第二話 出発
結局、ロルフは男の乗合馬車に同乗する事に決めた。
理由は幾つかある。
次の乗合馬車が何時になるのか判らなかった。マウリという戦力がいる分だけ今の状況はましだった。待っていたところで、状況がよくなる保証など何処にも無かった。現在ある人員でもベリメースへの旅路が無謀とは云えなかった。
どうせほんの偶然で、人など簡単に死ぬのだ。考えすぎても仕方ない。そんな諦観にも似た割り切りが、ロルフの行動選択の根底にあったのも確かだ。
此処からベリメースまでは、御者の男――カスト・アレッシというらしい――の馬車で、大体三日程度の旅程になる。
カストは、現在準備を整えている。そんなカストの背に、マウリが不思議そうに声を掛けた。
「しかし、乗合馬車はこのような頻度でしか出ないのな。これでは流通として……大丈夫?」
「あー、ベリメースとの流通を担っているのはもっと大御所だ。うちらみたいな零細なんぞいてもいなくても殆ど関係ない。道だって違うしな」
どうやらマウリは、それ程ここら辺の事情に明るくないらしい。カストの言葉だけでは理解しきれず小首を傾げているマウリに対し、ロルフは補足を試みる。
つまり、コトールとベリメースの物流の主流を担っているのは此処トーレより北にあるウヨトックから伸びる道で、此処ではない。そこは騎竜なども通る事や保安上の理由もあり、利用するのにも審査がいる。更には道中には比較的狡猾な類の魔物が存在しており、騎竜などある程度の威圧が放てる存在ならば問題ないのだが、弱い存在は容赦なく狙われる。
結果として、零細の商人や駆け出しの冒険者がベリメースに行こうというのなら、トーレなどから伸びる道を利用するのが賢い選択肢となる。
「なるほど」
そのような事をロルフが説明すると、マウリはこくこくと頷いた。
「つーわけで、俺たちは多少の危険を甘受してでもこんな道を行くしかない訳だ」
「危険なのか?」
マウリが小首を傾げる。
「ウヨトックから伸びる道は比較的手も行き届いているし、そういった場所を選んでいるから想定外の事は少ないが……他の道は多かれ少なかれ似たようなもんだ。運が悪けりゃ――事故が起きる」
その言葉に、ロルフはごくりと唾を飲み込んだ。
話には聞いたことがあった。トーレからベリメースへの道は、何の問題もなければ比較的安全だが、時折かなり高位な魔物が出没しているのが確認されている、と。
今のロルフと、マウリとカスト。
この三人ではどう足掻いても勝ち目がないような位階の存在だ。出会わないように祈るしかない。
「それじゃあそろそろ出発するか」
荷物の確認を終えたカストが口を開く。そしてロルフとマウリに向かって乗るなら早くしろと告げた。
一頭立ての簡素な馬車だ。御者席と荷台は殆ど一緒になっており、天井部はベージュの布で覆われていた。御者席に程近い部分には商品を入れてあるであろう備え付けの鍵付きの箱があり、その後ろには乗員用の席がある。
二人が乗ると、馬車はゆっくりとしたペースで走り始めた。乗り心地は思ったよりも悪くない。上方向は覆われているが、横方向は特に何もない為、柔らかな風がロルフの頬を打つ。
天気は晴れており、日差しは強い。だが暑くはないのは、森と海が近いからか。遠くからロルフが慣れ親しんだ磯の香りが運ばれてきている。それが馬車が進むにつれて、徐々に濃い緑の香りに移り変わっていく。
カラトの樹海。
そう名付けられた森林地帯は、この大陸にある森林地帯としては第二の規模であり、この大陸にやってきた人類が最初に発見した秘境でもある。その一部分は切り開かれ、人の手が入っている。だがかなりの部分は未知のまま残っており、発見されたもののまだ充分に探索されていない遺跡なども多い。
そんなカラトの樹海にあって、最も人口が密集しているといえるのが、迷宮都市ベリメースだ。
そんなベリメースに続く道の入り口。其処には背の低い石柱型の魔具が入り口の横に置いてあるだけの、非常に簡単なものだった。出入りを監視している人間すらいない。道の幅は大体馬車が一台通る程度。その横に人が一人か二人は歩けるだろうか、といった感じだ。道は均されているが、舗装はされていない。少し前に降った雨の所為だろう、微かに柔らかくなっているようだった。
