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Fall Girl

作者: 鉄下駄

「オギャア、オギャア!」白い空間に大きな泣き声が響く。

分娩台に横たわる女性は、全ての力を使い果たしたかの様に小刻みに息を吐きながら天井を見つめる。

「お母さん、お母さん! 産まれました。可愛らしい女の子ですよ!」泣き声に掻き消されそうになりながらも助産師の声は確かに女性の耳に入った。

 女性は泣き声のする方にゆっくりと顔を向けると、弱々しく笑みを浮かべる。「だ、抱かせて下さい……」

「…………はい」助産師の手から女性の手へと赤ん坊が手渡される。女性は両手を震わせながら赤ん坊を抱くと、目から小さな涙を零れさせた。

「オギャア、オギャア!」力強い泣き声と、掌から伝わる確かな温かさが自分のした事の大きさを教えてくれる。

 この小さな命が生まれてから約一年を掛けた母娘の対面は、女性にとって最高の瞬間であった。

 女性は出産が始まる前からこっそりとポケットの中に忍ばせていた小さな葉っぱを取り出すと、赤ん坊の目の前にやる。すると、不思議な事に赤ん坊はピタリと泣き止んだ。丸っこい瞳でじっと見つめるその様子を見て女性は優しく微笑む。

「秋実ちゃん。もう……外は秋よ……」

 赤ん坊の瞳には葉先が五本に分かれた紅い像が反射し、ふるふると震える。

 それが、彼女が生まれて初めて見た物だった。


     ☀


 ピピピ、ピ ピピピ、ピピ ピピピ、ピピピ ピピピ、ピピピ

「う~ん……」

 けたたましい目覚まし時計の音で秋実はベッドから頭を上げて、目を擦る。ぼんやりとした景色を見回し、五月蠅い目覚まし時計を軽く叩く。

 音が止んで暫くした後、秋実はベッドから起き上がり、カーテンを開く。五月の控え目な日の光が降り注ぎ、秋実の意識を段々と鮮明にさせる。

 深呼吸をした後、パッチリと目を開けて、改めて目覚まし時計に顔を向けると、針は八時十分を過ぎていた。

「…………あれ?」

 目覚ましは七時半に掛けていた筈と、小首を傾げる。どうなっているのだと思考を巡らせると、何故か何回も目覚まし時計を止めた記憶がある事に気付く。

「あっ、そう言えばこの時計……」

 上のボタンを押すだけでは完全には止まらない事を思い出す。

「…………」

 秋実が通う学校は八時三十分から、未だにパジャマ姿で自室に立ち尽くす彼女の頬に汗が伝う。

「ち、ちこくしちゃう!!」

 叫ぶと共に秋実はタンスに飛び付いて洋服を引っ張り出す。パジャマから急いで着替えて、部屋を飛び出し階段を降りると、居間には向かわずに玄関に直行した。

 ドアノブに手を伸ばし、玄関の扉を開ける。

「行ってきます!」

 返事も待たずに外に飛び出すと、バタンと扉が大きな音を立てる。

空は快晴、五月晴れ。今日も秋実の元気な足音が、何時もの通学路に響いていた。


    ☀


「では今日の授業はここまで、今日は特に連絡は無いからホームルームは無しだ。帰って良いぞ」

 顔も上げずにプリントを捲りながら先生が言うと、生徒達は一斉に椅子から立ち上がる。勿論秋実もその一人だ。

 真っ先に生徒玄関まで走ると、上履きを履き替え外に出る。

 すると、一番初めに見えるのが、学校が出来る前からあると言う綺麗に並んだ大きなカエデの樹だ。青々とした葉っぱをゆらゆらと揺らしながら下校する生徒を見送ってくれる。最近の学校では珍しい解放された屋上から見るとかなりの絶景だ。

「私のたんじょうびくらいになったらこの木も色がかわるかなぁ」

 秋になると見られるカエデの紅葉は、この学校に通い始めてからずっと見ている光景だが、どんなに見ても飽きる事は無い。それどころか秋実は毎年秋になると、落葉した紅葉を集めて家に持ち帰るほどにこの樹が好きであった。

 暫くの間、学校の樹を見つめていると、自分の子供の迎えに来たのか、優しそうな女の人が校門の前に立っているのが目に入る。

「あっ、そう言えばきのう、お母さんに買い物をたのまれたんだった」

 朝が忙しかったのですっかり忘れていたと、秋実は歩き出す。小学校の近くには馴染みのスーパーが一軒あり、良く買い物を頼まれるのだ。

「今日のメニューはカレーライス!」それは秋実の大好きな定番メニュー。四歳の時から料理をしているので包丁の扱いはお手の物である。

「いっしょにおかしも買っちゃおうかなぁ~」

 秋実のお母さんは、買い物を頼んだ時には御菓子を買って来ても怒ったりはしない。秋実はそんなお母さんが大好きだった。


     ☂


「合計千百二十八円になります」

 レジの店員が高い声で言うと秋実は財布からお金を取り出し店員に手渡す。

「丁度お預かり致します。今日もお使い? 一人で偉いね」

 そんな店員の言葉に秋実はニッコリと笑顔を見せる。定期的に通うこのスーパーの店員さんとは殆どが顔馴染みだ。

会計を済ませた後、買い物かごを持って台に乗せると手慣れた手付きで品物を袋に入れていく。勿論一緒に買ったチョコレートは直ぐに取り出せるように袋の中の一番上だ。

「ありがとうございましたー!」

 出入り口近くに居る店員の挨拶に見送られながらスーパーの自動ドアを通ると、パラパラと雨が降っているのに気付く。

(このくらいならすぐやむかな? 少しまっていよう……)

 梅雨が近づいて来ているこの時期、通り雨は珍しい事ではない。秋実は出入り口付近にあるベンチに座り込むと、薄暗い空を見上げる。

 空から降る雨が屋根を叩きパラパラと音を立てる。何処となくリズムに乗っているかのようなその音に秋実も控え目に身体を揺らせた。

「雨、雨。パラパラおちて、くらい夜道をあるいたら、いつかは行けるよ青いお空」

「――秋実ちゃん? 何歌っているの?」

 突然声を掛けられて空に向けた視線を戻すと、青い傘を持った男の人が目に入る。秋実は少しの間、その人の顔を見つめるとパッと顔を輝かせた。

「春雄おじさん!」

 秋実はベンチから立ち上がると、春雄と呼んだ男の人に抱き付いた。

「うわっと――!? 久しぶりだね。確か進級する前だから二か月ぶりくらいかな?」会う度にされる何時もの愛情表現に、春雄は空いている左手で秋実の頭を撫でて笑う。

「今日はどうしたの? おじさんの住んでるとこ、ここから遠いのに」

「あはは、仕事で近くの会社に用があってね。暫くこの町に居る事になったんだ」

「本当に!? あっ、それじゃあわたしのお家に来てよ。お母さん喜ぶよ!」

「あ~、それはまたの機会にしようかな。ホテルを取るのを忘れてて、探さなくちゃいけないんだ」ポリポリと頭を掻きながら春雄は言うと、秋実は少し残念そうな顔をして「そうかぁ~」と呟いた。

「わたしも、もうかえらないと、お母さん心配しちゃう」ベンチに置いていた袋を持って歩き出す。春雄は先程よりも雨が強くなっている空を見上げて短く息を吐くと、右手に持っている傘を秋実の上にやって柔らかく笑う。

「傘持って来てないでしょ? 家まで送って行くよ。風邪ひいたら大変だからね」

「おじさんやさしいね」そう言って笑う秋実の顔を見ると、春雄はより一層笑みを深めて「そんな事ないよ」と秋実の頭を撫でた。



「ただいまぁ~」

 玄関に入って外靴を脱ぐと、秋実は真っ先に台所に向かう。

「あっ、お母さん。ちゃんとお買い物して来たよ! れいぞうこに入れとくね」

「たすかるわ。あら? 今日はチョコレート? 食べる前にちゃんと手をきれいにしてね?」

「はーい!」お母さんの言う通りに秋実は洗面台に向かって、手を洗う。お花の香りがするオレンジ色の石鹸は、秋実が選んだお気に入りだ。

「あらって来たよ!」

「はい、ごくろうさま。今からごはん作るから、それまで待っていてね」

「ううん、手伝う!」お母さんと一緒に夕飯を作るのは秋実の最近の楽しみの一つだった。

「そう? それじゃあおねがいね」

「うん!」

 秋実は頷くと、少し前にやっと台が無くても届く様になった台所にお母さんと並ぶ。

「それじゃあ、わたしジャガイモのかわをむくね!」

「うふふ……、手を切らないように気をつけてね」


     ☁


「いただきます!」両手を合わせて元気よく言うと、大きなスプーンでカレーライスを口に運んでいく。秋実の為に甘口で作られたカレーは、噛み締める度に心の中がほっとする優しい味だ。

