第七話 脱出
やばい。
ロルフの直感が全力で危機を訴えてきていた。いや、そんなものが無くてもはっきりと判っただろう。闇に潜むように現れた獣鬼の群れ。その数は六匹。数は二度目の襲撃時よりも少ないが、その個別の威圧感はそれより遥かに上だ。敵わない程ではない。だがこの数相手に何の犠牲も出さずに勝ち抜けるかと云えば、ロルフには自信がなかった。
しかも状況が悪い。
此方は連戦続きで、睡眠もまともに取れなかった。闇夜で視界が利かない。しかも止めとばかりに、向こうはやたらと殺気立っている。
だが取り敢えず無視する訳にもいかない。
ロルフとマウリは馬車を降りた。だが暗闇の中、此方から攻め入るのは自殺行為だ。それはマウリも一緒なのか、自分から攻め入ろうとはしない。そして獣鬼達も殺気立っているわりには、攻撃を仕掛けてこようとはしなかった。
ロルフはちらりと視線を後ろへやった。
無論、何が見えるという訳ではない。この数日お世話になった馬車と、その更に奥には無明の闇が広がっているだけだ。だがその先にはロルフが危険を察知し、逃げてきた宿泊場所がある。この場で延々とお見合いを繰り返していれば、宿泊場所を襲ったであろう何らかの脅威がどのような動きを見せるのか、ロルフには予想が付かなかった。
「……どうする?」
マウリが問い掛けてきた。種族も関係しているのかも知れないが、マウリはこのような状態になった時、集団を率いて指示を出すようなタイプではないようだ。そしてカストは戦闘においては素人だ。自然と戦闘についての決断はロルフが下すようになっていた。
だがそのような事を問われても、ロルフにはどのような決断が正しいのかまるで判らなかった。
強引に押し切るか、それともじっくり腰を据えて戦うか。
どちらにも利点があり、欠点がある。だがロルフの脳裏には、宿泊場所で感じたあの殺気がこびり付いていた。それを無視する事は出来ない。ここは多少の危険を冒しても早期に突破を計るべきだ。
「……強引に突破する」
暫しの逡巡の後、告げた。緊張で喉がやたらと乾いていた。マウリがこくりと小さく頷いた。
幸いと言っていいのか、向こうから仕掛けてくる事はまだ無かった。ロルフは御者席へと近寄り、方針を伝える。カストも緊張を顔に浮かべていたが、異論はないようだ。無言で一つ頷いた。
「しぃっ!」
まず最初に仕掛けたのはマウリだった。相変わらずの瞬発力で、敵へ向かって駆ける。見る間に敵との距離を詰め、それと同時に闇に紛れロルフの視界から消えた。そして鈍い物音が響く。だが敵の魔力は健在。マウリについてもそれほど大した負傷はないようだが。
「失敗したっ!」
すぐにマウリのそんな声が響く。その時にはロルフも駆けていた。闇に蠢く炯眼。生温かい息。獣臭。そして野卑な殺気。気圧されないようにロルフは奥歯を噛み締める。守りに入る訳にはいかない。今必要なのは攻めだった。それも相手の防御を強引に打ち崩せるだけの一撃。そんなものは、ロルフの手札の中では一つしかない。
「――邪魔だっ!」
ロルフは盾を担ぐように掲げ、銛か何かのように叩き付ける。盾を伝わって鈍く柔らかい感触が伝わってくる。獣鬼が内圧に負けて口から血を吐き出す。冗談のように湧き出てくる血と、それに混じった諸々がロルフの顔に掛かった。ある意味隙だらけの一撃だったが、その威力は絶大だ。並大抵の防御など貫いてしまう。そして、その攻撃は獣鬼達も予想外だったらしい。守り重視でじわじわと獲物を仕留めようとしていたのだろうが、あのような事を続けられてしまえばそれも出来ない。獣鬼達が明らかに浮き足立った。
「はっ!」
続けざまに同様の一撃。これは流石に躱される。だが更に追撃のようにして放ったシールドバッシュは躱しきれなかった。殆ど体当たりのような形で放った一撃だ。浮き足だった状態で耐えられる筈もない。獣鬼は味方を巻き込んで、後ろへ転がった。
「今だっ!」
肩越しにカストへ向かって叫ぶ。それと同時にロルフは全力で駆けた。向かうのはマウリがいる辺り。まだ獣鬼達の気配が残っていた。それらをせめて怯ませておかないと、馬車が止められるかも知れない。
深い闇の中だ。視界など殆ど利かない。敵の攻撃に細かく反応する等という事も無理だろう。だがそれ故に、ロルフは吹っ切れていた。今の状況でロルフにやれる事など一つしかない。
左に握ったカイトシールド。その重みに意識を集中させる。慣れる前に何度かの実戦を潜り抜けたそれは、ロルフにとって既に相棒と云っても過言ではなかった。
ロルフはそんなカイトシールドを身体へ引き付ける。視界には既に獣鬼達を捉えていた。後ろから馬車が動き始める気配。獣鬼達もまた向かってくるロルフを捉えていた。手に持った棍棒を叩き付けるように構え――。