御者であるカストが降りて、入り口の横にあった魔具を操作する。
一見、石柱を胸元辺りで斜めに斬り裂いた石碑か何かのようだが、その内実は入出を記録しておく為の魔具だ。御者がこれを操作し、乗る人間が続けて冒険者カードなどを近づけ魔力を込める事で、どの御者が誰をいつ運んだかを記録する事が出来る。
この仕組みは珍しいものではない。ロルフも何度かやった事がある。それほど難しいものでも、時間が掛かるものでもない。登録はすぐに終了した。
「ちょっといいか?」
そんな手続きを終えたロルフに、カストが話しかけてきた。
「なんだ?」
疑問を抱きながらもロルフが振り向くと、カストが手にカードを持っている事に気が付いた。そこでロルフは得心する。
「まあ一応な」
そう言ってカストは自らの冒険者カードを提示した。これは時折行われる習慣だ。つまり自らの立場の証明のようなもので、冒険者カードを示す事で、面倒な揉め事を避ける事が出来る。
カストの冒険者カードは、大体前もって本人から告げられていた通りだった。
名:カスト・アレッシ
位階:1
【交渉1】【馴致1】【魔具操作1】
危険な場所でも馬などの騎獣をしっかり制御するために必要なスキルである【馴致】。
そして入出の管理などの為の魔具を操作するスキルである【魔具操作】。
これらはカストのような行商人にとっては必須だ。後は会話において相手の嘘などを見破ったりする為のスキルである【交渉】。
ロルフのスキル構成ともマウリのスキル構成とも違うが、商人としては基本的なものだ。
「ガーネラ神の御加護があらん事を」
カストが道の入り口付近に酒をばらまき、黙礼する。その態度は普段の少し軽いものとは比べものにならない程に、真摯なものだった。旅の安全とふとした幸運を司ると言われているガーネラ神は、カストのような行商人が信仰するには最も代表的な神だ。ロルフはカストほど真剣に祈る気にはなれなかったが、それでも倣うようにして黙礼した。目を閉じる瞬間、同じように黙礼をしているマウリの姿が映った。
「よしっ! じゃあ行くか」
カストが気合いを入れるようにして、宣言する。ロルフもマウリもそれに頷き、それぞれ馬車へと搭乗した。
皆がそれぞれ馬車へと乗り、カストが軽く鞭を入れると馬――セルホという名らしい――はゆっくりとしたペースで走り始めた。
ロルフは座席に腰を下ろし、前方を眺め遣った。何処までも続くような緑の海に、ぽっかりと穴が開いている。別段不吉な感じはしない。それどころか微かに木漏れ日が射しているその道は、穏やかで牧歌的な雰囲気に包まれているようにロルフの目に映った。だがそれでもなお、その道は得体の知れぬ化け物の顎であり、ロルフを得体の知れぬ何処かへ誘っているのだ。そんな妄想を、ロルフは完全に振り払う事が出来なかった。
「…………」
御者をしているカストの肩が、馬車が道へ入る瞬間ぴくりと震える。押し殺した緊張の発露だとロルフには判った。なにせ、それはロルフも似たようなものだった。
森の中に入ると、途端に光量が少なくなる。視界が木々に遮られ、目の届かない場所が増えてくる。濃厚な土と葉の香りが鼻腔を刺激し、馬蹄が地面を叩く音が規則正しく響く。
此処は、化外の地だ。
ロルフがそんな意を強くした。
「予定では、今日の夜までに最初の休憩所に着く。まあそこまでは、比較的安全な筈だ」
前を向いたまま、カストが口を開く。その視線は前を向いているが、ロルフの緊張を察したのかも知れない。実際、その声には緊張こそ窺えるが、必要以上に硬くなってはいない。
「カストは、こんな感じの仕事、何回した?」
そんなカストに対し、マウリが問いを掛ける。それはロルフが抱いたのと同じような疑問だった。
「……今回で三回目だ。今回が終われば、後二回で目標額が貯まる。そしたら位階を上げてスキルでも習うさ」
思ったよりも少ないな。それがロルフの正直な感想だった。まあ、カストの位階が1だった事を考えると妥当なのかも知れない。
この大陸で使われている通貨であるラクマは、魔素と等価である。つまりラクマを使って位階を上げる事が出来るし、溜め込んだ魔素をラクマに変える事も出来る。