「おいしい! やっぱりお母さんのカレーは世界一だよ!」

「うふふ……、ありがとう。そうだ、秋実ちゃん。今日は雨がふっていたけどだいじょうぶだった?」

「うんだいじょうぶだったよ! かえるとちゅうで春雄おじさんに会って、かさに入れてもらったの」

「春雄さんが? めずらしいわね。来たなら教えてくれたらよかったのに……」

「わたしもお母さんに会ってって言ったんだけど、おじさんお仕事でいそがしいみたいで、うちまでおくってくれたらすぐ行っちゃったんだ。ちゃんとおれいも言えたよ!」

「秋実ちゃんはえらい子ね」

お母さんがそう言うと秋実は顔をパッと輝かせて「そうでしょ~!」と得意気に胸を張った。

 秋実は今日起こった出来事をお母さんに必ず報告する事にしている。どんなに悲しい事があってもお母さんに話せば不思議と元気になる気がするからだ。

「ごちそうさまでした!」

「はい、ごちそうさま。秋実ちゃんずいぶんお料理上手になったね。お母さんびっくりしちゃった」

「えへへ、お母さんにおいしいごはん食べさせてあげたいからがんばってるんだよ!」

「あらあら……、それじゃあお母さんも秋実ちゃんに負けないようにもっとがんばらないとね」笑い掛けると、お皿を持って流し台に運ぶ。流し台の水を出すと、秋実がニコニコしながら口を開いた。

「ねえお母さん。明日は学校お休みだから公園に遊びに行くんだよ!」

「それじゃあ明日早起きしなくちゃね。ほら、歯を磨いていらっしゃい」

「うん!」

 洗面台まで急ぎ足で向かうと、秋実の履いているスリッパが床を叩いてパタパタと音を立てる。明日公園でどんな遊びをしようかなんて考えていたら、今日買ったチョコレートの事なんか頭の中からすっかり抜け落ちてしまっていた。


     ☀


「行って来ます!」

「行ってらっしゃい」

 お母さんに挨拶をしてから玄関の扉を開けると、昨日の雲が全て飛んでいったらしく、空はすっかり綺麗な青空になっていた。今朝見た天気予報では一日中晴れという絶好のお出掛け日和に、秋実の歩みも自然と早くなる。

 秋実のお気に入りの公園は家から歩いて三十分となかなかに遠い。しかしその苦労に見合うほどの大きな公園で、遊具も豊富に設置されている為、遊ぶには最適の場所だ。

 秋実が住宅街の中途半端な広さの道路を進んで行くと、近所の人達がニッコリとした笑顔で挨拶をしてくる。よく一人でお出掛けをする秋実はこの辺では結構有名だった。



 暫く歩いて目的の公園にあと少しという所まで近づいて来た頃、ふと見覚えのある顔が前からやって来て、秋実は足を止める。

「やぁ、秋実ちゃん。やっぱり近所に居るとよく会うね」

細身で背はそれほど高くなく、のんびりとした笑顔が実に似合う穏やかな男性。秋実の二番目に好きな人である春雄がそこに立っていた。

「春雄おじさん! こんなところで何してるの?」

「ん? 秋実ちゃんと同じ散歩だよ。折角の日曜日くらいのんびりとしていたいからね」

「それなのにスーツ着てるんだね」休みだというのに上から下まで紺色のスーツに身に纏っているのは流石に秋実でも変に思うらしく、首を傾げて尋ねる。

「あはは、実はお休みは昼の間までで暗くなる頃にはまた仕事があるんだよ」小さく笑うその顔には何処となく疲れの色が見える。秋実は春雄が何の仕事をしているかは知らないが、何時も忙しそうにしているという事だけは分かっていた。

「ほら、秋実ちゃんは公園に行くんだろ? 僕なんかに構わないで遊んでおいで」

「うん。おじさんまたね」折角の日曜日だというのは秋実だって同じ事、こんな所で時間を潰しては勿体無いと、春雄に手を振りながら秋実は駆け出す。

 そんな秋実に春雄は笑顔で手を振り返すと、秋実が小さくなったのを確認してから長い溜息を一つ吐いた。ポケットから携帯電話を取り出して画面を見ると、たった十五分の間に着信が十三件も入っている。全て勤め先からの連絡なのは確認しなくても分かっている。

 春雄は留守番メモを再生して携帯電話を耳に当てる。ピッ、という電子音の後、女性の声が聞こえて来る。あまり連絡がつかない事が多い春雄の携帯電話は、伝言を残すのが当たり前になっている為、その声は慣れた様に唯坦々と連絡事項を述べている。

 三十秒もしない内に再生が終わると、春雄は携帯電話をポケットに仕舞って、何処までも晴れている空を仰いだ。

「もう直ぐ夏だね」

 この頃になると、季節の流れというものをひしひしと感じてしまう。そんな時、何時も自分の顔が険しい物になってしまうのは、太陽が眩しい所為だと春雄は心の中で悪態を吐いた。



 目的の公園に辿り着いた秋実は辺りを見渡すと、何時もの通り、大勢の子供達が公園の遊具で遊んでいるのが目に入る。滑り台にブランコ、(うん)(てい)に砂場と、どれも順番待ちの子供で一杯だった。

 そんな何時も通りの光景に秋実はフフンと息を吐くと、他の子供達が集まる遊具の方には向かわず、道が舗装されていない人気の少ない林の中へと入って行く。

 段々と奥に入って行くにつれて、騒がしい子供達の声が小さくなっていく、秋実は更に進んで完全に声が聞こえなくなる所まで来てやっと足を止めた。

 今秋実が立っている場所は、秋実だけしか知らないお気に入りの場所だった。手入れされていない林の中で此処だけ樹が囲む様に立っていて、楽に寛げる位の広さが確保されている。何故此処だけこうなっているかは良く分からないが、秋実が二年生の時に見つけてそれ以来ずっとこのままの形を維持している。

 秋実は手頃な樹に寄り掛かるとペタンと座り込む。静かな空間に響く鳥の鳴き声が実に幻想的だ。

 風に揺れる樹の音や、温かい日の光を浴びていると、ついウトウトと眠気がやって来てしまう。秋実は此処に来ると何時もこんな風になってしまう。

「今お母さん何してるかなぁ……」

 ぼんやりとした意識の中で、お母さんの後ろ姿が浮かぶ。そう今日は折角の日曜日、それはお母さんも同じだと秋実は思い出す。

「そうだ今日は日曜日……、大きなあなたも、小さなわたしも、のんびりあそべる。自分だけのすてきな時間………………」

 サラサラと子守唄の様に樹の葉っぱ同士が音を立てる。今朝、秋実は張り切って早起きした事もあって、遂には歌の途中で眠り込んでしまった。



「カー。カー。カー!!」

「んあ………?」

 一際大きな鴉の鳴き声で、秋実は目を覚ます。右手で目を擦って空を見上げると、もうすっかり夕焼け色に染まっているのに気が付いた。

「わっ、もうこんな時間だ!」

 お昼過ぎには家に帰る予定だったのに、うっかり寝過ごしてしまった秋実は、慌てて立ち上がり来た道を戻る。

 今から公園を出るという事は、家に着く頃には確実に真っ暗になっている。幾らよく通る道とは言え、真っ暗な道を一人で歩くのは流石の秋実も心細い。成るべく早く帰る為に、全速力で林を駆け抜けた。

 五分くらい経って、ようやく林を抜けると、すっかり人が居なくなった公園が夕日の光に照らされている。

 一刻も早く家に帰ろうとしていた秋実だったが、林を抜けて直ぐに目に入った光景に思わず足を止めてしまう。

「…………」

公園の真ん中にポツリと立つ小さな影、距離が離れている為、大体の大きさしか分からないが、自分よりも小さいように見える。

それは誰も居ない公園で何をしているのか、秋実の方に背を向けたまま微動だにしない。

「……だれ?」

 反射的に声を上げてから、秋実は、しまった! と声を上げた事を後悔した。しかしもうやってしまった事は変えられない。声に気付いたその影は、秋実の方にゆっくりと振り向く。

「…………?」

 しかしそれだけだった。遠くの影は秋実の方をチラリと見た後、直ぐに元向いていた方に向き直ると、またピクリとも動かなくなる。

「……っ!」

 良く分からなかったが、今の内にと秋実は公園の出口まで走り出す。地面を蹴る音が何時もの何倍も大きく聞こえる。もし自分以外の足音が聞こえてきたらと思うと、不安で堪らなかった。

公園を出てからも数分間は、全力で走り続けた。肺の酸素が無くなり、息切れで走れなくなった所で秋実はようやく足を止める。振り返って確認すると、あの影が追って来ているという様子は無い。

 ホッと一息ついて、空気を取り入れる為に深呼吸すると、鞄に昨日買ったチョコレートを入れておいたのを思い出した。

 家ではもう直ぐ晩御飯が出来上がる頃、走った事もあり、秋実のお腹は空腹感で訴えて来ている。

 秋実は鞄のチャックを開けて、赤い包装のチョコレートを取り出すと、銀紙を破いて板状のチョコレートを目一杯頬張った。

 パキッ、と口の中で小気味良い音が響く。それと同時に口の中一杯にカカオの香りと、惚けそうな程の甘さが広がって行く。

 今まで感じた事の無い程のあまりのおいしさに、秋実は一枚の板チョコを一気に全部食べてしまった。

 秋実はチョコレートを食べ終わった後の、得体の知れない満足感に浸っていると、再び家に帰る為に歩き出す。

 辺りは夕闇に染まっていた。


     ☁


「それじゃあ、帰りの会は終わりだ。配ったプリントはちゃんとお父さんかお母さんに見せるんだぞ」

「「はーい、先生さようなら!」」

 生徒全員が声を揃えて別れの挨拶をする。

先生のお辞儀が終わると、生徒達が一斉に動き出す。そんな中、一番初めに教室を飛び出したのは秋実だった。

そのままの勢いで校門を通り過ぎ、家への帰り道なんかに目もくれずに昨日言った公園へと急ぐ。

学校は、秋実の家と、公園の丁度真ん中あたりに建っている為、ここから向かえばさほど時間は掛からない。

「ハァ……、ハァ……」

 五分ほど走って公園に辿り着く。今日は平日、しかも学校が終わった直後だからか人の数は昨日より断然少ない。

 秋実は林の手前にある茂みの中に身を隠すと、走って負担をかけた肺をゆっくりと呼吸して休ませる。

 あの影は一体なんだったのか? その正体を掴む為に秋実は此処にやって来たのだ。あの時は状況と焦りで、つい逃げ出してしまったが、家に帰って思い返すとあの影は人の形をしていたような気がした。

