第六話 夜半
次の宿泊場所までは、何の問題もなく進んだ。
とは云っても、途中で戦闘や障害などを挟んだ御陰で到着した頃には随分と遅くなってしまっていたが、それでもまあ充分に許容範囲内だ。この分なら明日にはベリメースに着く筈だ。
二つ目の宿泊場所と云っても、一つ目と大して変わらなかった。
空き地のようになっており、小さな小屋が一つあるだけだ。その傍には入出を記録しておく石柱型の魔具がある。それに三人とも記録すると、自然と三人ともその場に座り込んだ。
だがカストは直ぐに立ち上がると、セルホの世話を始める。ロルフはそれをぼんやりと見送った。水魔石から作り出した水を桶に入れ、カストがセルホの前に差し出すと、セルホはそれを旨そうに飲み始める。あっという間に空になったので、カストは次の水を入れてやる。
「セルホの調子はどうだ?」
ロルフが声を投げる。カストはセルホの身体を擦ってやりながら答えた。
「まあ異常はない。だがやはり疲れているな」
「疲れていても此処でゆっくり一休みという訳にはいかない」
マウリの言葉にカストは一つ頷く。
「ああ、幸いと言っていいのか、旅程も大体四分の三は越せた。何の問題もなければ明日の夕刻にはベリメースに着く筈だ」
その言葉にロルフはほっと一息つく。先が見えているというのは良いことだ。例えそれが何か不測の事態が起これば、木っ端に砕け散るようなものであっても。
「それにしても……大変だった」
マウリが呟く。
それにロルフも深く頷く。
甘く見ていたつもりはないが、ベリメースに行くのにここまで苦労するとは思わなかった。話に聞いた限りでは、そこまで困難があるような道程では無かった筈なのだが。
「確かに……な」
それには完全に同意なのか、カストがそんな言葉を呟き考え込む。この中で此処に最も詳しいのはカストだ。だからこそカストの判断を、ロルフは最も重視してきた。その判断に混じる偏りは無視して、だ。
「正直、俺もここまで事態が悪くなっているとは思わなかった。その事については謝る」
そう言って、カストは頭を下げた。だがロルフは、そして恐らくはマウリも、謝罪を求めている訳ではないのだ。無論、賠償を求めている訳でもない。
強制されたのではない以上、そして依頼内容に虚偽があった訳ではない以上、冒険者なんてものは自己責任だ。そうでもなくては、こんなに事故が起きる可能性の高い商売など成り立たない。
「原因は分からない?」
「正直、な。もしここまでの脅威があると知っていたらもう少し何か考えたさ。だがもう引く訳にはいかんだろう」
確かにと、ロルフも内心同意する。
原因についても色々推測は立てられるだろうが、推測程度で何が変わる訳でもない。今できる事は英気を養う為に精々旨い夕飯でも食べる事くらいだろう。
ロルフは夕食の準備を進める。
この三人のメンバーは誰も旨い料理を作るようなスキルは持っていない。だが素材が良ければ、単純に煮込むだけでも料理は旨いものだ。各自が持ち寄った素材を煮立った鍋にぶち込んでいく。
その間、燻製の肉を口に食む。香辛料が利いた辛い味わい。だが中身はかなり柔らかく肉の旨みが凝縮しているようだ。それに干し茸などを入れたスープを飲む。柔らかで濃厚な味わい。そして熱さと紙一重の温かさが臓腑から身体全体に広がるようだった。入れた素材には活力を入れるという効用もある。気のせいかも知れないが、少し身体の疲れが和らいだ気がした。
既に雨は止んでいた。だからという訳でもないが、天幕を張りそこで就寝する事にした。見張りについては、初日と同じくセルホに任せる事にする。それが一番効率がよい。
ロルフは天幕の中の寝台に横になった。自然と頭に思い浮かぶのは今日の出来事だ。
最初の戦闘とその後の障害。
それによって足止めされている間に出現した魔物の増援。
ロルフはカストを守りきる事が出来ず危険にさらしてしまった。仕方ないというのは簡単だ。だがどうすれば良かったのか。そんな疑問が頭を離れない。
敵を自らへ引き付ける【挑発】。
戦闘領域に素速く到達できる移動系スキル。
離れた場所の味方も守る事が出来る【障壁】。
そして様々な遠距離攻撃用のスキル。
どれかをある程度の熟練度で修めていれば、違ったのかも知れない。いや、それだけではない。幻術系のスキルに結界系のスキル。実際にはもっと色々な選択肢があった筈だ。だがロルフはいずれも身に付けていなかった。未熟は仕方がない。だがこのままで良い筈もない。そして上を目指すのならば、盾だけでは限界があるように思える事も確かだ。現に格下の獣鬼相手にも止めを刺すのに手間取った。シールドバッシュでは決定力に欠け、シールドスマッシュではその後の隙が大きすぎる。
どんなスキルもあればあったに越した事はない。だがそのスキルを扱う人間は一人なのだ。互いに反発するスキルを覚えても仕方がない。何を覚えて、どのような流儀で戦うか。
それを出来るだけ早く決めなくてはならない。そうでなければ、腕を磨くという入り口にすら立てない。名を上げるなど、夢物語だろう。
瞼を閉じ、ロルフは思考を巡らす。
