始まり
ドイツ連邦共和国の南部にある、バイエルン州最大の都市ミュンヘン。ここにはかつて連邦情報局「BND」の本部があった。数年前にベルリンに本部が移設されたが、実は一部の組織が、そのままミュンヘンに残されている。
その組織は、テロなど反社会的勢力の排除を目的とした組織で、元からBNDにあるテロ対策部門とは別に作られた組織だ。
それもそのはず、その組織はテロの排除に手段を選ばない。暗殺、破壊工作などはもとより、目的の為には非人道的な手段も辞さなかった。それゆえ、テロ組織などからは非常に警戒され、恐れられていた。
しかし、そのような組織は必要悪と言えるのかもしれないが、やはり表沙汰になるのは好ましくなく、二〇〇〇年頃に当時のシュレーダー政権によって廃止された。
これによって組織は消滅したかに見えたが、実は組織自体は残されていた。複数の政治家や実業家の手によって未だに維持され、裏ではBNDと繋がってはいるものの、建前上は独立した別の私設諜報機関となっていた。
――この諜報機関は、通称<ニュクス>と呼ばれ、現在も全く変わらず機能している。
南側にのみ小さな窓のある、あまり広くない会議室の中に数人の男がいる。薄い灰色の天井と真っ白の壁には、まったく飾り気が無く味気ない。会議室なのだし、不要なのだろう。
そんな無機質な空間の中で、おそらく幹部と思われる貫禄のある中年の男数名が、部屋の中央に据え付けられた、ダークグレーのテーブルを挟んで座っており、何かを話し合っている様子だ。
また、席にはつかず、モニターの前に立っている男もいる。彼は事件を担当する捜査官で、それぞれの事件の現場指揮を担当している。おそらくは三十代前後と思われるがっちりした体型の男だ。彼が何かの事案を報告している様子だ。
「……それは間違いないのか?」
幹部のひとりである男が、若い捜査官に向かって言った。禿げ上がった頭髪と顔に刻まれた深いしわが、もう中年以上の年齢であろう事が想像された。かなりのベテラン幹部の様だ。
「ええ。間違いないようです」
「小賢しい事を……まったく忌々しい連中だ」
また別の幹部が、憎々しげに呟いた。
「計画はどこまで進んでいるのだ?」
「まだ初期段階かと思われます。爆弾をこれから入手する計画だという段階ですから」
「ははは、それはいい。これほど早い段階で情報が入るとは」
先ほどの禿頭の幹部は、そう言って笑った。
「ふむ、今回は楽に解決できそうだ」
――二週間ほど前、国際的テロ組織がドイツの首都ベルリンでテロの計画がある、との情報を得た。それも核爆弾を使うという、まだ完全には裏が取れていないものの、彼らにとって見逃す事のできない、危険なテロ計画である。
近年、非常に小型の爆弾が世界各国で作られている。都市をまるごと壊滅させる破壊力を持つ核爆弾がスーツケースほどの大きさで、重さもひとりでも持てるくらいだ。直径一キロ程度の範囲なら手のひらサイズのものまである。
こういった小型の核爆弾は、ミサイルとして飛ばすのではなく、爆破予定地に人や車で持っていき、設置し終えると遠隔地にて起爆するのだ。敵地に密かに持ち込ませて、カモフラージュして設置すれば、敵が発見するのが困難で、大変な脅威だった。
アメリカ、ロシア、フランスなど一部の国では、こういった小型核爆弾が密かに製造され、他国に対して大きな脅威になっていた。今回のテロは、この小型核爆弾をどこからか奪って使用すると予想されていた。
会議は具体的な話に移行する。
「……奴らはどこで手に入れるつもりだ?」
<ニュクス>の局長が口を開いた。彼は、一八七センチという高身長に、白髪交じりの頭髪に険しい顔の男で、彼はまったく笑わない。職場のみならず、家庭でも同じという。
「調査の結果――フランス、アメリカ、日本。このどれかであろうかと」
捜査官はそれに答えた。
「ふむ、アメリカが最も有り得る。現在ではアメリカより核を持っている国は無い。ロシアは今、経済もうまくいっていない。言ってみれば足踏み状態だ。中国はあのザマだしな。」
現在、アメリカの超大国化が進んでいる。ほぼ、対抗できる国が無い有様だ。
すでに懐かしさの漂う東西冷戦の、かつてのライバルと言っていいロシアは、二年前のドミトリー・ベレフスカヤ大統領の政権になって以来、うまくいっておらず、経済は火の車だった。軍事面にも当然、大きな予算をかけられていない。
中華人民共和国は、北と南に民主化勢力が強大化しており、散々な状態にある為、ロシア同様に小型核爆弾の開発どころではない。
「……フランスも有力だろう。しかし、日本は? 日本は核を持っていないだろう。まして小型爆弾など、聞いた事がない」
また別の幹部のひとりは日本の名前を聞いて不思議がった。様々な情報を見ていても、日本が小型の核爆弾を保有しているという情報はない。
「本命はフランスです。ただ、アメリカの可能性も捨て切れません」
捜査官は現状を説明する。
「それはわかる。フランスはこのあいだの情報で、随分と高性能なものを開発している様だしな。しかし……日本が?」
また別の幹部が発現する。
「これは、捕獲したテロ組織の組員を拷問した際に出たので、可能性としてはやはり捨て切れません」
「可能性は低いものの、といったところか」
「ええ」
「手は打っているのか?」
局長は無表情のまま、若い捜査官を見て言った。
「はい、CIAやDGSEなど、それぞれと情報交換して捜査する体制を整えています。一応こちらからも、すでにフランスにはタナトスと、ゲーラスを送り込んでいます。アメリカではモロスとアパテーがすでに調査を開始しています」
捜査官は表情を崩さず、ただ淡々と発言した。
「――日本は?」
「日本は、公安の方に連絡を入れたのですが、あまり積極的ではなさそうです。やむをえないので、エリスを送り込む予定にしています」
「エリスをか? エリスを使うならもっと……」
それを聞いて、幹部のひとりが意外な顔をした。
「ええ、まあそうなのですが、日本にあまり<下請け>を投入するのも。エリスならひとりでも十分でしょう……それに」
不意に言いよどむ。
「それになんだ?」
禿頭の幹部が言った。
「議員が……」
少し言いにくいのか、捜査官の声は小さい。だがその理由は理解した。
「ああ、そういう事か。まったく……」
男はそうつぶやくと、ベルリンのある方角を見て忌々しげに睨んだ。
<ニュクス>の人間は、基本的に現場では活動しない。基本的には外部協力者という、独立した<下請け>を現場に派遣して、それぞれの作戦を実行する。
それは、この<ニュクス>がテロを阻止する為なら、非道な行いも辞さないゆえに、それらの行為に直接職員が関わるのを避ける為である。何かまずい事が起これば、<下請け>が勝手にやったと切り捨てられるからだ。
<下請け>達は<ニュクス>と同じ様な、それぞれにコードネームを持っていた。タナトスやゲーラスなどがそうである。これらはすべてギリシャ神話の神の名前だ。夜の神ニュクスに対する、ニュクスの子供達の名前である。
これらの名前は誰がつけたのかはわからない。いつの間にか<ニュクス>と呼ばれる様になり、<下請け>がその子達の名前を付けられる様になった。