 それならばその人は、誰も居ない公園で一体何をしていたのかという疑問が上がって来る。

 昨日見た時は何もしていなかったように見えたが、唯ボーっとしていたにしてもあの不動ぶりは不自然だ。そんな不審人物が公園に居ると知った身としては、これからも安心して林の中で眠る事なんて出来やしない。

 これは秋実の安息の場所の維持の為の行動なのだ。

「…………!?」

 そうこうしている内に公園の中が騒がしくなって来た。恐らく秋実と同じ学校帰りの子供達であろう。

 次に現れたのは犬の散歩でやって来た白髪のおじいさん。赤ちゃんを抱いた女の人等、様々な人が行き来していく

「……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」

 それから結構な時間が経って、昨日秋実が林で目覚めたくらいの時刻になると、人が段々と少なくなって来た。

 一人二人と減って行く度に、秋実の心臓の音が激しくなっていく。

 しかし、秋実以外の全ての人が居なくなってから三十分が経っても、あの人影は一向に現れる気配を見せない。

空が赤から黒に変わりかけて来た頃、これ以上は待って居られないと秋実は茂みから出て来る。

「今日は、来てないみたいだね……」

 物音一つ聞こえてこない公園の真ん中で溜息交じりに呟くと、家に帰ろうと秋実は歩きだす。昨日居たからといっても今日居るとは限らない。秋実はまた明日見張りに来る事にしようと、公園を後にした。


     ☀


「ねぇ知ってる? 友達に聞いた話なんだけどね……」

 あれから四日間、毎日公園に通っているからか、妙に身体に疲れが溜まっている秋実は、折角の休み時間だというのに動きもせずに机に突っ伏していると、隣の席から話し声が聞こえて来る。

「この学校の近くで、ユウレイが出るらしいよ」

 幽霊という言葉に秋実の身体がピクリと動いた。もしかしたら公園の人影の事かもしれないと、聞き耳を立てる。

「ええっ、うそぉ!? それでそれで?」

「何でも学校が終わった後により道して遊んでいた五年生の人が、夕暮れの時間に一人で道を歩いていたらね。急にトントン、っとかたを叩かれてね。びっくりしてふり返ってみたら。なんと! 人のすがたなんて見えないのに、黒い手だけが目の前にあったんだって……」

「ホントに!? すっごいこわいじゃん。その人はどうなったの?」

「だいじょうぶだったみたいだよ。でも、もう一人で遊ぶのはやめたんだって」

「そうなんだぁ。こわいね。わたしそんなのに会ったらどうしよう」

「あはは。だれかといっしょに帰ればだいじょうぶだって、一人にならなければ会わないってうわさだよ」

「ねぇ今日いっしょにかえろうよ。わたしこわくなってきちゃった」

「はいはい。こわがりさんだね」

 それからは二人の会話は元の他愛の無い話に戻ってしまう。秋実はゆっくりと机から頭を起こすと、思考を巡らせた。

(もし、わたしがさがしているあれがユウレイだったとしたら……)

 五日経ってもあの時の記憶は鮮明だ。赤い夕焼けに黒い人影、自分よりも小さいのに浮き上がったような存在感がある。

 あの得体の知れない存在感は何処か人間味の無い物の様な感じがする。自分が追っているのはそんな手におえない代物なのであろうか。これからも探し続けて出会ってしまったらどうなってしまうのか。そんな疑問と恐怖が頭の中で渦を巻いて暴れる。

「…………」



午後五時。秋実は何時もより遅い時間に公園にやって来た。

休み時間に聞いた噂話が人影に関係あるかなんて分からなかったが、結局あれの正体を突き止めないと、自分の中に何かわだかまりが残っている様で、お母さんと食べる夕食も落ち着いて食べられないのだ。

 秋実はそそくさと林の前の草むらに隠れると、背中からランドセルを降ろす。

 まだ夕方まで時間がある。このまま遊んでいる子供達の姿を眺めているというのも退屈なので、秋実はランドセルから絵本を取り出して読み始めた。

 秋実の家には絵本は無い。全て学校の図書室から借りてきた物だ。秋実自体、絵本はあまり読まない方だったが、夕方を待つ為に読み始めてから本が少しだけ好きになっていた。

 桃太郎やうさぎとかめみたいな有名な物も良いけれど、秋実が興味を示したのは外国の絵本だ。

校長先生の趣味なのか分からないが、秋実の学校の図書室には外国図書のコーナーがある。日本人にはない発想から描かれる世界が秋実の好奇心を刺激したのだ。その中には顔をしかめる様な悪趣味な物もあり、読んでしまった時は少し気分が悪くなってしまった。

その本の殆どが日本語に翻訳されている物だが、中には外国語のまま置かれている物もある。秋実は、そんな本を見かける度にそんな物を一体誰が借りるのだろうかと思っていた。


     


『冬のおうじさまと秋のおひめさま』

 あるところに、おいしい食べ物やきれいなけしきがいっぱいな。秋の国がありました。

 そこにはかわいらしいおんなのこがいて、やさしいお父さんといっしょにとてもしあわせにくらしていました。

 ところがある日、おんなのこのお父さんがびょうきでたおれてしまいました。

「うえーん。お父さん!」

 あまりにしんぱいでおんなのこがないていると、ベッドにねているお父さんが、おんなのこの手をにぎってやさしくこう言いました。

「わたしのやさしい子よ。どうかなかないで、わたしはおまえがいてくれただけでしあわせなんだよ」

「そんなこと言わないで! わたし、お父さんのびょうきがなおるならどんなことだってするわ!」

「ほんとうにやさしい子だ。でもだからこそお父さんはおまえがしんぱいなんだよ」

 そう言うとお父さんはねむってしまいました。

「ねぇ、おいしゃさん。もうお父さんはたすからないの?」

 おいしゃさんは、すこしの間だまった後、おんなのこをみつめて大きな口をひらきました。

「じつは一つだけお父さんをたすけられる方法があります」

 それを聞いたおんなのこはパッと顔をかがやかせます。

「それはどうすればいいの?」

「ここからずっと北に、冬の国という国があるのだが。そこにあるやくそうがあればお父さんのびょうきをなおすくすりがつくれるんだ。でもね……」

「でも?」

「ここからとっても遠いところにあって、とちゅうにはけわしい山もある。とてもきけんなばしょなんだ」

 するとおんなのこは立ち上がってむねをはります。

「わたし行くわ! お父さんがたすかるならなんでもするって言ったんですもの!」

 ゆうかんなおんなのこはそう言うとへやをとびだしました。

 へやにのこされたおいしゃさんは、こまった様にあたまをさするとねむっているお父さんのかおを見つめてためいきをつきました。

「ほんとうにお父さん思いなやさしい子だ。わたしはどうなってもしらないよ」

 こうしてお父さんのびょうきをなおすためのたびがはじまりました。おんなのこは北へ北へとずんずんすすんで行きます。

「山道なんてへっちゃらよ。なんたってわたしにはびょうきでくるしんでいるお父さんがまっているんだもの!」

 けわしい山道もなんのその。おんなのこはまだまだすすんで行きます。

 やがて山道のほとんどをわたりきると、まわりのくうきがとてもつめたくなっているのにきづきました。

「はぁ……、さむいなぁ。でも冬の国はもうすぐそこ、がんばらなくっちゃ!」

 そうは言ったものの、さむくて体が思うようにうごきません。

「どうしよう。足がいたくてもう歩けない。冬の国はもうすぐだっていうのに……うえーん、うえーん!」

 かわいそうに。おんなのこはとうとうなきだしてしまいました。ほうせきのようなひとみからはガラス玉のようななみだがこぼれおちます。しかしそのなみだもすぐにこおりついてしまうほどにあたりはつめたいのです。

とうとうすわりこんでしまったおんなのこはかなしそうにつぶやきます。

「わたし、このまましんじゃうのかしら……」

 すると、とつぜん目の前に、小さな手のひらがあらわれたのです。おどろいたおんなのこはかおを上げると、そこにはやさしいかおをしたおとこのこが、おんなのこに手をさしのべていたのです。そしておとこのこはやさしくたずねます。

「こんなところで、いったいどうしたんだい?」



そこまで読んだ所で、秋実は辺りがすっかり夕焼け色に染まっているのに気が付いた。子供達の声も聞こえなくなっており、遠くから鴉の鳴き声が聞こえて来る。

「もうこんな時間か……」そこまで本の内容に夢中になっていたのかと思いながら立ち上がろうとすると、目の前に黒い影がポツンと立っているのが目に入った。

「…………っ!?」思わず声を上げそうになったが何とか堪えた。そして立ち上がろうとした体勢を一旦元に戻して良く目を凝らす。

 自分よりも少しだけ小さく、人の形をした黒い影。そしてあの時と同じ様に空を見つめたまま動こうとしない。間違いなくあの人影だった。

 秋実は唾を飲み込むと、恐る恐る草むらから顔を出す。人影がこちらに気付いている様子は無い。そこで秋実は極力音を立てない様に草むらから立ち上がると、ゆっくりと人影に近づいて行く。

 一歩…二歩…三歩…四歩…

 近づくにつれて、人影の色が黒から人の色に変わって行く。

 五歩……ジャリ!