そして魔素というのは、魔物の殺害の現場や異界などに居る事によって自然と体内に溜まっていく。それだけならば問題ないのだが、下手に魔素を吸収しすぎると、その魔素を持て余し様々な不具合が出てくる。
結果として、普段は魔素を身体に出来るだけ吸収しないようにして別の場所に溜めておく。そしてそれが一定量になったら安全な場所で位階を上げる作業に入る、という人間は珍しくない。特にカストのように、スキルに精密な魔力操作が必要な職ならば尚更だ。
馬車は調子よく駆けていく。ロルフも一応は辺りを警戒しているが、その必要もないと思えるくらいに辺りは穏やかだ。良いことだ、とロルフは思う。幾ばくかの路銀とカイトシールド。その他にロルフが持っているものといえば、旅の必需品である諸々ぐらいしか無い。武装という点では非常に心許ない。
ベリメースに着いたら、何を買おうか。そもそもどんな場所なのだろうか。
そんな事を考えながら、ロルフは流れゆく景色に目をやっていた。横目で見遣れば、マウリも似たような感じだ。ロルフの対面に座り、ぼんやりと前を向いている。何を考えているのかはロルフにはよく判らなかった。ただ尻尾が時折機嫌を反映しているかのように動いている。その動きからして、それほど機嫌は悪くないように見えた。
なにせロルフは、本格的な旅は初めてだった。不安は当然ある。根掘り葉掘り、様々な事を尋ねたい気持ちもあった。だがこの十年でロルフの中に育まれてきた劣等感が、自らの無知と無力をさらけ出して他者に頼る事を良しとしなかった。
ロルフはマウリの方へと顔を向けた。マウリはそんなロルフを全く気にしていない。ロルフの中に躊躇にも似た感情が生まれる。先程まで普通に話していたのに、一旦それが途切れてしまった後だと、それを再開させるのには随分と思い切りが必要になる。少なくともロルフにとってはそうだった。
だがロルフは冒険者としてこれからやっていくのだ。こんな事で躊躇していられない。ロルフは言葉の選び方を計算し、会話の内容と雰囲気の予測を頭の中で繰り返し、更に幾ばくかの逡巡の後、意を決してマウリに声を掛けた。
小気味よく響く馬蹄が地面を叩く音。馬車が風を切る音。そして葉擦れの音。
そんな平静な雰囲気の中、ロルフの声が吸い込まれるように周囲に届いていく。
「ん?」
だが当然の如く何が起こる訳でもない。マウリは「何か用か?」といった感じで、ロルフの方へと顔を向けた。当然話題の持って行き方は考えてあった。旅についての質問は、まだ早い。舐められる恐れがある。多分そんな事は無いだろうが、先程の想定の中でロルフはそう結論を出していた。
なので当たり障りがなく、気になっていた事を尋ねてみる。
「さっきはガーネラ神に祈りを捧げていたみたいだが……」
リザードマンの習俗についてはよく知らないが、独自の文化を持っているとロルフは聞いた事があった。その内の一つが、ドラゴンを崇拝の対象としているユルの徒だ。本人の言によれば、マウリはユルの徒については複雑な感情を抱いているようだが、そこら辺の感情はどうなのだろうか? もしかしたらこの後も組む事があるかも知れないので、そこら辺は是非とも聞いておきたかった。
「別にそこら辺を深くは気にしないぞ?」
だがマウリの返答は、ロルフが思っていたよりも更にざっくばらんなものだった。
「そうなのか?」
御者を続けていたカストが肩越しに振り返り、口を挟む。マウリは「うん」と一つ頷くと、リザードマンについての習俗についてややたどたどしい口調で話し始めた。
結局の所、リザードマンの社会は部族社会だ。
家族が集まり、氏族を形成し、それらが集まり部族となる。だがマウリのようにそこから外へ行く存在もまた多い。その行き先は様々だが、亜人の扱いなどの関係でコトールへ行くリザードマンはそれなりに存在し、そのリザードマンが故郷に帰り得た知識を伝えるという事も行われている。
そんな中で習俗に関しても、コトールのものがかなり流れ込んでいるようだ。そしてそもそもリザードマンの習俗はそれを受け入れる土壌があった。換言してしまえば、余り細かい事は気にしなかった。
そこら辺は、ロルフの姿勢とかなり近いように思える。
「神様、みんな違って、みんな良い」
マウリは最後にそう纏めた。