第一話 リザードマンの男
ロルフが暮らしていた場所は、コトールの外れ、カラトの樹海と程近い場所にある沿岸都市――トーレだった。
この世界では基本的に遠洋に出る技術は存在しない。いや、技術は存在しているが様々な要因でそれが阻まれているというべきか。
だが、近海についてはある程度安全に船を出す事が出来る場所もあった。
トーレはそんな漁場に恵まれた都市の一つで、漁業とカラトの樹海との交易を産業の中心としている中堅都市だ。
そんなトーレにいたままでは、冒険者としてロルフが望むような成長は叶わない。
何故なら冒険者として実力を付けるには、まず何よりも位階を高める必要があるからだ。
魔素と呼ばれるものをその身に吸収する事で、位階は高められる。逆に言ってしまえば、位階の高さとはどの程度その身に魔素を吸収したのかを表す指標のようなものだ。
これがある程度無くては、そもそも上を目指す為の前提条件すら満たす事が出来ない。
そして魔素を吸収するには幾つか手段があるが、魔物を殺す事が最も手っ取り早い。
当然の如く、その為に必要なのが魔物を自由に狩れる場所だが、そんな都合の良い場所はトーレには存在しない。
大抵の狩り場の許容量は有限なのだ。トーレにある狩り場は全てぎちぎちの利害関係の中にある。フェーラン流の道場もそれを利用できる権限を有していたが、当然門下生の一人がその権限を行使すれば他の人間はその分だけ割を食う。ロルフが利用しようなど、問題外だった。
名:ロルフ・ヴァーデン。
位階:2
【盾習熟3】【危機感知3】【不動2】【挑発1】【フェーラン流剣闘術2】
ロルフは迷宮都市への乗合馬車を待ちながら、自らの能力が示されたカードへと視線を落とす。
俗に冒険者カードなどと呼ばれているが、それは別に冒険者でなくとも取る事が出来る。要は取った資格の一覧表のようなものだ。冒険者ギルド認定の資格の内、どれを取ったかが一目で判るようになっている。それと簡単な計測で判る位階を表示する事で、その人間がどのような種類の人間なのかが浮かび上がってくる。
元々は人材を定量的に評価するために生まれた手法だ。
大陸入植の黎明期。
まだ戦士や魔術師などという区別もなく、魔物を倒すと『力』を得る事が出来る。そう経験的に知られていただけの時代。
魔物への対抗手段は生存に直結した。
その為に人類が選んだのが、定量化と類型化、そして専門化。
似たものを定義し、洗練させ、定量する。そうする事でいざという時のための穴埋めを容易にし、戦力の組み合わせもやりやすくなる。
そういった視点でロルフの能力を測れば、まあ戦う者としてのとば口には立っている、と云ったところだろう。
特に、盾の扱いと危機感知については一人前と云っても過言ではない。反面、武器に関するスキルは殆ど存在せず決定力に欠ける。また生産系などについての能力も存在しない。
典型的な盾役だ。ロルフの資質がどこに向いているのかは、一目瞭然だ。
それはロルフの養父であるボリスにも判っていた。だからこそロルフに大盾を手渡した。
尤もこれからどのようにロルフが自身を成長させていくは、これからのロルフ自身の選択に掛かっている。
ロルフは冒険者カードの無味乾燥な文字列を眺めながら、これからの自分の進むべき道について思考を巡らした。
……ん?