(…………!?)

 目の前に集中しすぎて小石を踏んずけてしまった。秋実の足から頭まで、地面と擦れる音が一気に駆け抜けていく。

 当然その音は、人影にも聞こえている。後ろから突然聞こえてきた音に振り向き、人影と秋実は目が合った。

 その瞬間、間違いなく世界が固まった。自分が息をしているのかも良く分からない。周りの鴉の声も聞こえない。そんな時間が秋実の中に存在していた。

「おねえちゃん、だれ?」そんな世界を動かしたのは目の前の男の子が発したそんな一言だった。

「………………………………………………………………………」

今まで止まっていた物が動き出すかの様に、秋実の全身から汗が噴き出す。相手の言葉に対して声を出そうとしたがどうにも上手く言葉が出てこなかった。

「聞いてるの?」

 一向に声を出さない秋実に対して、男の子は首を傾げる。このままでは不味いと思った秋実は何かを言おうと慌てて口を開いた。

「五日前!」

「えっ?」

「五日前もここにいたよね! ここで何してたの!?」

 会って行き成り本題を突き付けるつもりなど無かったが、余裕の無くなった秋実は思わず挨拶も抜きにして疑問を口にした。

 男の子は少し驚いたような顔をした後、可笑しそうな顔をして秋実を指差す。

「もしかして、五日前に走って行った人?」

「……そうだけど」

「やっぱりそうか。急に声を掛けるんだもんな。あの時はびっくりしたよ」

 男の子は五日前の事を何年も経った事のようにしみじみと思い出す。その表情はとても柔和(にゅうわ)な笑顔だ。それを見た秋実は自分が今まで描いていたイメージとあまりにもかけ離れていて拍子抜けしてしまった。すっかり緊張が解れてしまった秋実は、最後に残った緊張の息を吐き出して男の子の前まで歩き出す。

「あの時はわたしもびっくりしたよ。だれもいないところに一人でポツンっと立っているんだもん。わたしユウレイか何かかと思っちゃった!」

「ユウレイ? ぼくが?」男の子はキョトンとした顔をした後、目を細めて小さく笑う。

「そんな事ないよ。ちゃんと足もついているしさ。体温だってきのうはかったら三十六度あった」

「うん、それはごめんね。でも、きみは何でこんな時間に一人でいるの?」警戒心が薄れたからといってもこの疑問が晴れない事には秋実は納得いかなかった。

 男の子は少し悩んだように頭を傾けると、やがて沈みかかっている夕日を指差した。「夕日って、ずっと見ていても目がいたくなったりあんまりしないよね。だから太陽を見るのにぴったりなんだ」

「太陽なんて見てどうするの?」

「見る事にいみなんてないよ。ただ見ていただけ」

「…………」あまりの理由の無さに、何だか夢が壊されてしまったような気分になる。

 結局、この男の子が噂話になっていた黒い手のユウレイや、秋実が思っていた得体の知れない何かだったりする事は無い事は良く分かった。つまり一番の疑問が晴れたのだ。

秋実はホッと一息吐くと、男の子の目を見つめる。

「名前聞いてもいい? 私は秋実っていうの」

「ぼくは冬樹だよ」

「それじゃあ冬樹くん」

「何?」

「わたしも見てて良い? 夕日がしずむの」秋実が尋ねると冬樹は何だそんな事という顔をする。

「良いよ」

「ありがと!」

そう言って秋実は冬樹の隣に立った。そうすると背が自分よりも少しだけ小さい事が良く分かる。でも、冬樹は自分なんかよりもよっぽど大人びているような雰囲気を感じていた。

それから二人は夕日が沈むまでの間、他愛の無い話をし始めた。住んでいる付近の遊び場、好きな食べ物、良くする遊び。たったそれだけの話だったが、二人はそれがとても有意義な時間に感じられた。

やがて夕日が全て沈んで、辺りが街灯の光に照らされ始めた頃、冬樹は両腕を上げて伸びをした後、秋実の方を向く。

「もうくらくなっちゃったね。もうかえらなくちゃ。それじゃあばいばい!」

 そう言って公園の出入り口を出て行くと、手を振って来た冬樹に秋実も手を振り返す。冬樹が見えなくなって暫くしてから右手を降ろすと、思わず溜息が出てしまった。

「すっかりおそくなっちゃった。わたしももうかえろう……」

 公園から家まで歩いて三十分、不思議と一人の夜道は怖くなかった。



「ただいま!」

「おかえりなさい。また公園に行ってたのかしら?」

「うん!」

「あら、何だかいつもより元気ね。何か良いことでもあった?」

「別に何にもないよ」そう言う秋実の顔はにこやかだ。

「そう……? まぁいいわ。手をあらってらっしゃい。ごはんを作るの手伝って」

「はーい!」

 今日は特別お腹が空いている。お母さんのごはんが何の悩みも無しで、素直に味わえるからだ。

 急いで洗面台で手を洗うと、台所の前に立つ。すっかり手慣れた包丁に、使い古されたまな板。これらから作られる料理はどれも絶品だ。

「それじゃあ。今日はハンバーグにしましょう」

「うん! わたしにまかせて!」

 今日は楽しい食事になりそうだ。


     ☁


 あれから三か月が経った。

 その日以来秋実は公園に通う事はなくなり、冬樹に出会う事もなくそのまま夏休みに入っていた。

黒い手の幽霊なんていう噂もめっきり聞かなくなり、何時も通りの毎日を過ごしていた。勿論それは秋実以外の人だって同じ事だ。

(今日は、買い物に行かなくちゃ……)

