飄風
衣擦れか、木々の葉のざわめきに似た音がした。
鳥でも蝙蝠でもない、水晶をごく薄く削った紗幕でできているような、硬質の翼を開いたせいだ。
風がその翼に触れ、りぃ、と小さく響く。
翼が鳴るのではなく、風が鳴いている。
世界を構成する四大元素でさえ礼を尽くすかのような光景を、女はただ眺めていた。
この東大陸で、『それ』は魔獣と呼ばれる。
四本足で歩くのは獣。
四本足で歩き、かつ魔力を持つ物が魔獣。
ならば、いま女の目の前にいるのは間違いなく魔獣のはずだ。
それを美しいと思うのは、毒蛇を愛で、毒花で身を飾るようなもの。
「べつに、それがいいと思う女がいてもいいわよね」
何の気なしにこぼれた言葉に、魔獣が振りかえった。
大きな顎門が開く。
「気に入ったのなら結構だ」
女の足ほども太い牙のすきまから、くっくと息が漏れた。
揶揄なのか単に面白がっているのか、人型をとっている時より感情が露わになっている。
笑われた女が、一糸まとわぬ姿のまま、巨大な魔獣に歩み寄る。
人一人を軽く銜える口、長く伸びた首と、筋肉の盛り上がる背には透けるような翼。
四肢は力強く大地を掴み、胴と同じほどの長い尾へと続く。
東西の両大陸で、生物の最高位と呼ばれる竜種の、その上に立つ『もの』なのだという。
希少と言うよりさらに数は少なく、ゆえに種の名はない。
興味深く触れた肌は、淡い灰青の陰影を持ち、硬質でありながら女の手を跳ね返さず、かといって温かくもない。
白い鬣も、さらさらと手からこぼれ落ちてゆく。
人型の時は、もっと荒い感触の髪だった。
肌は温かかったが、どこかとってつけたような感覚で、幾分なじみが悪かった。
掻っ攫われ、空を渡って連れてこられたのは、魔物が塒にしているらしい高山の頂点にある洞窟。
絹地より目の細かい、柔らかな敷布の上で、幾夜も過ごす羽目になった。
硬い牙は肌を喰い破らず、甘噛みよりも優しく滑る。
――― 野の真ん中で犯すほど、知能が低いと思ったか。
嘲るような声が、奇妙に耳朶にからみついた。
さらさらと、指の間を滑る鬣を梳るように撫でる。
「こっちのほうが、手触りがいいわ」
畏れる色もない代わりに、甘い声音でもない。
「そんなものにも善し悪しがあるのか」
店先で布地を選ぶような感想を告げられて、魔獣が哂う。
「着ろ。そのままで空を渡ると凍える」
光を浴びて煌めきわたる翼が、大きく広がった。
風が、翼を求めて高台をごうと渦巻いた。