どれだけ時間が経ったのか、表から諍いの声が聞こえてくる。
ロルフは見るともなく見ていた冒険者カードから視線を上げ、表口の方へと視線を向けた。
ロルフが今いるのは、乗合馬車の待ち合わせ場所だ。粗末な木造の小屋のような所で、内装は最低限。中には木のベンチが壁際に並べられているだけだ。ロルフはその中の一つに腰を掛けていた。
ベリメースまでの道のりは、決して安全ではない。アルネシアへ抜ける道ほどでは無いが、中途で魔物に襲われる可能性は充分にある。だからこそ、金も充分な武力もない人間は寄り集まってベリメースまでの道を進む。その代表的な仕組みが乗合馬車だ。今はまだ金も、そして充分な武力もない人間に分類されるロルフも、その乗合馬車を利用しようとしてこの場で人数が集まるのを待っていた訳だが……。
「いい加減にしろっ!」
表から聞こえてきたのは、そんな声だった。まだ若い男のものだ。そうとは云っても成人はしているように思えた。恐らくロルフよりも上の年代の人間だろう。
気になったロルフが表に出ると、何人かの冒険者風の男と一人のリザードマンが対峙しているのが視界に入ってきた。どうも険悪な雰囲気だ。先程の声を上げた者だろう、冒険者風の男は興奮した様子でリザードマンを睨み付けている。男の仲間らしき者も、大なり小なり似たようなものだ。リザードマンの方へと味方をしようという者はいなさそうだった。
「お前がそのくそったれな酔狂に命を懸けるのは勝手だがな! それに付き合わされるこっちの身にもなってみろっ! 今日なんて一歩間違えれば死ぬところだったんだぞっ!!」
「何を言われても、我はこの道を違える気はない」
「防具も着ねぇ。武器も持たねぇ。秘薬を使った攪乱も、罠を使っての待ち伏せもする気がねぇだと。……舐めてんのかっ」
押し殺した声。リザードマンの男を見るその瞳は、殺気にも似たものが混じり始めていた。
「舐めているつもりなど無い。だけど、変えるつもりも無い。そもそもその件については最初に重々念を押した」
返すリザードマンの言葉は平静だった。だがロルフの観察眼には、リザードマンが攻撃に備えて微かに重心を移動させた事が判った。
ちらりと視線を滑らせれば、視界の端に困った顔をした御者の姿が映る。揉め事など勘弁して欲しいとその顔が語っていた。やがて、助けを求めてあちこちへと向けられていた御者の男の視線が、傍観者のようにして突っ立っていたロルフを捉える。
御者の男はロルフに何を見たのか、そそくさと意外に素速い動きでロルフの元へと近付いてきた。
「なあ、あんた……あんたもベリメースに用があるんだろ?」
否定しようもない。
ロルフは頷く。
「なら、揉め事は困るはずだぜ? 此処で刃傷沙汰にでもなれば、当然警邏がやって来る。取り調べの為にどれだけ時間が掛かるか判ったものじゃねぇ」
それは困る。
あれだけ大見得切って出てきたのだ。このまま家へとんぼ返りなど、ばつが悪いにも程がある。
「なに、それほど難しい事じゃねぇ。ちょっと仲裁して冷静にさせてやりゃいいのさ。幸運にも立派な盾を持ってるじゃねぇか。この手のことには最善だ。きっとガーネラ神のお導きだぜ」
ロルフの様子に意を強くしたのか、男は強引にロルフの背を押した。
無論、はっきりと拒絶すれば男は引いただろう。力を込めれば男を押し止める事は簡単だっただろう。
だがロルフは、そうはしなかった。
理由はよく判らない。
だがロルフが少し高揚していた事は確かだ。
鬱屈したあの環境から抜け出せた。今日から新たな自分が始まるのだ。
今まで感じていた引け目のようなものが無くなり、新たな挑戦の場へと向かうのは正に今。手には餞別として与えられた大盾。その重みが非常に心強い。どのように使えば良いのだろう。一刻も早く試してみたくてたまらない。
端的に言ってしまえば、ロルフは少し調子に乗っていた。
「なんだ、てめぇ」
突如現れた闖入者に、誰何の声が向けられる。その声音は当然の如く友好的なものではない。
ロルフは表向きは静かな目線で冒険者の男を見遣る。そして何とか落ち着くように、ぎこちない言葉で仲裁を試みた。その手際は、ロルフを仲裁へと向かわせた御者の男が目を丸くする位には拙かった。
なにせロルフは他人の仲裁などした事がない。それどころか仲裁される人間すら殆ど見た事がなかった。ロルフの今までの人生は、その殆どが修練に当てられており、ロルフはその事に対し疑問を抱いた事すら無い。