秋実は何時も通りお母さんに頼まれた晩ご飯の為のお買い物をする為に財布を鞄の中に入れる。

玄関を出ると樹の葉が緑色の輝きを放ち、夏の清々しさを感じさせてくれる。

そんな事があってか、秋実は上機嫌で歩いていると、ふと見た事のある後ろ姿が目に入った。

あの疲れきったような後ろ姿は間違いないと駆け出すと、秋実は背中に飛び付く。

「――うわぁ!?」

 突然の衝撃に身をよじらせて、驚きの声を上げる。何かと思い、後ろを振り返ってみると、秋実の顔が目に映った。

「おじさん。ひさしぶりだね!」

「何だ秋実ちゃんか。久しぶりだね。三か月ぶりくらいかな?」

 ぶつかった腰を擦りながら春雄が言うと、秋実は少しだけ不機嫌そうに口を開く。

「おじさん近くにいるって言ってたのに、ぜんぜん会ってくれないんだもん」

「あはは。どうにも仕事が忙しくてさ。でも今は落ち着いて来てね。今日の夜、秋実ちゃんの家に行こうと思っていたんだ」

「ホントに!? それでこんなところに立っていたんだ?」

「秋実ちゃんの家の前が一番会いやすいからね」

「ちょうど良かった。今日お母さんにお買い物をたのまれていたの! だから今日はごちそうにしてもらうね!」

「おお! それは楽しみだなぁ。それじゃあお母さんによろしく伝えといてね」

「うん! またねー!」手を振る春雄に、秋実は元気良く手を振り返す。

どうやら今日の買い物は熱が入りそうだと意気込むと、秋実はスーパーへと駆け出して行った。


    ☀


「ありがとうございました!」

 店員の声に見送られて、秋実は大きなスーパーのレジ袋を抱えて外に出る。天気もくもりから晴れになっていた。

 春雄の事を知らせる為に早く帰ろうと、歩き出すと、手前から帽子を深く被った男の子が歩いて来るのが目に入った。

 自分の前には他にも大勢の人が居たのに、何故その男の子が目に入ったのだろうと、目を凝らすと、相手もこちらを見つめているのが分かった。

 男の子はそのまま歩いて秋実の前まで来ると、立ち止まって帽子を取る。そしてにこやかに笑い掛けて来た。

「ひさしぶりだね」

「冬樹くん?」秋実は男の子の名前を言うと、男の子は小さく頷く。

「そうだよ。三か月ぶりだよね」

「うん。まさかまた会うなんて思いもしなかった」

「本当は直ぐにでも会いに来たかったんだけど、色々とじゅんびがいそがしくてね。まぁそれは良いや。おねえちゃんにたのみたい事があるんだ」

「たのみたい事?」

 ほぼ初対面で何を頼まれるのかと秋実は若干身構えながら聞くと、冬樹は少し躊躇う様な仕草を見せた後、言い辛そうに声をどもらせながら呟いた。

「……あ、明日。一日ぼくとあそんでほしいんだ」

「…………えっ?」予想していたのと百八十度違った頼みに秋実は思わず聞き返す。

「今は夏休みでしょ? だから遊びのおさそい。だめかな?」

「別に良いけど……、私なんかで良いの? 同じ男の子の方があそびやすいんじゃないかな?」

「良いの! この三か月の間、ずっとおねえちゃんとあそぶ事を考えていたんだから」

「そ、そう……? きみが気にしないんだったらわたしは別に良いんだけど」内心そんなに楽しみにされても困ると思いながら秋実は答える。

「本当!? それじゃあやくそくだよ!」大袈裟に喜ぶ冬樹を見て、秋実は小さく笑うと人差し指を立てて冬樹の目の前に持っていく。

「でも一つだけわたしもたのみ事!」

「何かな?」冬樹はにこにことした顔で聞く。今の様子だったらどんな事でも応えてくれそうな気がした。

「明日だけなんて言わずに何日でもあそぼ? 三か月も考えていてくれたんでしょ?」

それを聞いた冬樹は少しの間キョトンとした顔をしたが、秋実を見て表情を輝かせた。

「うん!!」

 力強く頷く冬樹を見て、秋実は笑みを浮かべる。

友達と一緒に遊んだ経験もあんまりない秋実が、こんな提案をするのは、内心自分でも驚いていた。

「それじゃあ明日のお昼に公園に来てよ。むかえに行くからさ!」待ち合わせの約束に小さく頷くと、冬樹は手を振りながら走り出す。

秋実は片手に持った買い物袋の重さなんかも忘れて、冬樹が見えなくなるまで手を振り返した。

「よし! そろそろ帰らなくちゃ」買い物袋を両手に持ち直し、秋実は家への帰り道を歩き出す。

 楽しい夏休みは始まったばかりだ。


     ☂


午後七時。秋実の家にやって来た春雄は玄関のチャイムを鳴らす。

ポーン ポーン

 聞き慣れた音が鳴り響いた後、暫くして扉の奥からパタパタと駆け寄って来る足音が聞こえて来ると、直ぐに扉が開いた。

「おじさんいらっしゃい!」誰が来たかも確認もせずに迎えてくれる秋実に春雄は少しだけ苦笑いする。

「やぁ、秋実ちゃん。僕の事、お母さんに伝えてくれたかい?」

「もちろん! ほら、早く入って、外は雨がふってるからかぜひいちゃうよ」秋実はのんびりとした動きの春雄の手を掴んで家の中に連れて行く。

「昼はあんなに天気が良かったのに、急に降って来るもんだから参ったよ」秋実に促されるままにソファーに座る。夕食を作っている最中なのか、台所からは香しい匂いがする。

「今、タオル持ってくるね!」そう言って秋実は居間から出て行く。一人でよく働く子だと春雄は毎度の事ながら感心する。

 一人になった春雄は取りあえず辺りを見回す。今座っているソファー、目の前のテーブルの上には見慣れない絵本が置いてある。窓の方には春雄が去年の誕生日に買ってあげたぬいぐるみなんかも綺麗に飾ってあった。

「…………」

 その中で、一番目を引いたのは台所の近くにあるテーブルに置かれた大きなガラス瓶だ。中には時間が経って少し色あせた落ち葉が入れられている。

 春雄の居る所からだと台所が良く見えないので何だかガラス瓶が鍋の火の番をしているみたいに見えた。

「おじさん。タオル持って来たよ!」居間のドアを開けてタオルを持った秋実が現れる。

「ありがとう」春雄がタオルを受け取ると、秋実は直ぐに台所の方に向かった。「ごはん、もうすぐ出来るからまっててね!」

 そんな声の後に鍋の蓋を取る音が聞こえる。グツグツと煮立つ料理の音は、春雄の食欲を程好く刺激した。

「そう言えばもう直ぐ誕生日だったよね?」

「さすがおじさん、おぼえてたんだ? 八月の三十一日。ちょうど夏休みの終わる日だよ!」

「そうかぁ、だったら秋実ちゃんにあげるプレゼントを考えとかないとな」

「えへへ、おじさんのそういうりちぎなところすきだなぁ」

嬉しそうな秋実の声に春雄は笑みを深める。

毎年の誕生日プレゼントを春雄は欠かした事がなかった。そのおかげとは言わないが、秋実は春雄にとても懐いている。これは秋実が生まれてから今までずっと続いている関係だ。こんな事で秋実の一番になれる訳ではないが、一周のリードで勝ち越している第一位に対しての当て付けみたいなものだと春雄は思っていた。

(本当に、何時まで経ってもお母さんが大好きな良い子だ……)

 秋実のお母さんに対する愛情は、この家に来るだけで全てが分かる。それは羨ましくなる位に純粋で、春雄はつい悪態を吐きたくなってしまうのだ。

 春雄はソファーから立ち上がると、台所の近くの椅子に座って、頬杖をつく。チラリと見やる視線の先には、料理を作る秋実と、それを見守る彼女の一番がそこにあった。



 今日の夕食は春雄の為に特別豪華だ。オニオンスープにマカロニグラタン、そして春雄が大好物の鯖の味噌煮と、気合が入った品ばかりだ。

「うん! やっぱり何時食べても美味しいね。また来たくなっちゃう味だよ」

「うふふ……、そんな事言ってくれると、また作ってあげたくなっちゃうわね」

「お母さんはおじさんが来るといつもよりはりきっちゃうからね」

「あら、秋実ちゃんといっしょの時もがんばってるわよ?」

「ホントに~?」

 春雄を入れた三人での食事。こんな日はお母さんとの会話が何時もより弾む。秋実は春雄がこの家に居る時、何だかお母さんが何時もより元気になっているような気がしていた。

滅多に来ない来客というのもあるだろうけど、それだけでは無い。よくは分からないけれど、お母さんとって、何か特別な存在なのだろうと秋実は思っていた。

「でも秋実ちゃんも凄いな。このオニオンスープは秋実ちゃんが作ったんだろう?」

「そうだよ。お母さんに作り方を教えてもらって作ったんだ」

「将来、秋実ちゃんはきっと良いお嫁さんになれると思うよ」

「当然!」秋実は自信満々に胸を張る。それを見た春雄は小さく笑い掛けた。

「あっ。そうだ! おじさん、ごはん食べおわったら絵本を読んでほしいな」

「えっ? 別に良いけど、急にどうしたんだい?」

「とちゅうまで読んでほったらかしなのを思い出したの。夏休み中に読んで学校にかえさなくちゃいけないんだ」

「へぇ、まぁ僕で良ければ読んであげるよ。今日の御馳走のお礼にね」

秋実のおねだりを別に断る理由もない。絵本なんて何十年も読んでいなかったけど、読んで聞かせるくらいなら大した事は無いと、春雄はおねだりに応える。それに――

「おじさんならそう言ってくれると思った!」

――この子の笑顔が見られるなら安い物だと心の中で呟いた。


    ☀


八月十六日

お昼ご飯を済ませた秋実は、昨日の約束通り、あの公園までやって来た。夏休みの最中だというのに公園に居る人の数は少ない。思えば冬樹と公園で出会う時は何時もこんな感じだったなと思い出す。

「やぁ、来てくれたんだ!」後ろから聞こえて来た声に振り返ると、何時の間にか冬樹が立っていた。

「いつからいたの?」と聞くと、冬樹はニコリと笑うだけで答えなかった。

その代わりに冬樹は秋実の手を握ると、しっかりとした体温が手と手を通じて伝わって来た。「さぁ、あんないするよ」



「ねぇ、どこまで行くの?」

「もうすこしで着くよ」

導かれるまま歩く事、十数分。未だに二人の手が離れる事は無い。公園の外に出てから随分と歩いたけれど、この付近の場所は、公園と学校とスーパーしか行った事が無かった秋実には、自分が何処に居るのかまるで見当が付いていなかった。

チラリと辺りを見やると、建物が次第に少なくなっていっているのが分かる。

 更に少し歩いてから、大きな池の前でやっと冬樹の足が止まって、秋実の方を向く。「魚つりはしたことある?」

 秋実は黙って首を横に振る。すると冬樹はニッコリと笑った。「それは良かった。あそびっていうのはしんせんな方が楽しいからね」

「そういうものなの?」

 呟く秋実に冬樹は首を縦に振ると、近くの茂みを漁り始める。何かと思い秋実が近づいてみると、掻き分けた茂みの中から手作りの釣竿が丁度二本現れた。冬樹が事前に仕込んでいたのだろう。

「さて、それじゃあコツを教えてあげるよ」そう言って冬樹は釣竿を秋実に手渡す。丈夫そうな木の枝で作られたそれは、意外に持つ側の事を考えて作られているのか、あまり重く感じないし、木の表面で怪我をしない様に、厚い葉っぱが巻きつけられている。

「エサはぼくが付けてあげるから投げ方と引上げ方かな? 先にぼくがやってみるからマネしてみてよ」冬樹は池の方に向いて釣竿を構える。両手を振るその動作には、一見力が籠っていない様に見えたが、釣り針の付いた糸は、広い池の真ん中くらいまで飛んで行った。

 トプン、と水の跳ねる音が弱く響く。

「さっ、やってみて」冬樹の声に秋実はハッとする。恐る恐る冬樹の隣まで来ると、釣り竿を握る手に自然と力が籠った。

冬樹はその様子を見つめながら、柔らかく微笑んだ。「だいじょうぶだよ。おちついて……」

(えっと……、こうだったかな……?)先程の冬樹の動作を思い出しながら体を動かしていく。腕だけではなく体全体を使う様な気持ちで釣竿を振る。すると小気味良い音と共に、釣り針が池の中に落ちて行った。

「うん! はじめてであれだけとぶならすごいくらいだよ」

「ホントに?」

「本当だよ。さて、魚がかかるまで少しまっていようか」釣りはのんびりと待ちながらするものだと冬樹は言う。しかし、これが初めての体験な秋実は早く魚が掛からないかと、水面をじっと見つめていた。



 やがて、冬樹の方の糸に何かが掛かって来た。

「おっ!? 来たな――」糸を引っ張る存在を相手に、慣れた手付きで釣竿を引っ張っていく。水の飛沫が此方側まで飛んでくるギリギリの所まで引き付けたら、冬樹は釣竿を思いっきり引っ張り上げた。

