリーかな? いや……。
そんな由衣の姿を狙う、一匹の狼。何も知らぬ無力な子羊は、この後待ち受ける悲劇を何も知らぬまま、のんきに歩いている。
ヴォルフは歩いていく由衣の姿を確認すると、その様子を伺った。獲物は当然、その視線に気がついていない様子だった。
ヴォルフは歩道の脇に植えてある生垣の裏で待った。特に人もおらず怪しまれる心配もなかった。
由衣が、ヴォルフの潜む生垣のそばに差し掛かった時、電撃的な速さで襲いかかった。
「――由衣?」
早紀は何かを予感した。気になる予感だ。どうも胸騒ぎがする。早紀の予感はよく当たる。特に悪い方であれば、ほぼ間違いなく。
ベンチから立ち上がると、由衣を探しに行く事にした。
「……!」
由衣は突然腕を掴まれて、茂みの向こう側に引きずり込まれた。由衣の視界に映る、鋭い顔つきの男。外国人だ。突然の事に頭が混乱していた。
次第に襲ってくる恐怖に体が震え上がった。
『――ユイ・ハヤカワだな?』
男はそう言った。由衣は混乱する頭の中で、この男がドイツ語で話しているのに気がついた。由衣はドイツ語以外にも数ヶ国語が読み書きできる。しかし恐怖の前に言葉が出ない。
『――もう一度言う。ユイ・ハヤカワだな?』
男は再び言った。由衣は恐怖の中、とりあえず頷いた。すると男は、素早く小さなスプレーのようなものを取り出し、由衣の顔に吹きかけた。間もなく由衣は意識を失った。
――ヴォルフは、首尾よく由衣の気を失わせると、尋問する為に別の場所に移動させる事にした。先ほど少し調べてみていたが、すぐ近くに人気のない、都合のいい場所があった。
ヴォルフは、そこへ由衣を別の場所に移動させようとした時、後頭部に硬いものが当たった。
「……両手を挙げて。そのまま振り向くな」
ヴォルフはそのままの体勢で、ゆっくりと両手を挙げた。
「……死にたくなければ、このまま立ち去りなさい」
ヴォルフは視線を腰に移した。そこには拳銃の納まっていないホルスターがあった。
――いつの間に? 迂闊だった。
「去りなさい」
背後から再び声がすると、ヴォルフは両手を挙げたまま立ち上がり、とても小さく舌打ちすると、すぐに走り去った。
「……由衣、大丈夫? 由衣!」
由衣は、自分を呼ぶ声がして、少しつづ意識が戻ってきた。
「……あ、さ、早紀……? う、ううん……」
まだ意識は朦朧としていて、視界もぼやけていた。
「由衣、しっかりして!」
早紀の心配そうな顔が見えた。その顔は次第に鮮明になっていく。
しばらくして、意識もはっきりしたので、身体を起こした。しかし、意識がはっきりしてくると、先ほどの恐怖が蘇ってきた。
「……なんで……わたしが」
顔が真っ青になる由衣。少し震えていた。
「由衣!」
早紀は由衣を抱きしめた。
「早紀……」
由衣と早紀はしばらくそうしていた。
午後十時頃、人気のない裏通りの一角で、ヴォルフは昼間の出来事を思い出していた。
――何者だ。俺が背後を取られるとは。
ヴォルフは信じられないと言った風だ。この様な不覚は当然初めてではない。しかし、ここ数年で自分にここまでできる可能性のある人間は、ごくひと握りだ。そのひと握りがいるのか? それに、どうして自分の邪魔をしたのか? テロの仲間か? どういう事だ? いろいろと分からない事だらけだ。
遠くで自動車の走る音が、時折聞こえてくる。すぐ近くにある、居酒屋と思われる店の中からは、下手な演歌が聞こえている。しかし、ヴォルフにはそれが何という歌なのかわからないが。
どこの国にもある、薄汚い裏通りの夜である。ヴォルフはこういうところで育った。どこか安心してしまう、この自分の体に染み付いた汚い匂いに反吐がでる。
そこへ、人影が現れた。
――昼間の奴か?
ヴォルフは只者ではない気配に、昼間不覚を取った者だと確信した。
「ヴォルフ……どうしてあなたが……」
そう言って姿を現したのは……早紀だった。早紀は昼間と同じ格好のまま、ヴォルフを睨みつけていた。
ヴォルフは微笑し、早紀の方を見て言った。
「……そういう事か。エリス」