そんなロルフの周りには、閉じた人間関係しかなかった。特に他の門下生との仲が決定的に悪くなってからはそうだ。
いま目の前にいる男のように、対等な相手としてロルフを見てくる人間は殆ど居なかった。だからだろう、それが険悪なものであれ、ロルフを対等な存在として認め意識を向けてくる相手が、ロルフにはひどく新鮮だった。少し面映ゆいものすら感じるほどだ。
そんな態度の人間に諍いを仲裁されて、毒気を抜かれるか、それとも激高するか。それは人それぞれだろう。だが今回はどうやら悪い方に出たらしい。恐らくロルフが大盾以外に満足な武器を持っていなかった事も影響しただろう。
「邪魔だ! どけ!」
男の手が、これみよがしに剣の柄へと伸びる。
ロルフが緊張と共に、盾を掲げ、腰を落とす。空気が張り詰めていく。男の仲間は止めようとしているが、事ここに至っては半ば諦めているようだ。恐らく冒険者たちの実力は、今のロルフと大差ない。数の上では不利だが、男の仲間はそう簡単に手を出してこない筈。それにもし手を出してきたとしても、守りに徹すれば暫く時間を稼ぐ程度は可能だろう。後はほんの僅かな切っ掛けさえあれば……。
そんな緊迫した時間が幾ばくか流れた。
「ちっ!」
先に痺れを切らしたのは、相手の方だった。苦々しげに舌打ちすると、踵を返してその場から離れていく。仲間も慌てたようにそれに続いた。このまま此処で乱闘を始めても、警邏がやって来て捕まるだけで何の利益にも繋がらない事に気付いたのかも知れない。
結局、場に残されたのは、ロルフとリザードマンの男と御者の三人だけになった。
御者の男はほっとしたように一息つくが、その表情は相変わらず厳しい。
ここの乗合馬車の仕組みとしては、目的地に行きたい人間が揃った時点で出発する。この『揃った』という定義は様々だ。例えば熟練の冒険者が一人でもいれば、その時点で出発する事が出来るが、今のロルフのように駆け出しの冒険者では複数集まるまで待つ必要がある。
どうやらリザードマンの男も目的地はロルフと同じようだが、それだけではまだ戦力が不安なのだろう。決定権を持つ御者の男はまだ出発しようとはしなかった。
結果、ロルフとリザードマンの男は連れ立って待合い場所で待機する事になった。
「どうもありがとう。あのままではどうなっていたか判らない。非常に助かった」
席に腰を掛けると、リザードマンの男が頭を下げ、ロルフに話しかけてきた。マウリ・ハウッカと名乗ったそのリザードマンの男は、落ち着いた声をしており、ロルフの目には理知的な人物に映った。
そもそもリザードマンなどの亜人は微妙な立場に置かれている。此処コトールではある程度普通に見掛けるが、それでも差別の目は存在している。アルネシアなどの一部の都市では人間として認められていない所も多い。
コトールでそのような考えが薄いのは、紛れもなくカラトの樹海の影響だ。
リザードマンだけでなく種々の亜人が住むカラトの樹海。そして其処と友好的な関係を築かざるを得なかったコトール。
制度として亜人の権利が保障されているのも、ある意味当然だろう。
「ユルの徒を知っている?」
諍いの原因が何だったのかロルフが尋ねると、マウリの口から返ってきたのはそんな言葉だった。
ロルフは頷く。
その言葉は、確かにロルフの知識の中にあった。
「なら話は早い。彼らについて、どう思う?」
ロルフはそんなマウリの質問の意図を計りかね、沈黙する。
ユルの徒。
ユル――それはリザードマンの一部に伝わる宗教のようなものだ。ユルの徒とはそれに殉じる事を決めたリザードマンの一派を指す。
彼らは自らの上位の存在としてドラゴンを畏敬しており、自らの存在を高位に押し上げる事で、自らもドラゴンとなる事が出来ると考えている。
その為に身体を鍛え、知識を蓄え、武技を磨く。
彼らは優れた戦士だ。冒険者としても優秀だろう。もしもマウリがユルの徒だったとしても、それが諍いの原因になるとは思えない。
だが続けてマウリの口から告げられた言葉は、ロルフの予想から随分と外れたものだった。
「情けないと、思わないか?」
「……え?」
「我は拳士。この両の拳を以て敵を打ち破るもの」
そう言ってマウリは自らの拳を見せる。鍛え上げられ無数の拳ダコに覆われているその拳は、歪だが何処か美しくロルフの目に映った。それは無骨だが実用的な、職人の金槌のような美しさだ。