 今までの水音は何だったのかと思うくらいに小さな音を出して、掌くらいの大きさの魚が現れる。一緒に飛び散る飛沫が、太陽の光に反射されてキラキラと輝いていた。

「わぁ……!!」隣で見ていた秋実は思わず声を漏らす。

「はい、これで良しと」釣り針から魚を放すと、池の水を入れたバケツに魚を入れる。

「すごいね! なんかカッコいい!」

「そ、そうかな……?」人が釣ったのを見ただけで此処まで感動されるとは思わなかった冬樹は少しだけ照れる。誤魔化す為に視線を池に向けると、冬樹は水面を指差した。

「あっ!? おねえちゃんのつりざお引いてるよ!」

「えっ!?」振り返ってみると、水面を暴れる小さな影が見える。冬樹の方に気を取られていたからか、自分の釣竿を引っ張る力に気付いていなかったのだ。

「うわっ!? え、えっと、どうしたらいいんだろう!?」慌てて釣竿を引き始めるが、魚の引っ張る力が思った以上に強く、上手くコントロール出来ない。

「あわてないで。そのまましっかりつかんでいるんだよ」そう言うと冬樹は秋実の直ぐ近くまで駆け寄り、一緒に釣竿を掴む。

「ゆっくり引っぱるんだ。急にやったら魚がにげちゃうからね」

「う、うん……!」

冬樹の手の動きに合わせて自分の手を動かしていく。水面の影がゆっくりと確実に近づいて来て、秋実の緊張を誘う。

 獲物を十分に引き付けた所で、冬樹は釣竿から手を放してしまう。「さぁ、ここからはおねえちゃんだけでやってみてよ。思いっきり引っぱり上げるんだ!」

「…………」秋実は無言で頷くと、釣竿を握った両手により一層の力を込める。

「――えいっ!!」掛け声と共に、釣竿を勢い良く引っ張り上げる。水面の弾ける音が辺りに広がり、少し離れた所に何かが落ちた音がした。

 恐る恐る音のした方に振り向いてみると、其処には先程まで魚を捕らえていた釣り針と、威勢良く暴れ回る魚を持った冬樹が立っていた。

「おねえちゃんやったね! 一回目でつれちゃったよ」秋実の釣った魚を見せながら冬樹はニッコリと笑う。

「ほ、ホントにつれたんだ……」秋実は信じられないという顔で呟く。

冬樹はその魚をバケツに入れると、手招きをして秋実を呼ぶ。心なしか早足になって近寄ると、秋実はバケツを覗き込んだ。

グルグルと二匹の魚がバケツの中を泳いでいるのが見える。

「あれ? ぼくのつったやつの方が少しだけ小さいや。ちょっとくやしいな」一緒に覗き込んだ冬樹が呟くと、秋実は満面の笑みを浮かべる。「今回はわたしのかちだね!」

「ええっ!? おねえちゃんずるいよ。勝負だなんて言ってなかったじゃんか!!」

「それじゃあこれからしょうぶしよっか? どっちが大きなのつれるかどうか」

「よし、のぞむ所だ!!」

 宣戦布告に応じる冬樹の声と共に、二人は一斉に釣竿を構える。先に冬樹が、その直ぐ後に秋実の釣り針が池の中に沈んで行った。

「まいったと言わせるくらいのをつってやるからね!」

「じゃあわたしはそれよりも大きなのをつっちゃおうかなぁ?」

 最初の雰囲気なんか忘れて二人はお互いに笑顔で睨み合う。

 まだ太陽は真上にある。二人の勝負は長く続きそうだった。


     ☀


「社長、有給休暇の件で来たのですが……」

「ん? あー、君か。じゃあ何時も通り二十九、三十、三十一の三日間だね?」

「はい。すみません、お盆が過ぎた直ぐ後の時期に……」

「ははは、気にする事は無いよ。奥さんの命日なんだろ? その日くらいは顔を合わせてやらないと、可哀想じゃないか」

「……ありがとうございます」


     ☁


 あれから冬樹は秋実を色々な所に連れて行った。薄暗い廃墟の病院で肝試しや、町を一望できる丘、町の外れに生えた大きな樹で木登りなんかもした。時には秋実が遊び場を提案し、お互いの知っている場所を教え合った。

 そして夏休みも終わろうとしている八月三十日。遂に目ぼしい場所は行き尽してしまっていた。

 この問題は昨日別れる直前に話し合ったが、結局良い所は思い浮かばず、今日考える事にしていたのだ。

取り敢えず何時もの公園に集まった二人は、設置されているベンチに座って項垂れていた。

「うーん……、やっぱり思いつかないなぁ」

「そうだね……」

 今日は大勢の子供達が公園の遊具で遊んでいる。恐らく夏休みのラストスパートを存分に楽しもうという算段なのだろう。そしてその中で完全に燃え尽きていた二人は明らかに浮いていた。

 特にする事もない秋実は、公園で遊ぶ子供達を眺めながら、遊んだ日々を振り返る。

(魚つりに木のぼりにきもだめし、夕方だったけど花火なんかもしたっけ……、あっ、買い物なんかにも付き合ってもらったなぁ。かえりにアイスを買っていっしょに食べたんだよね……。あとは――)そこで思い出す。まだ二人が言った事の無い場所、それがこの公園にあった。

「ねぇ、冬樹くん!」

「んあ? なに?」

 完全に気が抜けてた冬樹は間の抜けた声で返事する。振り向いた先の秋実の顔は、何故か輝いていた。

「ちょっと、ついて来て!」

 ベンチから立ち上がり、半ば強引に冬樹の手を掴むと走り出す。

「うわあっ!? ちょっと、どこ行くの!?」

「着くまでないしょ!」

 そう言って、二人は公園の茂みを潜り抜け、奥の林の中に入って行く。段々と子供達の声が小さくなっていくこの感覚も随分と久しぶりだ。

 林に入って物の数分、走ったからか目的の場所には直ぐに辿り着いた。

「ここだよ! わたしのお気に入りの場所!」

 そこは林の中に一か所だけある開けた広場。誰かが整備をしているという訳でもないのに草木が綺麗に揃えられた不思議な場所は、三か月来なくても健在だった。

「へぇ……、公園にこんな場所があったんだ……」冬樹は物珍しげな視線で辺りを見回す。流石の冬樹もこんな場所があるなんて知らなかったようだ。

「二年前に見つけてね。学校が休みの日はほとんどここであそんでたの。わたししか知らないひみつの場所なんだ」

「良いの? そのひみつの場所をぼくに教えてさ」

「…………………………………………………………あっ」長い沈黙の後、秋実はその質問に対して思わず声を漏らした。別に忘れていたという訳では無いが、この場所を誰かに教えるという行動の重要性を深く考えていなかった。

 秋実は暫く考え込んだ後、チラリと冬樹の顔を見つめて自分にしか分からないくらいに小さく頷いた。

「冬樹くんなら良いや」

「えっ?」

「うん! きみにはここを知っていてほしいな!」

「どうしてさ?」

「わたしは一人じめにしたいくらいこの場所がいるのがだいすきなの。……でも、さっきまでそんな事わすれちゃってた。何でか分かる?」

「…………」冬樹は何も言わずに首を横に振る。それを見て秋実は微笑んだ。

「見つけちゃったの。この場所よりもすきな所!」

「……秋実おねえちゃん」冬樹は小さく秋実の名前を呼ぶ。何でそうしたかは本人にも分からなかった。

 辺りはとても静かだ。子供達の声は勿論の事、鳥の鳴き声や虫の声も聞こえない。唯一、風で揺れる木の葉の音だけが、二人を包んでいた。見つめる冬樹の視線に、秋実は一層笑みを深めた。

「……わたし、きみといっしょにいる時がすき」

自分が思っていた以上に大きな声は出なかった。

それでも冬樹の耳にはしっかり届いたようで、目を見開いたまま動かない。

秋実はゆっくりと深呼吸をした後、力が抜けた様にその場に座り込んだ。

何も考えられなくなった。思った事を正直に口に出しただけなのにそれだけで疲れ果ててしまっていた。

 それから少しして、隣に冬樹が座り込んだ。驚いた秋実は横に視線を向けるが、冬樹は真っ直ぐに前を見つめているので目が合う事は無い。

「…………」

 冬樹は何を言えばいいのか分からなかった。結局何を考えても良い答えは出なかったので、彼は彼女の隣に居る事にした。


     ☀


 同日の午後一時頃。今日は珍しくスーツではなく、私服を身に付けた春雄は、町の外れにある墓場の中を歩いていた。綺麗に敷き詰められた石畳の道を進み、目的の墓石の所まで辿り着くと、お供え物を入れたビニール袋を持ち上げて小さく笑う。

「やぁ、久しぶりだね。今年も一日早く来てしまったけど許してくれるかな?」そう言いながら袋から小さな花とお菓子を取り出して台に置き、用意していたライターで蝋燭(ろうそく)と線香に火を点けて、香炉に寝かせる。直ぐに細い煙が立ち上り、なんとも言えない匂いが鼻を刺激した。

 春雄は静かに手を合わせると、ゆっくりと目を閉じた。

 少し経って目を開けると、お供え物を袋に戻して、代わりに新品の雑巾を取り出す。お供えをしてからの掃除は、墓参りの順序としてはバラバラだが、春雄は毎回この順番でお参りをしている。雑巾で墓石を拭きながら身の上話をするのが春雄の墓参りのやり方だった。

