...またおいでね
「俺は良いけど、ここ臭くねーか」
「あたしはてっきり、あんたの臭いだと思ってたわ」
「...おまっ...いちいち失礼すぎだろ!」
「えー淳くんは良い匂いだよー?...香水の」
「芽衣、それってなんかビミョーな褒め方だな...」
奥の部屋に向かいながら、いつも通り結衣が淳に軽口を叩き、芽衣が微妙なフォローをしている。いつもと変わらない光景...。ただ、私の耳は違う音を拾っていた。
ヒタッ...ヒタッ...ヒタッ...
「由奈さっきから黙ってるけど、お腹でも痛めた?」
「お前じゃあるまいし、由奈は腐った牛乳なんか飲まねーよ」
「やっぱり、ドリンクバー遠いの嫌?」
俯きながら歩いていると、少し前を歩いていた結衣達が一斉にこちらを振り返り、私の顔を覗き込む。
(ダメだ、皆に怪しまれてる...)
「あ、そーなの!往復するのが面倒だからさ、何飲もうかなー...って!」
淳は呆れた顔をしているが、幸い結衣も芽衣も不審には思っていないようだ。無理矢理口角を上げ、目を細めることによって笑顔をつくる。
「あ、ここみたいだねー!芽衣一番奥が良いなー」
「あたしはどこでも良いよ、淳!あんたは入口側ね」
「まさかとは思うけどよ、パシリにするためじゃ...」
「当たり前でしょ」
淳は優しい、結衣がこんなに軽口を叩いていても、結局何も言わずに入口に近い所に座ってくれる。私としても、淳が入口の近くに居てくれることは心強い。
ヒタッ...ヒタッ...ヒタッ...
そう、足音はどんどん近付き...今は...入口のドアのガラスに張り付いているのだから。その皮膚はずる剥け状態で赤黒く、男なのか女なのか判別すらできない。
もちろん、皆には見えていない。部屋は5帖ほどの広さで、奥にテレビがあり左右にそれぞれ、3人掛けのソファーが置かれている。
淳が入口に座ってくれたお陰で、私はテレビのすぐ近く、芽衣の正面に座ることができた。私はできるだけ入口を見ないようにし、カラオケの画面に集中することにした。
「おっしゃ、あたしがトップバッターいくよ!」
「いぇーい!」
「毎回だろ」
いつも通り、結衣がトップバッターでノリの良い曲を歌う。結衣の声はとても綺麗で、普段話している時より更に艶っぽい声質になるのだ。
私はそっと淳に近寄り、そっと耳打ちをする。
「結衣って、本当歌上手いよね」
「あ?そーだな、あいつは無駄美人だからな」
どうやら、淳も結衣の容姿と歌声は認めているらしい。私はいたずら心に火がつき、
「あ、でも淳は芽衣みたいな女の子がタイプだっけ」
「...!!」
そう耳打ちすると、淳の顔は一気に赤くなった。とことんわかりやすい男だと思う。
「由奈、お前...ちょっと来い」
「え!ちょっと!」
「良いから来い...お前ら、悪いけどちょっと廊下に出るから」
芽衣は手を振ってきたが、結衣は特に気にしていない様子だった。それよりも精密採点に集中しているようだ。
「淳!何なのもー...ごめんってば!」
淳は私の服を掴み、勢いよく部屋のドアを開ける。そこにはあの大火傷を負った霊が...なんとかその場で踏ん張るが、淳は男だ...女の私がかなうはずもなかった。
「淳力強すぎ....」
踏ん張りも虚しく、私は廊下に出された。幸い、淳がドアを開けた瞬間にあの霊は消えたため、顔面でこんにちは状態は回避することができた。
「お前、さっきのどういう意味だよ?」
「どういう意味って...そのままの意味だけど...」
淳は大きなため息をつき、壁に身を任せ座り込む。前髪を掻きむしったかと思うと、
「お前さ、まさか俺が芽衣のこと好きだとか思ってる?」
と聞いてきた。もちろん、私はすぐに頷いた。淳は芽衣とは特別に仲が良いし、よく2人で居る所も見掛ける。それに、淳は芽衣に対してかなり優しい。
