第三話 アクシデント
その日の夕刻、ロルフたちは最初の休憩所に辿り着いた。
とは言っても、特別な何かがある訳でもない。小屋と、入り口にあったのと同じ石柱型の魔具があるだけだ。小屋も雨は凌げるが、それだけだ。床は硬く冷たい。その上に狭い。そこに無理して三人が寝るよりは、普通に地面の上で野営した方が快適だろうという事で、ロルフたちはその準備を始める事になった。
魔除けの水を地面に撒き、そこに天幕を張る。それほど慣れてはいないが、ロルフも養父に何度かやらされた事がある。その甲斐もあって危なげなく天幕の設置をやり終えた。その横ではカストがロルフよりも慣れた調子で野営の準備を進めていた。意外だったのは、マウリだ。彼も自らの荷物から天幕を取り出すと、手際よく野営の準備を進めていった。
結局、さほどの時間も掛からずに野営の準備は完了した。
そしてその頃になると、辺りは大分暗くなっていた。今までロルフが暮らしていたトーレとは、闇の深さが違う。そして緑が多いせいか、空気がひんやりと冷たい。ほんの少し離れると、そこに何があるのか見通せなくなる。ましてや森の中など尚更だ。得体の知れない化け物が木の陰に潜んでいる。ふとした拍子に、そんな感覚に捕らわれてしまいそうな気さえする。
野営の準備が終わり、簡単に魔除けの結界も張った。
そこでロルフたち三人は夕食を取りながら、明日からの予定を話し合った。
夕食の献立は燻製肉とスープだ。粉を湯に入れて掻き混ぜる事で簡単に食べられる料理で、保存食としては広く利用されている。様々な味付けがあり、値段も様々だ。だが当然、街で食べるものには及ばない。あくまで保存食なので味自体が素っ気ないのだ。無論、野外でも旨い料理を作れる人間も存在しているが、ロルフたち三人の中にそのようなスキルを持っている人間は存在しなかった。
安全とは云えない場所にいる。そのような意識がある所為だろうか、保存食という事を差し引いても余り楽しい食事とは云えなかった。味気なく感じられ、少し食べただけでそれ以上食べる気が薄れてきた。
ロルフにとってはそんな食事だったが、他の二人は普通に食べている。献立は同じだ。ロルフは少し悔しいものを感じて、多少の無理をおして料理を口へと運ぶ。
マウリは判る。ある程度戦う術を持っている人間だ。ドラゴンと素手で戦う等という事を生涯の目標に掲げている程だ。覚悟も充分に出来ているだろう。
だがカストは違う。
只の行商人だ。戦う術など無い。その気になれば、ロルフにだって、マウリにだって、あっさりと殺される。そうでなくても魔物に襲われたら、きっと自分のみを守る事すら出来ない。
――命を懸けなくちゃいけない時なんて有り触れてるだろ?
ロルフの脳裏に、出発前にカストが告げた言葉が思い浮かぶ。
かつてのロルフならば、あのゴミ溜めにいたロルフならば、当然の如く首肯した、首肯できた筈だ。だが今のロルフは、そのカストの言葉に彼ほど確信を以て頷くことは出来そうにない。
見習うべきなのか。それとも見習うべきではないのか。
今のロルフは、その問いにもはっきりと答えられない。だが覚えておくべきなのだろう。養父であり師でもあるボリスがよく言っていた。戦う者だけが強い訳じゃない。
これは多分そういう事なのだ。
そんなカストは地面に地図を広げて、何やら考えている。
「どうかしたか?」
もう既に食べ終わっていたマウリが声を掛ける。ロルフは味わっている振りをして、余り旨くも感じられないスープを啜っていた。
「ん? ああ、一応は道の確認をな。此処からの道は今までよりも襲撃を受ける可能性は高い」
「相手は?」
「最下級の獣鬼だ。だが群れで来ると厄介だ」
そう言うとカストは一瞬考え込んだ後、ちらりとロルフの方を見た。
それだけでロルフには大体カストの思考が想像が付いた。ロルフの【挑発】スキルは1だ。もしこれが3、せめて2になっていたら、群れがやってきても馬が狙われる可能性は大分減らせただろう。
ロルフは謝るのも違う気がして押し黙った。カストもその事を話題に出そうとはしなかった。
その後、いざという時の連携などについて話し合い、その場はお開きという事になった。交代で見張りを立てはしなかった。【夜襲警戒】などのスキル持ちがいれば別だが、そうでないのならば、夜襲に一番先に気が付くのは馬であるセルホだ。そしてセルホならば、異常を察知すれば鳴いて知らせてくれる。人間が無理に警戒するよりもずっと確かだ。