「君が死んでからもう十年になるね。僕の方はまぁなんとか上手くやれているよ。仕事も上々の働きだって社長が言ってくれている。ただ……」何か言い掛けた所で春雄の手が止まる。しかし、それも数秒の事で、直ぐに掃除を再開した。

「ここに来てないのを見て分かると思うけど、あの子はまだあいつの傍に居るみたいだ……」

今度は話が止まる。それから春雄は喋らなくなり黙々と掃除が進んで行く。

 大体の掃除が終わって一息つくと、春雄は墓石の名前を見て苦笑いする。「無責任だろ? 僕はあの子に対して事実を言わずに事実を分からせようとしているんだ。反発されるのだとしても名乗り出るくらい訳無い筈なのにさ……」そこで春雄は少しだけ俯いて、溜息を吐いた。

「済まない……。君の前に居るとつい甘えてしまうのは僕の悪い癖だ。一番辛いのは他でもない君だったね」春雄はビニール袋を持ち直し、正面の墓石を見つめる。

「あの子はよく僕の事を優しいって言ってくれるんだ。でもそれじゃあ駄目なのは分かっている。そろそろおじさんからは決別しなくちゃいけない」

 春雄は自分の覚悟を染み込ませる様に、しっかりと頷く。

「今度君の所へ来る時はあの子も一緒だ。やれるだけやってみるよ……。あの子の父親だからね」


     ☀


遠くで鴉の鳴き声が聞こえて来た気がした。

冬樹は徐に空を見上げてみると、すっかり夕焼け色に染まった空が、林の樹から覗いていた。

もうこんな時間なのかと立ち上がろうとすると、肩に掛かる少しばかりの重みが、それを邪魔した。

首だけを動かして横を見やると、冬樹に身体を預けたまま眠ってしまっている秋実の顔が目に入り、少しだけ怯んだ。

微かに聞こえてくる寝息が耳をくすぐる。一体何時からこの状態で、何時から眠ってしまったのだろうか。

もしかしたら自分も眠っていたのかもしれないと冬樹は思うと、秋実を起こす為に身体を軽く揺さぶった。

「んぁ……、ううん……? ふゆき……くん?」そこまで眠りは深くなかったのか、秋実はすんなりと目を覚ますと、寝ぼけた目で冬樹を見る。

「起きた? もう夕方だよ。そろそろかえらないとくらくなっちゃうよ」

「うん…………」まだ意識が定まっていないのか、覚束ない足取りで立ち上がろうとする。それを見た冬樹が、秋実の手を繋いで引っ張り上げた。

「――あ、ありがとう」

「さっ、行こう」そう言って冬樹は手を解こうとすると、秋実が手を握り返して来た。何かと思い振り返ってみると、秋実は困った様に笑っていた。

冬樹は小さく息を吐くと、解こうとした手を握り直して歩き出した。

もう遅い時間だからか、公園の方から遊んでいる様な声は聞こえて来ない。二人が林を抜けて公園に出てみると、案の定公園の中に人は誰一人として居なかった。

秋実は握っていた手を放すと、公園の中心に立つ。「なつかしいなぁ。きみと会った時もあの場所でねむっちゃっていたんだ」

「そうなの?」

「うん。だからきみに会えたのもあの場所のおかげ!」大切な場所がもっと大切になったと秋実は笑う。

 冬樹は照れ隠しに右手で顔を拭うと、秋実の近くにある遊具に手を掛けた。

「ねえ? まだこの公園であそんだことなかったよね? 少しだけいっしょにあそんで行こうか?」

「ホントに!? わたしこの公園に何回も来ているけど、あそぶのはじめてなの。はじめてがいっしょになんて何だかうれしいな!」

 駆け寄って来る秋実に冬樹は苦笑いする。「大げさだ」

「良いの! わたしにしか分からないことなんだから!」秋実の言い分にもっともだと冬樹は頷く。

「それじゃあぼくの思っていることもぼくにしか分からない事だね!」

「何て思っているの?」わたしはきみに教えたよと秋実は言う。

「へへーん、ないしょ。ほら、もう時間もないし、急いであそぼうよ!」そう言って冬樹は走り出す。

「えーっ!? ずるいよ! ちゃんと教えて!」そう言って秋実は冬樹を追い掛ける。

 冬樹はするすると公園にあるアスレチックを進んで行くと、途中で立ち止まって振り返った。「それじゃあおにごっこしようか? ぼくをつかまえられたら教えてあげるよ!」

「よーし、ぜったいだからね!」冬樹からの提案に応じると、秋実は慣れない足取りでアスレチックを渡って行く。

その間にも冬樹はどんどんと先に進んで行き、見渡しの良い高台の場所でこちらに向かって来る秋実を眺める。

「ほらほら、そんなペースじゃおいつけないよ!」

「そ、そんな事言ったって……」初めて渡るアスレチックに思った以上に手こずる。

「まぁ、ゆっくりおいでよ」

「う、うん……」

 秋実の返事を聞いたら、冬樹はその場に座り込む。どのみちアスレチックの終着点はこの高台だ。ここから先には何処にも進めないし、下に降りる為の滑り台は来た道を引き返さなくてはならない。

夏休みの間中ずっと冬樹と色んな所に行った秋実ならここまで来られない理由は無い。この鬼ごっこは最初から冬樹の負けと決まっているのだ。

「…………」冬樹はふと空を見上げる。秋実と初めて会った時も丁度今の様な太陽が沈みかけの頃だった。

 あの頃は、テレビでやっていた日食の番組を偶々見かけたから太陽を見つめていただけの事だったのだが、まさかそれがきっかけで秋実と知り合うなんて思いもしなかった事だ。

 そして偶々出会って、何故だか一緒に太陽を眺めて、それからその子の事が妙に気になって、探し回って、見つけて――

 思えば何で秋実の事が気になったのかも今では良く分からない。三か月もの間、ずっと探し続けるくらいだった筈なのに、その理由はぽっかりと抜け落ちていた。

「まぁ良いや……」思い出せないのは今が満たされているからだと笑い捨てる。立ち上がって見下ろした町の風景が、何時もより綺麗に見えた気がした。

 ふと背後から聞こえて来た足音と、少し乱れた呼吸に振り返ると、勝ち誇ったような顔をした秋実がそこに立っていた。

「どう? おいついたよ!」そんな何処までも素直に着いて来てくれる女の子を見て冬樹は自然と顔が綻んでしまう。

「ぼくもだよ」

「えっ……?」

「ぼくもおねえちゃんといっしょにいるのがすきなんだ」

 自分の顔が赤いのは、夕日の所為だと心の中で言い張った。


     ☁


「ただいま……」

 薄暗い静かな家の中で、秋実の声が小さく響く。靴を脱いで、お母さんの居る台所の前に手を洗う為に洗面台に向かう。

「あら? おかえりなさい」

「…………たっ、ただいま」行き成り聞こえて来た台所からの声に驚く。あまり大きな音を立てた覚えはないが、お母さんは秋実が帰って来たのに気付いていた様だ。

「今日はまたずいぶんとおそかったのね? 何かあったの?」お母さんはドアも開けずに話を続ける。ドア越しで聞こえて来ているからか、その声はくぐもっていて何だか奇妙だった。

「えっ!? な、何でそんな事聞くの?」

「何でって……夏休みの間中ずっとおそくかえって来てるから何をしているのかなって。秋実ちゃんさいきんお話ししてくれないし……」

「べ、別に……、ふつうにあそんでいるだけだよ」

「…………ホントに?」

「本当だよ! ほら、そんな事よりもごはんまだ出来てないでしょ? わたしも手伝うから」

「そうね。いっしょに作りましょうね」上手く話を逸らして秋実はホッと一息ついた。

別に冬樹の事を内緒にしようだなんて事は思ってはいなかったが、何故だか言い出すタイミングが掴めずに居たのだ。況してや今日起こった出来事を考えれば話題に出す気すら起きない。今、思い出しただけでもまだ顔が熱くなる位なのだから。

(明日、気持ちがおちついたら話してあげよう)

何しろ二週間もの間ずっと帰りが遅いのだ。その理由を教えてくれない娘が居たら、親の立場から考えたら心配で仕方ないというのは当然の事だろう。

改めて手を洗う為に洗面台に向かう。お母さんももう質問は無いのか台所は静かだった。






                         ウソツキ



     ☁


 八月三十一日 夏休み最終日

 その日、カーテンの隙間から差し込む日光で秋実は目覚めた。

 寝ぼけた眼を右手で擦り、目覚まし時計を確認すると、午前十一時になっていて秋実は少し驚く。

 慌ててベッドから起き上がると、タンスを引っ張って一番上にあった服を取り出す。別段夜更かしをしたつもりなど無かったのだがそんなにも疲れが溜まっていたのだろうかと着替えながら考える。