「武技を磨いた上に目指すものがドラゴン? あんな四本足になるために、一生を懸けて鍛え上げてきた武術を捨て去る? 馬鹿げてる! だからこそ、我が証明する! このリザードマンの体躯が、ドラゴン如きに引けを取る事は決して無いとっ!」
マウリの口調は熱を帯びていった。
ロルフはその熱についていけずに、思わず聞き返した。
「……つまり?」
「む、つまり……」
ロルフの言葉に少し冷静さを取り戻したマウリが、中空で暫し視線をさ迷わせると再び口を開いた。
「我があくまで鍛えたいのは、自らの肉体を使っての技術。武器や防具、そして罠に頼っていたのでは、いずれドラゴンと対峙する時に邪魔になる。それでは意味がない。冒険者として、自らを修練の場に置いている意味がない」
……色々な人間がいるものだ。
話を聞いたロルフが抱いた感想など、そのくらいのものだった。だが先程の冒険者の男には、そんなマウリの態度が仲間のために最善を尽くしていないように思えたのかも知れない。
その後暫く、ロルフはマウリと会話を交わす。冒険者カードも交換した。マウリはロルフより少し上の冒険者のようだ。
名:マウリ・ハウッカ
位階:3
【拳闘術3】【強打2】【危機感知2】【急襲3】【剄息1】。
スキルの構成としては、典型的な一撃離脱の攻撃役だ。ロルフのような盾役とは大分違う。
素速い踏み込みで敵の懐へ潜り込むスキルである【急襲】。
『力』を込めて通常よりも大きな破壊力を持った一撃を放つ【強打】。
ロルフの目には装備の有無がそれほど決定的なものになるようには思えなかった。どうせ迷宮都市に行ったら攻撃役などの仲間を探す必要があるのだ。彼を誘ってみても良いかも知れない。
ロルフがそんなことを考えていた時、表口からロルフたちを呼ぶ声がした。御者の男だ。あれから暫く時間は経ったが、新たにベリメースに行こうという人間はまだ現れていなかった。
現状では、ロルフとマウリと御者の男の三人で向かう事になる。
安全マージンを考えればもう少し余裕が欲しいという事なので、もう少し待ってみるという事で話はついた筈だった。
「出発したい」
だが前言を翻す内容を御者の男が宣言する。
マウリとロルフは思わず顔を見合わせた。
「これ以上、時間を掛ける訳にはいかねぇ」
「しかし俺たち二人だけで問題ないのか? そもそもそれで危険だと考えたからこそ待ったのでは?」
「此処からベリメースまでの道はそこまで危険という訳じゃない。普段の状態で運が悪くなければ、あんさんら二人で何とかなる程度だよ。だが最近少し様子がおかしいという話も聞いているんでな、余裕を持てればと思っただけだ」
「様子がおかしい? どんな風に?」
ロルフの問いに、御者の男は軽く肩を竦めた。
「はっきりとした事は知らねぇよ。どこそこで変なものを見たとか、そんなとりとめのない噂だ。一々取り合っていたら始まらないが、時折本当に何かある事もあるから油断できん」
ロルフはマウリの方へと視線を向けたが、マウリは首を左右に振った。何も知らないようだ。
「乗合馬車の出発時期を決めるのは御者。でも乗るかどうかは個人の判断。危険なのに、乗車を強制されるいわれはない」
マウリの言葉に、当然と云った感じで御者の男は頷く。
「別に無理して乗れなんて言わねぇさ。だが俺の方にも事情がある。これ以上、待つ訳にはいかねぇ。最悪お前さんらを置いてでも出発するつもりだ」
「護衛となる人間も無しに?」
マウリが問いを重ねる。御者の男は皮肉めいた笑みを見せた。
「命を懸けなくちゃいけない時なんて有り触れてるだろ? 駆け出しの冒険者が最初の冒険で魔物に襲われて命を落とす、なんてのは良くある事だ。駆け出しの行商人が最初の行商で命を落とす。そんな事だって、同じくらい良くある事だ。だが、そんな危険に対して一々尻込みしてたら、底辺の行商人なんてやってられないっつーの」
そう言って御者の男は、踵を返した。
ロルフとマウリはそれに付いて行くように、表へと出る。
「全財産どころか、これからの人生全てを担保にして手に入れた相棒だ。こいつの餌代も稼いでやらにゃならんしな」
御者の男は荷馬車の馬を愛おしげに撫でる。馬は甘えるように男の顔へ鼻を押し付けた。
その馬の顔がちょうどロルフの方へと向いた。馬の瞳は好奇心で満ちており、つぶらな眼差しでロルフを見ている。
ロルフは引き寄せられるようにして、馬へと近付いた。人懐っこいのか、差し出したロルフの手へ馬はその鼻面を押し付けてくる。温かで湿った感覚がロルフの手の平に伝わってきた。