第四話 小競り合い
茶色く濁った水が凄まじい勢いで流れるその様は、暴力的を通り越し、どこか畏敬の念すら抱かせた。
雨音に混じって聞こえる激流の音。それがまるで滝か何かのように聞こえる。
とても渡れない。川を渡るのは勿論、迂回路を探す事も出来そうにない。
戻るしかない。
その結論が出るまで時間は掛からなかった。
カストが馬車を反転させる。車内には、どこか重苦しい空気が漂っていた。結局の所、時間を無駄にしただけだった。
「……仕方ない」
「ああ」
マウリとカストのやりとりに、ロルフも無言で頷く。仕方ないのだ。結果的に間違った判断を下した事になるが、あの時はあれが最善の判断だった。そう納得しようとするが、悔いる気持ちが湧き上がるのは抑えられなかった。
馬車は泥道となった道を進んでいく。客車の中には雨が叩き付けられ、びしょ濡れだった。車体も水たまりを強引に通ってきた所為で汚れている。そして何よりも馬車を引いているセルホも、心なしか疲労の色が濃い。
そんな中、マウリがふと席を立ちロルフの隣へと腰を下ろした。
馬車はまだ駆けている。水溜まりを叩く音と雨音が断続的に聞こえてくる。
「……なんだ?」
自らの方を窺うように見るマウリに対して、ロルフは声を掛ける。
「少し、話がある」
低く抑えられた声だった。真剣な話題だからというだけではない。意図的に抑えられたものだった。
剣呑な雰囲気にロルフが眉根を寄せると、マウリは顔を近づけ囁くように告げた。
「カスト……置いてかないか?」
どういう事だ?
そんな風に訊ねるロルフに対し、マウリは声を潜めて説明する。
結局の所、このまま危険を押してベリメースに行く意味は、マウリとロルフには少ない。確かに戻る事は出来ない。そして一所にとどまることも難しい。だが馬車が行ける場所という前提を外してしまえば、森の中に野営に適した場所は見つかる筈だ。そしてその場で時期を待って、トーレへと戻る。幸いにもマウリはリザードマンだ。水の多い森林地帯は得意としている。二人いれば問題なく過ごせるだろう。
そんな主張だった。
そしてその主張を否定する事は出来ない。そもそも乗合馬車は一種の協力関係であり、予定と違うという事で契約を破棄しても責められるような事ではない。今回のベリメース行きを諦めるのならば、マウリの提案に乗るのが最も賢いだろう。
だがもしそうすれば、カストは十中八九死ぬ事になる。
ロルフは唾を飲み込んだ。
自分の命を捨てる覚悟はしてきたつもりだった。敵の命を奪う覚悟もしてきたつもりだった。
だが自分の決断で味方と云って良い人間の命を捨てるような覚悟は、今のロルフにはとても出来なかった。
マウリの瞳が凝とロルフを見詰める。
小さな瞳だ。ヒューマンに比べて顔全体が大きいからそう思うのか、その瞳はつぶらで可愛らしいようにも、見方を変えれば暴力的で恐ろしいようにも見える。
ロルフの胸の中に、ふと熾火のような誘惑が湧き上がる。もしもマウリの提案に乗れば、安全に戻れるかも知れない。それはそんな感情だった。
「……それは出来ない」
だがどちらにしろ、答えは変わらない。ロルフはマウリの瞳を真っ直ぐに見据えて答える。
此処でカストを見捨てるような事は、ロルフには出来なかった。
それは只の甘さなのかも知れない。だが、盾役として名を成そうと迷宮都市を目指しているのだ。その最初の一歩で見えぬ危険を理由に同行者を見捨てるのは、このカイトシールドを贈ってくれた養父を穢す事のようにも思えた。
そしてそう思ってしまった以上、ロルフの中にカストを見捨てるという選択肢はなかった。