ロルフは天幕に引っ込み、寝っ転がった。何時もと違う布製の天井が視界に映る。寝心地は悪くない。背中に感じる柔らかな感触は、自室の寝台よりも心地よい程だ。このような寝具に限らず、この大陸で旅道具はかなり発展している。保存食や飲料水、便所などに至るまで、旅先でもほぼ不自由なく用意できる。
だがそれにも関わらず旅をする人間は余りいない。
それはひとえに危険があるからだ。魔物の危険、山賊の危険、道が急に変化している危険。旅には様々な危険がつきまとい、それを完全に無くす事は出来ない。
ロルフもその事は重々判っていた。そして旅の経験も、少ないながらも無い訳ではなかった。だが、思ったよりも疲れていた。これは体力よりも、精神的なものだろう。なにせ殆どの時間を馬車の客車で座っていたのだ。疲れる訳もない。
だが何時来るのか判らない魔物や、馬車の揺れ。そしてそれと同じくらい、初対面の人間と旅をするという事に精神的な疲れを感じていた。
ロルフは、人が傍にいるという事自体に慣れていないのだ。見知らぬ人間と、命の危険があるような旅をする。それは今まで閉じた人間関係しか構築してこなかったロルフにとっては、少し敷居の高い行為だった。
ロルフは瞳を閉じた。慣れない環境で寝付けるか不安だったが、思ったよりも疲れていたのか、すぐに睡魔が襲ってきた。ロルフは吸い込まれるように眠りに落ちた。夢を見るような事はなかった。
叩き付けるような雨音でロルフは目を覚ました。
天幕はそれなりに頑丈に作られている。雨漏りがするような事はないが、地面がぬかるんでしまえば入り口から泥水が入り込んでしまうかも知れない。ロルフは雨に濡れてもよいように荷物を手早く纏めると、予定外の事態にどう対処するのか訊ねるために外へと出た。
本来なら夜が白み始めているような時刻の筈だ。まだ身体の疲れは取れていない。動かす度に微かに重みを感じる。頭の奥に靄が掛かったような鈍さ。
ロルフが雨合羽を着込み外へと出ると、痛いほどの雨がロルフの頭上から降り注いでいる。辺りを見回せば、地面のあちこちで水の通り道が出来ている。セルホは雨に濡れながら、立ち尽くしている。その瞳が微かに不安そうに見えるのは、ロルフの気のせいだろうか。
夜の闇の中でもセルホが敵を察知できるのは、その鋭敏な感覚器官によるものだ。この雨の中ではそれも満足に働かす事が出来ない。それはセルホにとっても、そしてロルフたちにとっても心細い事に違いなかった。
ロルフは微かに見える灯りに向かって、歩を進める。水でぬかるんだ地面の感触が靴底から伝わり、叩き付ける雨音に混じって水たまりを踏み付ける音が耳に届く。
灯りがついていた天幕は、カストのものだった。入り口から微かにロルフが顔を覗かせると、カストも顔を上げてロルフを見た。ロルフの顔を認めると、難しい顔をして無言で指を外へと向けた。どうやら外で、と云うよりは休憩所で話そうという事らしい。ロルフは一つ頷くと踵を返し、休憩所まで向かった。
簡単な作りの小屋だと思っていたが、休憩所の中に入ると雨音も随分と遠くなった気がしてくる。ロルフは軽く息を吐いて、雨合羽を脱いだ。そして服から、軽く水を払う。そんな事をしているとカストもその姿を見せた。
「少し不味い事になったな」
「というと?」
ロルフが水を向けると、カストは難しい顔をしたまま話し始める。
「これだけの雨が降っていると、セルホの索敵能力は随分と落ちる。それに魔物の移動がどうなるのか読み切れない所がある」
「だが索敵能力が落ちるのは相手も同じなのでは?」
そんなロルフの問いに、カストは首を左右に振る。
「確かにそれはそうだが、そもそも向こうは此方が移動する道順は知っている訳だ。それほどの知能は無くてもその程度は覚えていてもおかしくない。差し引きで考えりゃこっちが不利なのは変わらない」
「じゃあ戻るのか?」
来た道を戻るという選択肢は、出来るだけ取りたくなかった。だがそうも言ってられない事態ならば、致し方ない。そこら辺の判断は正直今のロルフには難しかった。
だが、カストは難しい顔を崩さない。