「はぁ...あれだよ、芽衣はなんつーか...妹?みたいな存在かな」
「妹...」
「わかるだろ、あいつの独特な天然さというか...ただのバカというか...」
それは確かにわかる。芽衣は表裏が一切なく、どこまでも人を信じる。皆に隠し事をしている私とは、心の透明度が全く違う。
「俺は...その...芽衣より」
「淳!由奈!!」
「「わ!!」」
淳が何か言いかけた時、歌っているはずの結衣が勢いよくドアを開けた。その顔には焦りが見えて、ただ事では無さそうな雰囲気だった。
「なんだよ、お前歌ってたんじゃ」
「そんなことは良いの!芽衣の様子がおかしいの!」
結衣の言葉を聞いて部屋の中を見ると、芽衣は座ったまま天井を見上げて硬直していた。その目と口は大きく開かれており、全身の力が抜けているようだ。
「芽衣、どうしたんだよ」
「わからない...あんた達が出て行った瞬間、音楽に変なノイズが混ざり始めて...気味が悪いから演奏停止したの...そしたら芽衣が...全然こっち向かないし、返事もしない...」
私達が出て行った瞬間...つまり、ドアを開けた瞬間だ。私はてっきり、淳がドアを開けた瞬間消えたと思っていたけど、実際には部屋の中に入っていたんだ...!!
「あー...あ...」
芽衣は言葉とも思えない声を発し、その目は虚ろだった。そう、あの受付のおじさんと同じ目をしている。
「なんか焦げ臭くないか...俺さ、まさかとは思うんだけど」
「何よ...」
「...この部屋...出るんじゃないか...?」
淳がそう言った瞬間、よりいっそう部屋の空気が重たくなる。いつもの結衣なら、速攻で「馬鹿じゃないの」と淳にゲンコツのひとつでもお見舞いしているはずだ。
それでも何も言わずに固まっているのは、自分でも少なからずそう思っているということだろう。もちろん、その通り...芽衣は体調不良でも何でもなく、事実憑依されていた。
「そ...んなのって...どうすれば良いのよ...」
「俺だって知らねーよ!幽霊とか信じてねーし...」
私はとっさに芽衣を抱きしめる。結衣と淳は驚いた顔をしていたが、止めなかった。
(気持ち悪い...)
身体中を虫が這いずり回るような...独特な不快感が全身を襲う。芽衣の体は氷のように冷えていて、私の方を見ようともしない。
(お願い...芽衣から離れて、代わりに私の中に入って良いから...)
私は見えるだけで、除霊の類の力は一切無い。ただ、憑依体質にだけは自信があった。芽衣から霊を剥がすには、今の私にはこうすることしかできない!
「...ん...由奈ちゃんどうしたの...?」
「「芽衣!」」
良かった...上手く私に憑依させることができたようだ。芽衣の瞳には活力が戻り、まだ多少冷えているものの、体温も正常になっている。
「芽衣大丈夫?」
目の前がぐらぐらするけど、なんとか意識を保ちながら芽衣に声を掛ける。
「ごめんねー...なんか急に気分が悪くなっちゃって...」
どうやら、何も見えて居なかったようだ。霊感は誰もが持っているもので、いつ覚醒してしまうかはわからない。少なくとも芽衣が見えるようになっていなくて、心底安堵する。
「もおー...心配したんだからね」
「そーだぜ全く...それよりさ、この部屋出ねーか」
淳の提案に皆賛成し、それぞれ荷物を持って受付に向かう。私も皆の後ろを懸命に追いかけるけど、体が鉛のように重たくて、上手く歩けなかった。
ここから出たくない、まるでそう思わされているかのような...。とにかく今は皆の前でおかしくならないよう、意識を保つことだけに集中していた。
「お客さんもう帰るのかい...」
受付のおじさんは相変わらず虚ろな表情で、一瞬私のことをじっと見つめてきた。しかし、すぐにまた虚ろな目に戻り、気味の悪い笑顔を浮かべる。
「...またおいでね」
その言葉がやけに頭に響いた。