プロローグ(上)
もう一つの方が勢力図とかが複雑なので、もっとシンプルなのを書きつつ、世界観とかを少し固めたいなぁと思って書きました。
チートなんてない少年が、盾を持って迷宮に潜ったり冒険したりする話です。
時々裏ではダイス判定とかをやりつつ話を進めて行ければと思っています。
物心ついた頃から、ロルフはゴミ溜めのようなスラムで暮らしていた。
薄暗く、すえた匂いのする路地裏。安全な食べ物なんてものは存在しない。その所為か、仲間は次々といなくなっていった。原因は様々だ。危険な仕事に手を出し、失敗したもの。単純にいなくなったもの。意味もなく殺されたもの。そして有害な魔素に耐えきれず、魔物と成り果て『駆除』されたもの。
何時か抜け出してやろうと思っていた。
だがその機会がそれほど早く回ってくるとは、その時のロルフは考えもしていなかった。
切っ掛けは、何でもない事だ。
路地裏に、無精ひげを生やした男が一人迷い込んできた。その男が単なるカモに見えた訳ではない。だがその日の前日、ロルフと仲の良かった友人が見るも無惨な化け物になって、地回りに殺された。同じ物を食べ、同じ場所で寝て、同じ事をしてきた仲だった。自分も何時ああなってしまうのか判ったものではない。
そんな今更ながらの現実を突き付けられて、無性に怖かった。
これ以上、こんな腐った場所に居たくなかった。
あの男の懐から何か盗み出せれば、何かが変わるかも知れない。ここから逃げ出せるかも知れない。そんな事しか考えられなかった。
気が付けば、駆け出していた。
足音を忍ばせ、死角から近付く。ぶつかった瞬間に金目の物を抜き取る。何度もやってきた事だ。今度もきっと成功する。
なんの裏付けもなく、そんな事を素朴に信じていた。
だが現実が、何時もそれほど甘い訳もない。
男の左腕が霞んだと思った瞬間、衝撃と共にロルフの視界は変転した。薄汚れた建物に挟まれた、忌々しいほどに澄んだ青空が視界に映り、その直ぐ後には見慣れた地面が目の前一面に広がる。吹き飛ばされたのだと気が付いた時には、叩き付けられた衝撃が全身を駆け抜けた。
ロルフは運が良かった。
その一撃で死ななかった。
ぶつけたあちこちが痛かった。そしてそれ以上に衝撃で息もまともに出来なかった。だが身体が震えながらも、意識はまだ残っていた。
ロルフは倒れたまま顔だけを起こして、男を見た。睨んだと云っても良い目付きだった。だが無論、男はそんなロルフの視線など何の脅威も感じなかっただろう。
ただ少し意外そうな表情をしているのが印象的だった。
「へえ……反応したのか」
男が面白そうに呟く。
そして不意にあくどい笑みを浮かべると、此方へ近付いてきた。
「なあ、坊主……こんな肥溜めから抜け出したくはないか?」
しゃがみ込み、片膝を突き、ロルフの瞳を覗き込むようにして男は告げてきた。望むところだった。その時のロルフが冷静だったら、冷静さを保てていれば、すぐさまそう判断しただろう。
だがそんな事は出来なかった。
男の声に、そしてそれ以上に、男の何処か底冷えする瞳の迫力にすっかり飲まれてしまっていたからだ。だが不快な怖さではなかった。どんなに自分が足掻いたところで敵わない。その事が理解でき、その事に敗北感すら感じない。男との間にはそれほどの差があった。その事が痛いほどに理解できた。
少し我を取り戻していたら、きっと意味もなく笑っていた。それ程にどうしようもなかった。
そんな真っ白になったロルフの頭に、続けて口を開いた男の言葉が届き、染み込んだ。刻み込まれたと云っても良い。
――お前には才能がある。
その時に感じたものは一生忘れないだろう。誰からも認められず、誰からも省みられず、路上でみじめに打ち棄てられていたロルフに向けられた、唯一の肯定の言葉だった。
それから十年。
その言葉をずっと胸に秘めて生きてきた。支えにして、生きてきた。だが――。
「切り替えが遅いっ!」
裂帛の罵声が飛ぶ。
此処は、綺麗に掃除された板敷きの道場だ。
そのような叱責が飛ぶのも日常茶飯事。珍しい事ではない。
だがその対象となっているのが自分だと思うと、ロルフの胸に言い知れぬ感情が巻き起こった。それがロルフ自身、充分に判っており、なのにどうしても直せない事ならば尚更だ。食い縛った奥歯が、ぎしりと鈍い音を立てた。
あのゴミ溜めで出会った男――ボリス・ヴァーデンが告げた言葉に嘘はなかった。
ロルフはあのゴミ溜めから救い出され、充分すぎるほどの教育が与えられた。
戦い方に知識。食事と住む場所。
ボリスはロルフの養父となり、ヴァーデンの名字も与えてくれた。
「もういいっ! とっとと外に出ていろ!」
そんな養父から告げられた言葉。
反駁の言葉が喉元まで出かかったが、結局飲み込んだ。言い返せる事など何もなかった。