「……それもな。やりたくないというのもそうだが、此処を見てみろ」
そう言ってカストは持ってきた地図の一部を指差した。
「此処は雨が降ると良く決壊して、一時的に今までやってきた道を塞いでしまう。勿論、決壊していない可能性に懸ける事も出来るが……」
何か問題があるのかと訊ねるロルフに、カストは一つ頷く。
「もし来た道を戻ってそれが駄目だった場合、再び此処へ戻って先へ進むしかない。だが時間をおけばこの先の道の状況は悪くなっているだろうし、魔物に襲われる可能性もそれだけ増える」
「――じゃあどうする?」
その時、入り口から声がした。マウリだ。灰色の雨合羽を着込んでいる。
天幕に灯りはついていなかった筈だが、やはりマウリも目を覚ましていたのだろう。
「……正直言えば、迷っている。だが俺は少し無理してでも先へ進みたい」
「…………」
マウリはカストの考えを見透かすようにして見詰める。それはロルフも似たようなものだ。
旅立つ時のカストの事を考えれば、その判断に偏りがないとは云えないだろう。
「我は戻るべきだと思う。このまま先へ進むのは危険。安全な場所へ戻れる選択肢から選んでいくのが常道」
この場にとどまるのは、悪手だ。
このような領域で、一所にとどまる場合はそれ相応の準備が要る。昨日行った簡易の結界もそのようなものだが、それも雨で流されもう効果を無くしている筈だ。とどまればとどまるだけ、此処で魔物に襲われる可能性は高くなる。
ならば、選択肢は二つに一つ。進むか、引くか。
決断を求めるように、カストとマウリがロルフの方へ視線を向けてくる。
ロルフは自らの意見を決める前に幾つか確認しておく事にした。
その結果判ったのは次のような事だった。
まず帰りの道が塞がっているとしたら、此処から半日程度戻ったところだと云う事。
一度戻って様子を確認して、駄目だったら先へ進むという事は可能だが、このまますぐに進むよりも様々な面で難しくなるだろうという事。
それ以上の事は、現状では何とも言えないと云うこと。
結局の所、大した事は判らなかった。だがそれでもどうするかを決めなくてはいけない。このまま此処にいるのが悪手ならば、どちらが正しいのか判らなくても決断しなくてはいけないのだ。
ロルフは幾ばくかの沈思黙考の後、決断を下した。
「――戻ろう」
現状では無理をして先を急ぐ理由は少ない。行き帰りを合わせても一日程度で安全に帰れる選択肢があるのなら、まずそこから先に試してみるべきだというマウリの言葉は、ロルフには尤もに思えた。そこには状況が切羽詰まっているカストが公平な判断を下せているのかという潜在的な不信感があったのかも知れない。だが兎も角、ロルフは決断を下した。
「……まあ、仕方ねぇな」
「うん、じゃあ急ごう」
それぞれ内心は違うだろうが、二人ともロルフの意見に反論する事はなかった。
二対一。
多数決で結果が出たのだ。それに従うのが一番問題がないと思ったのだろう。本来ならカストが決定権を持っている筈だが、実際の戦力を担っているのは客であるマウリとロルフだ。ロルフたち二人の意見を無視する事はカストも出来なかったのだ。
ロルフたちは馬車に乗り、来た道をそのまま戻っていく。
上からの雨は布製の天幕が弾いていたが、視界の確保もあって横は何も備えられていない。横殴りの雨が客席の中にも入ってくる。
そんな中、馬車は進んでいく。雨音が五月蠅く耳障りだ。ロルフの体力も徐々に奪われて云っているような気がする。
ふぅ、とロルフは重い息を吐いた。手に持ったカイトシールドを握り締め、力を入れ直す。例え無駄かも知れなくても、辺りに対する警戒も怠る事は出来ない。時間はあっという間に過ぎていった。
やがて、問題の箇所が近付いてきた。
辺りの地面には幾つもの水の筋が出来ている。セルホが怯えるように蹈鞴を踏み、カストがそれを宥める。マウリの只でさえ小さな瞳が厳しく細められ、ロルフは余りの事態に驚きの声も出なかった。
視線の先には、茶色に濁った激流があった。一日前に何の問題もなく通れた筈の道を横切るように、凄まじい勢いで水が流れている。荒れ狂う水の流れは容易く木々を薙ぎ倒し、森の中に強引に川を作っていた。
ごくりと、誰かが唾を飲み込む音が聞こえた気がした。