今日は何とか生き残る事が出来た。運が良かった。あれ以上の魔物の増援がやって来たら厳しいところだった。明日はそのような幸運に頼らずとも生き延びられるようにしないと……。
そんな事を思いつつ、ロルフは夢の世界に落ちていった。
そして夜中に目を覚ました。
空気がねっとりと密度を増しているように思えた。前日雨が降っていた。その所為だろうと、ロルフは思おうとした。だが違う。明らかにそれは違う。ロルフにはそれがはっきりと判った。何故判ったのか、そもそも何故気がついたのかは、ロルフ自身にも判らない。危機感知のスキルは確かに持っている。だがそれを明らかに超えていた。もしかしたらそう云うものなのかも知れない。試合でほんの時たま、自分の実力を完全に超えているような一撃が放てる事があるのと同じように、いつもならとても気がつけないような危機に気がつける事があるのかも知れない。
だが兎も角、ロルフは跳ね起きた。
最低限の荷物だけを纏めて外へと飛び出す。左手にはしっかりと養父から贈られたカイトシールドを握り締める。外は暗かった。月明かりすらまともにない。殆ど視界が利かない中、ロルフはほんの一瞬だけ天蓋の星々の輝きに目を奪われた。人口の明かりがまるで無い中を輝く星々は、済んだ夜の空気と相俟って、目を奪われるほどに荘厳で美しかった。
だが残念ながら、そんなものに目を奪われている暇など無い。ロルフは名残惜しさを振り切るように頭を一度だけ振ると、手早く灯りに火を付けた。それほど強い明かりではない。だが明かりによって辺りが照らされ、ほんの近くの範囲だけだが視界に入る。
耳を欹て、意識を集中させる。
物音はしない。怪しげな足音も鳴き声も戦闘音も、まるでしていない。それはつまり、警戒を任されていたセルホもまだまるで気が付いていないと云う事でもあった。
気のせいなのか? 一瞬だけロルフはそんな事を思う。恐らくだが、夜におけるセルホの危機感知とロルフの危機感知のレベルはほぼ同じ。ロルフだけがはっきり感じ取れる等という事は殆ど無い筈だ。だが神経を集中させても感じ取れるのは、どこか粘着質で野卑な殺気。
「……おいっ」
目に付いた天幕に駆け寄り、声を掛ける。状況が判らない。出来るだけ声は押し殺してみたが、それがどれだけ意味があるのかは判らなかった。だが声は届いたようだ。暫くごそごそと音がしたかと思うと、中から険しい顔をしたカストが外へ出てきた。
「……なんだ?」
「判らんが、厭な気配がする。此処からさっさと逃げるべきだ」
その言葉にカストは逡巡した。夜の道を進むのは危険だ。御者としての負担も、昼の比ではない。カストは真意を問い質すようにロルフの瞳をじっと見詰めた。だがロルフが引くつもりが無い事を見抜くと、一つ頷き手早く用意に掛かった。
「マウリは?」
「俺が伝えてくる」
馬車の用意がカストにしか出来ない以上、マウリに伝えるのはロルフが適役だ。
ロルフは僅かな明かりを頼りに、マウリの天幕へと走った。大体の場所は覚えていた。さして時間を掛ける事もなくマウリの天幕を見付ける事が出来た。外から声を掛けると、すぐにマウリの返答があり警戒した様子のマウリが表へ出てくる。言葉少なに何か危険が迫っていると告げると、一つ頷きすぐに用意を始める。天幕を畳んでいるような時間はない。最低限の荷物だけを手に持ち、馬車へと飛び乗る。
「明かりの魔石を使う。それで何とかなる筈だ」
カストのそんな言葉と共に馬車の前方が明かりで照らされた。御者席に座るカストが、ロルフの方に確認を求めるように視線を向けた。肩越しに見詰める視線は緊迫と共に、困惑の色が見えた。この期に及んでもセルホは余り危機を感じ取れていないようだ。だがこの点においてロルフは引くつもりは無かった。一つ頷き、出発を促す。カストもここで論争する不毛さに気付いたのか、鞭を入れ、馬車を出発させた。
夜で、明かりもそれほど強くはない。そもそも月明かりすらまともに無いような森の中だ。明かりをつけていても視界はかなり悪い。当然馬車の速度も昼に比べれば大分落ちた。
「……なにがあったのか?」
「判らない。だが何か来ている気がした」
当然とも云えるマウリの問いに、ロルフは首を左右に振る。確かな事は何も言えなかった。だが勘違いではないと云う確信だけはあった。あのまま、あの場所にいたらまずい事になっていた。ならば一部の荷物を捨てて離れるのも間違った選択肢では無い筈だ。
後は安全な場所まで離れられれば、小休止を挟んでベリメースまで着く事が出来る。逃げてきた後方に視線をやりながら、ロルフはそんな事を考えていた。当然ながら直ぐに夜の闇に紛れて休憩場所は見えなくなった。だがそんな深い闇を見通すようにロルフは凝と視線を向ける。
だがそれもそこまで長く続かなかった。
「……おい」
馬車が止まる。カストが肩越しに振り向く。その顔には引きつった笑みが浮かんでいた。
ロルフについても似たようなものだ。口から呻き声にも似た罵りが漏れた。その視線は前方を向いている。まともに見通せなどしない。深い闇だ。だがその闇に浮かび上がるようにして、煌々と輝く幾つもの炯眼が、しっかりとロルフ達を捉えていた。