今やっているのは、試合形式の訓練だ。
試合と云っても殆ど実戦のようなものだ。怪我など珍しくない。当然続けていけば負傷は蓄積する。そんな中、一定時間、試合を続けられるかがこの訓練では重視された。
ロルフが最後まで残れた事は、殆ど無かった。
痛む身体を無理に動かして、道場の外へと出る。
見上げれば、此方の気持ちなど知ったことではないとばかりに眩い青空が上空には広がっていた。
あの日。
ロルフが只のロルフから、ロルフ・ヴァーデンという名を受け取り養父を得たあの日から、十年の月日が経っていた。
この十年、自分なりに必死にやってきたつもりだ。
養父として、ある意味特別に目を掛けてくれたボリスの顔に泥を塗らないように、少しでも近づけるように――そんな思いに駆り立てられるようにして、必死に。
だがこの十年という月日は、ロルフとボリスとの間の距離をますます離しただけだった。
フェーラン流剣闘術の創始者として、地位と名声を確かなものとしたボリス。その権威と重要性は、ロルフが初めて会った時の一介の冒険者であった時とはまるで違う。指導を求める人間も多い。
そんな中で、ボリスに直接指導を受けられるグループは、みな一流と云ってよい腕前だ。
ただ、ロルフだけが違う。
ボリスから個人指導まで受けているのに、ロルフはそのグループについていく事すら出来ていない。新たにやってきた連中がロルフをあっさりと追い抜く中、試合形式の練習では最後まで立っている事すらまともに出来ていない。周りのロルフを見る侮蔑の視線も、憐れみの視線も、ある意味当然なのかも知れない。
――お前には才能がある。
かつて養父が与えてくれた言葉を、ロルフは思い出す。
その言葉を嘘にしたくなかった。そして自分が取るに足らない存在だと認めたくなかった。
……くそっ!
ロルフの口から、抑えきれなかった悪態が漏れ出た。後ろでは威勢の良い掛け声と武具の打ち合う金属音が聞こえてくる。大気に吸い込まれているのか、やや遠くに聞こえるその音が、今のロルフと彼らの距離感を示しているようだった。胸に罪悪感にも似た感情と鬱屈した苛立ちが溜まっていった。
そしてその日の夜、ロルフは養父であるボリスから告げられた。
明日の試合で満足な結果を出せなければ、破門する、と。
フェーラン流剣闘術は、片手剣と胸元だけを覆う程度の小型の盾を使う流派だ。
その神髄は、攻防のなめらかな切り替えにある。
そしてロルフは、それが致命的に苦手だった。
そもそも剣を振るだけで、斬撃として成り立つ訳ではない。『力』を込め、初めて攻撃は用を為す。だが位階にもよるが、持てる『力』の全体量は決まっている。盾に全ての力を込めれば、剣には込められない。その逆もしかりだ。
フェーラン流は多様なスキルを駆使し、虚実を使い分け、敵を討つ。そんな流派だ。
フェーラン流の達人の戦闘は一種、美麗とすら感じられる。実用性もある。だがそれと同じくらい、その戦闘手法に魅入られフェーラン流を志す者は多い。ロルフ自身、そんなフェーラン流を初めて知った時は感動にも似た感情を抱いた。
だが、今となってはその感情を思い出す事も出来ない。
どれだけやっても進めない。まるで底無し沼にでも嵌り込んでしまったような感覚から、どうしても抜け出す事が出来ない。
指定された時刻に道場へと足を運ぶと、養父であるボリスは既に用意を整え座していた。
ロルフはその光景に既視感を覚える。
何度このように道場へ呼び出され、指導を受けただろう。今日で最後になるかも知れない。そう考えると恐怖で足が震えそうだった。
「失礼します」
ロルフは一礼して道場へと足を踏み入れる。武器は既に持ってきている。防具も既に着込んでいる。どちらも練習用のものではない。真剣と実戦用の武具だ。
対するボリスの剣も、どうやら真剣のようだった。品質はロルフに与えられたものと同程度。盾は無い。防具も装備していない。つまり、本気の装備ではない。
「おう」
ボリスはロルフが道場の中央部分まで進むと、口を開いた。
「もう問答する意味もねぇだろう……始めるか」
億劫そうな口振りで言葉を紡ぎ、ボリスは立ち上がる。その口振りとは裏腹に、その挙止には一分の隙も見当たらない。気が付けば、底冷えする光を帯びた片手剣がボリスの右手に握られていた。いつ抜いたのか、意識を集中させていたのに、ともすれば見失ってしまいそうな所作だった。それだけでその剣の腕が並外れたものである事は充分に察せられる。
中肉中背。
決して体格が恵まれている訳ではない。
寧ろ身長にしろ体重にしろ、既にロルフの方が大きくなっているだろう。だがその実力差は懸絶している。
「――じゃあ征くぜ?」
フェーラン流剣闘術創始者、ボリス・ヴァーデン。
その双眸が、ロルフを射抜くような眼差しで見据えていた。