音がした。
低く重い音だ。ロルフが大地を蹴った、否、大地へ向かって踏み込んだ音だった。それと同時にロルフの上半身が半回転する。引き絞られた弓から矢が放たれるように、ロルフは左手に持ったカイトシールドを前方へ向かって叩き付ける。全力で走ってきた慣性と、踏み込みの反作用。腰の回転。そして『力』。様々な要素が混じり合った一撃だ。獣鬼は棍棒を前方へ掲げる事で防ごうとする。だがそんな中途半端な防御など、その一撃はあっさりとその上から完全に叩き潰した。小柄な成人男性ほどはあった獣鬼の身体が、鈍い音を立て宙を飛ぶ。
目の前で自分の同胞が凄まじい音と共に弾き飛ばされたのを見て、二匹の獣鬼は明らかに浮き足立った。その程度は先程の獣鬼よりも上だろう。その隙をマウリが突いた。素速い動きで獣鬼達の喉元へ貫手を放つ。即死はしなかったが、戦闘能力は取り敢えず奪った。その時には後ろからカストが御している馬車が駆けてきていた。
ロルフとマウリはそれに飛び乗る。まだ動いている獣鬼達もいたが、馬車を追い掛けてくるような事は無いようだ。強行突破の案は結果として大成功といえた。
ロルフ自身も、一回り成長した気になったし、それ以上に自分が進むべき道に少し光明が見えた気がしていた。
「……はぁ」
飛び乗った馬車の席で、ロルフは大きく息を吐いた。どうにか危地は脱した。正直運に助けられたところも多分にあった。無論油断してはいけないが、安堵の吐息を零すくらいは許されるだろう。
そんな事をロルフが考えていた時だった。
「――っ!?」
後ろから声が聞こえてきた。獣の吠え声のような声だ。距離は遠い。なのにまるで間近で吠えられているような、そんな威圧感があった。声は波となって夜の闇の中を伝搬していくようだった。それに恐怖を感じたのか、鳥が大量に飛び去っていくのが遠目にも見える。
「……なに、今の?」
マウリが思わずといった感じで呟く。カストが恐怖に狼狽するセルホを必死に宥めながら、先を急ぐ。先程まで車内にあった危地を脱した安心感は欠片もなかった。ロルフは自然と詰みを飲み込み、闇に目を凝らすように後ろを見た。論拠は何も無かったが、直感していた。今のがロルフが感じていたナニカだと。あのまま宿泊場所にいれば、あいつと対峙する事になったのだと。
「……先を急ぐぞ」
カストが前を向いたまま、宣言する。その声が微かに震えていた。だがそれを笑うことはロルフには出来なかった。ロルフの身体も、少し油断すれば震えてしまいそうだった。
喉が渇いていた。ひりひりに乾いていた。ロルフは苦労して唾を飲み込む。呼吸を整え、カイトシールドをお守りのように抱え込む。そして、後ろを見遣った。夜の闇は余りに深く、何も見通す事は出来ない。だがロルフは長い間じっと目を凝らして見続けていた。
その間、馬車は進んでいく。馬の精神状態を示すようにやや不規則で不安定な調子で、馬蹄が地面を叩く音が響く。前日の雨の所為もあるのか、夜の空気はひんやりと冷えていた。馬車の移動による風圧で、客車にはかなりの風が吹き付ける。冷たい風は容赦なくロルフ達の体温を奪っていく。だがロルフにはそれが寧ろ好ましいものと感じられた。少なくとも気を紛らせる役には立つ。そんな事をロルフは感じていた。
恐怖……だけではない。身体のあちこちが痛かった。そしてそれ以上にどんよりとした倦怠感が身体を包んでいた。身体が重い。眉間の奥に鈍い痛みが走っている。
だがそれは恐らくロルフだけではないだろう。マウリもカストも、同じ程度に疲れている筈だ。そしてそれは馬車を引いているセルホも同様の筈だ。
疲れていない人間などいない。
だが、休憩を取ろうなどと言い出す人間もいなかった。言葉を喋れないセルホにしたところで、休みたい素振りを見せる事もなく、まるで追い立てられているかのように駆け続けた。皆、脳裏には先程の吠え声がこだましていた。不吉な抑揚を伴った、あの声が。
だが、恐らく幸運だったのだろう。
あの吠え声の主に追いつかれる事もなく、新たな魔物と遭遇する事も無かった。
そして夜が白む頃には、ベリメースのその街並みがロルフ達の視界に映っていた。
初めてダイスを振りつつイベント表に従って、書いてみたがどうなんだろう?
慣れていないせいか、まだ利点も欠点も判らない感じ。
取り敢えずベリメースまでの道程で死者が出なかったのは書いてる側としては少し意外だった。天候表で最悪引いて、後戻りして悪化させて、更に変異体の宿泊地襲撃なんてものまで引いたのに、それを感知する段になってクリティカルとは。。。