ロルフは養父に恥じない人間に、養父が誇れるような人間になりたいのだ。決して、ただ生き延びて、強くなり、成功したいのではない。
「……そう」
ロルフの言葉にマウリは言葉少なに頷いた。
最悪の場合、マウリが単独行動を申し出るかとも思ったが、そんな事はなかった。マウリはそれ以降その話題を出す事もなく押し黙った。叩き付けるような雨音の中、セルホが率いる馬車がすっかり変わってしまった泥道を戻っていく。視界は悪い。体力も集中力も最初よりもずっと消費している。
だがロルフは、不安と共にある種の充実感を感じていた。一歩間違えれば死ぬ。最善を尽くしてもほんの少し間違えれば死ぬ。そこにロルフは不思議な開放感を覚えたのだ。身体は疲れ、これ以降の道程もどうなるか判らない。だがそれが愉しい。ロルフの口元には何時しか微かな笑みが浮かんでいた。
不幸中の幸いと云えるのか、最初の休憩所の場所までは何とか敵との遭遇も無く辿り着く事が出来た。
時刻は大体夕刻だ。休憩所の中で煮炊きをして、三人が夕食を取り終わると、もう夜の時刻になっていた。ここから出発するのは自殺行為だ。一晩休んで先へ進む事にする。
次の日の朝、雨は随分と小降りになっていた。
カストの顔に僅かに明るいものが浮かぶ。二日連続で大雨の場合、ベリメースに行くのもかなり大変だった筈だ。最悪の場合、馬車を捨てる必要すらあったかも知れない。だがこれなら普通に先へ進める筈だ。魔物の分布などがどうなっているのかは判らない。なので油断は禁物だろう。だが、昨日までよりは随分と状況も明るくなってきた気がする。
ここで再びコトールへ戻るという選択肢も無い訳ではなかった。
だがカストは元より、ロルフも、そしてマウリもその選択肢を口にする事はなかった。
同じ場所をぐるぐる回るような事をしたくなかったのだ。その気持ちが、少なくともロルフには大きかった。左手に持ったカイトシールドの重さをロルフは意識する。初めて受け取ったとき感じていた頼もしさ。その感覚は少し変わってきていた。
どんなに優れた盾があってもどうしようも無い事がある。盾に頼っているだけでは駄目なのだ。この盾を活かす為にはそれに相応しい場を作らなくてはならない。
ロルフは左手に持ったカイトシールドの上部を、右手の人差し指ですっと撫でた。濡れた金属の冷たく硬い感触が伝わってくる。これを早く使いたいという気持ちは薄れていない。だがそれに逸って失敗しては元も子もないのだ。ロルフは大きく息を吐いて、身体に溜まった熱を押し流した。
「さあ、行くぞ」
小雨がまだ降りしきる中、ロルフ達はベリメースに向かい出発した。この選択が吉と出るか凶と出るか、ロルフ達にはまだ判らなかった。
暫くは何事もなく、進んだ。
道は相変わらずぬかるんでいた。所々大きな水溜まりになっており、通る度に水が跳ねる音が響いた。だが通れないような場所は無い。馬車を引くセルホも、昨日に比べれば調子が良さそうだ。
ロルフも最大限の警戒をしているが、魔物の姿は見掛けない。その気配も感じられなかった。
昨日戻ろうとしたのが愚かな選択肢に思えるくらいに、道中は何の問題もなかった。
途中、水没していたのか、随分と地面がぬかるんでいた場所があったが、幸いな事にその前に来たときには何とか通れるような状態になっていた。とは云っても、一応は念を押して全員が馬車から降り、近くの木に縛り付けた縄で身体を固定する。そして馬や客車の方にもその縄を縛り付け、引っ張るようにして慎重に馬車を進めていく。残念な事に迂回できるような道は無かった。もしもその場所が通れなかったら、かなり手こずっただろうが、幸いな事に何とかそこも通過する事が出来た。セルホがかなり体力を消費してしまったが、積み荷も無事だ。
道も暫くは普通に通れそうだ。
そんな事を思いつつ、ロルフは顔を上げた。セルホを無事通すのに、それなりに体力を使ってしまっていた。微かに息が弾んでいる。それはカストやマウリも似たようなものだ。尤も一番消耗が激しいのはセルホかも知れない。余り馬に詳しくないロルフでも判るほどに消耗しているように見える。カストも心配そうな表情を浮かべ、そんなセルホに水をやっている。
ロルフも持ってきた水筒を呷り、水分を補給する。水魔石と呼ばれる魔具で補給されたばかりの水は冷たく、旨い。喉を通っていく水の感触が心地よくロルフは一息ついた。
「…………?」
そんなロルフの感知野に何か違和感が捉えられた。
ちらりと視線を向ければ、一瞬遅れてセルホの耳がぱたぱたと動く。そして飲んでいた桶から顔を上げると、セルホは道の先へじっと視線を向けた。異常を察知したカストとマウリの顔に緊張が走る。
やがて、道の奥から魔物の姿が現れた。数は三体。醜悪な獣の顔をした二足歩行の魔物だ。体表は分厚い体毛に覆われており、身長はヒューマンの子供ほど。手には棍棒のような武器を持っている。
獣鬼などと呼ばれている魔物で、こいつらはその中でも下級のものだ。防具は装備していない。
「ぴぃぃぃ――――ッ!」
甲高い鳴き声を上げて、獣鬼が駆けてくる。それと同時にマウリが駆けた。【急襲】のスキルに恥じぬ、駿足。かなりあった距離をみるみる縮めていく。ロルフは一瞬迷った。カストと馬を守るために此処に残るべきではないか。そんな考えが頭に浮かんだからだ。
だが辺りに敵の気配は無い。そして何より敵を通して馬をやられてはおしまいだ。
ロルフも左手に持ったカイトシールドを構えつつ、前へと出た。此処までは前もって決めておいたのと大きく違わない。
「しゃっ!」
一匹だけ向かってきた獣鬼が手に持った棍棒を叩き付けてくる。左手に持ったカイトシールドでそれを真っ向から受け止める。そしてそのまま弾き返す。獣鬼が万歳をするように棍棒の持った手を上へと掲げ、体勢を崩す。そして後ろへ二歩三歩とよろけていった。
追撃すべきか、ロルフは逡巡した。現状の装備で、ロルフが獣鬼に止めを刺すような事は難しい。ナイフ程度はあるが、それも上手く使えるかは正直心許ない。
焦りにも似た感情がロルフの胸を占める。だが迷っている暇はない。ロルフは前へと出た。まだよろけている獣鬼に向かって盾による追撃を浴びせる。
「んぐぅっ!」
体勢が崩れていたところをシールドバッシュの追撃を受けた獣鬼は為す術もなく倒れる。勢い余ってくるくると後ろへ転がっていく。そこを一匹目を片付けたマウリは逃さなかった。強力な踏み付けで獣鬼の首をへし折る。獣鬼はあっさりと血を吐き、息絶えた。
残るは一匹。
一対一でもさして苦労する事はない相手だ。数の有利もある以上、手こずるような事はなかった。
だが、倒してそれで良しという訳にもいかない。
魔物の血は、他の魔物を呼び寄せる。それは経験的に知られている事だった。特にカラトの樹海などのような場所なら尚更だ。
急いでこの場所を離れなくてはいけない。一応、カストが聖水などを撒いて、魔物が集まってくるのを防ぐ作業を行う。そしてマウリとロルフが馬車へと乗ると、すぐさまカストはセルホを駆って出発した。だが――。
「……マジかよ」
小雨が降りしきる中、カストが漏らした悪態が辺りに響いた。
ロルフも思わず奥歯を噛み締め、前を見詰めた。泥でぬかるんだ道を、幾つもの倒木が塞いでいた。