「お母さん、いつもなら起こしてくれてたのに!」そんな言われても困るような文句を、階段を下りながら言うと、台所へのドアを開ける。そこで動きが止まった。

「……あれ?」数秒の間、視線が辺りを何周も駆け巡り、最後に己が目を疑う。しかしそこにはある筈のものが無かった。

「……ぁれ! あれ!! あれ!?」幾ら周りを見ても見つからない。やがて秋実は台所に入らずに部屋の中を走り回った。

「お母さん!? どこ!? お母さん!!」家の中にある部屋という部屋を全て回る。しかし、そこに自分以外の人は居なく、秋実はまた台所に戻って来てしまった。

「……あ……ああっ………」声にならない声が口から洩れる。何者かに引っ張られるようにぎこちない動きで台所に入ると、テーブルの前で立ち止まる。

「…………」

 視線の先にあるのは、テーブルの上に置いてある萎れた落ち葉の入ったガラス瓶。もうすっかり黒ずんでしまっている。

 秋実はガラス瓶を手に取ると、台所を後にして、家から外に出る。

「むかえに行かなくちゃ……」

 ふと目に入った大きな樹は、その葉を真っ赤に染めていた。


     ☀


「……遅いな」公園の騒音の中、冬樹はベンチの隣に立つ時計台を見つめて呟いた。時間は午後一時を差している。

 何時もならもう公園に着いていても可笑しくない時間なのだが、今日は何時まで経っても秋実がやって来ない。

 昨日の事をまだ引きずっているのかと思ったが、別れ際にはもう落ち着いていたのを思い出して考えを改めた。それに同じ状況の冬樹が此処に来ているのだからそうとは考えにくい。

 冬樹は公園の出入り口を出て辺りを見渡す。しかし、幾ら待っても新しく人が入ってくる気配はなさそうだった。

「……もう少し、まってみようかな」出入り口付近の壁に背中を預ける。待つのは嫌いじゃないけれど、折角思いっきり遊べる夏休みの最終日だ。出来るなら長く遊んでいたいと思うのが心情であった。

「…………」それにしても今日は良い天気だと、冬樹は思う。目の前では太陽の光に照らされた木々が、青々とした葉っぱを輝かせている。それに夏の風物詩とも言うべきセミの鳴き声も聞こえて来ていた。

 そんな事を考えながら、秋実を待つこと約一時間。流石にそろそろ待ちくたびれてきた頃、冬樹の前をスーツ姿の男が通りかかった。さっきまで走っていたのか顔には汗が噴き出ており、呼吸が妙に荒い。

 暫く様子を見ていると、冬樹の視線に気づいたのか、男は呼吸を整えながら近寄って来る。

「君、此処の近所の子かな? 一つ聞きたい事があるんだけど、ガラス瓶を持った女の子を見かけなかったかな?」

「えっ? 見てないけど……」変な質問に冬樹は少し不審に思いながら答える。すると、男は小さく溜息を吐いて、軽い会釈をしてその場から立ち去ろうとした。

「あの……、その子がどうかしたの?」聞かなくてもいい筈なのに思わず聞いてしまう。

男は立ち止まり、冬樹を見つめると、困った様に頭を掻く。「その子は僕の娘なんだけど、何処かに居なくなっちゃったんだよ。今日はその子の誕生日だったから早めに会いに来たんだけど、まさか居なくなっているだなんて……」

 男の言葉に冬樹は首を傾げた。「別にあそびに行っているとかじゃないのかな?」

「何時もなら僕もそう考えたんだろうけど、今回はそんな訳にはいかないんだよ」

「どういう風に?」奇妙な物言いに冬樹は訝しげな顔をする。男は優れない表情を更に悪くすると、首を横に振った。

「説明は難しいんだ。とにかくあの子がガラス瓶を持って行ったっていうのが問題なんだよ。まだ紅葉なんて始まってもいないっていうのに……」

「へぇ……、なんかたいへんなんだね」

「まぁ、取り敢えず見かけたらおじさんに教えてよ。あっちの方を探したらまた来るからさ」

「分かった。その子の名前は?」

「秋実っていうんだ」

「…………えっ?」

その名前を聞いた瞬間、冬樹の身体はピタリと固まった。そんな様子に気づいていない男は、「それじゃあ頼んだよ!」と言って走り去って行く。

 暫くして我に返った冬樹は、男が走って行った方を向く。まだ男の姿は見えるくらいに近い。冬樹は頭の中に様々な思考が渦巻く前に走り出すと、人目もはばからずに大声を上げた。

「おじさん!! ぼくもおねえちゃんをさがしに行くよ!!」


     ☀


 気が付けば秋実は自分の学校の校庭に立っていた。校門を見ると閉まっていて、自分がどうやって入って来たかも良く分からない。

「…………」秋実は無言でカエデの樹の下まで来ると、地面を食い入るように見つめる。其処にあるのは真っ赤な落ち葉、葉先が五つに分かれていて、広げた掌の様な形になっている。

 秋実はガラス瓶の蓋を開けると、中に入っている落ち葉を捨てて、新しい落ち葉を中に拾い入れる。

 落ち葉の量がガラス瓶の半分くらいにまでなって、蓋を閉めると、秋実はガラス瓶をじっと見つめた。

「…………ちがう。お母さんがいない!」秋実はそう叫ぶと、ガラス瓶の中の落ち葉が見る見るうちに綺麗な緑色に変色していく。それを見た秋実は顔を青くして学校の方に歩き出した。

「お母さん……どこ……?」生徒玄関の前まで来ると、当然の如く扉に鍵が掛かっている。秋実は数回扉をガタガタと揺すった後、右手に持ったガラス瓶を扉のガラスに投げつけた。

 ガシャン、と大きな音が鳴り響き、扉のガラスが一枚割れて小さな穴が開く。秋実はその穴を潜ると、割れたガラスの破片が右腕を引っ掻いてザリッ、と嫌な感触が体に響いた。それでも秋実は気にせず穴を通り抜けると、地面に散らばったガラスの破片を靴で踏みしめ小さな音が鳴る。学校の中に入り込んだ秋実は、上履きを履き替える事もせずに、学校の奥へと進んで行った。


     ☀


 秋実が学校に入り込んでから約二時間後、冬樹と春雄は学校の校門前まで辿り着いていた。

「おじさん、本当にこの中におねえちゃんがいるの?」

「近所の人から聞いた話だと間違いないよ。それに様子が可笑しかったみたいだし、急いで見つけてあげなくちゃいけない!」春雄がそう言うと、二人は校門の柵をよじ登る。

「君は此処で待っていてくれ。もし秋実が出て来たら、君が引き止めるんだ」

「う、うん。分かった」冬樹はしっかりと頷くと、春雄は小さく笑う。「良い子だ。これからも秋実と仲良くしてくれよ」

 そう言って春雄は学校の中に入って行く。一人残された冬樹は校庭の真ん中で空を見上げる。何処からか、秋実の声が聞こえて来たような気がした。


     ☀


 どれくらい学校の中を歩いたのだろうか。何時の間にか秋実は学校の屋上に辿り着いていた。右腕の切り傷がジンジンと痛みを訴えるが、今の秋実はそんな事を気にしている余裕はない。

 ゆっくりとした足取りで、飛び出し防止の柵まで歩くと、おもむろに下を覗き込む。其処には今まで見た事が無い程に綺麗なカエデの紅葉が輝いていた。その中の中心に、何かがぼんやりと浮かび上がる。

「…………お母さん?」秋実は目を見開く。真っ赤な紅葉の中心で、お母さんが優しい笑みを浮かべながら、両手を広げているのが見えるのだ。

「お母さん!? お母さんだよね!?」秋実は思わず柵から身を乗り出す。

「秋実!? 何をしているんだ!?」屋上のドアを開けて入って来た春雄が、声を上げる。

「お母さん!!」春雄の声が聞こえていないのか、振り返りもせずに、秋実は柵の向こうへと叫び続けている。

「秋実、止めるんだ!」今にも屋上から落ちてしまいそうな秋実を止める為に春雄は走り出す。

「お母さん。わたしをおいて行かないで!!」

より一層身を乗り出したその瞬間、秋実の体が宙に浮いた。それはあまりにもあっさりとした動きで、秋実にも春雄にも今何が起こっているのかすこしの間だけ理解できなかった。

「うわああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」目の前で起こった事の意味を理解した春雄は走りながら叫び声を上げ、落ちて行く秋実に、決して届かない手を伸ばす。

 それとは対照的に秋実は無言だった。でも今自分に何が起こっているのかは分かっていた。落ちて行く中で、自分に手を伸ばす春雄と目が合い、何故だか心の中がざわついた。

 でもそれも過ぎた話だ。今自分は屋上から落ちている。その事実はもう誰にも変えられない。

 秋実は自分が落ちて行く地面に顔を向ける。其処には自分を受け止めようと両手を広げているお母さんが居る。時間が過ぎて行くに連れて、その顔は鮮明に見えて来る。それは秋実の全てを飲み込もうとする程の、優しすぎる完璧な笑顔だ。

『お母さん、何でわらっているの?』

『早くおいで、かわいい秋実ちゃん……。わたしの所に……』

『どうしてわらっていられるの?』

『こわくないよ……。しっかり受け止めてあげる……』

子供(わたし)が死にそうなのに』

『サァ、オイデ……』

『………………違う』

『ワタシノアキミチャン……』

『あなたはお母さんなんかじゃない!』

『……ダレニモワタサナイ』

 落ちて来る秋実に、下のモノが手を伸ばす。それはお母さんの白い手では無く、吸い込まれそうなくらいに何処までも黒い、影のような手だ。それを見た秋実は数か月前に聞いた黒い手の幽霊の話を思い出す。

 幽霊に襲われない為の対処方法は一人にならない事、それは今の秋実にはどうしようもない事だ。唯一味方をしてくれた春雄は屋上に居る。今からではどうやっても間に合わない。

 秋実はせめて目の前の存在を否定する様に目を閉じる。自分を守る為に出来るのはそれだけだ。


「おねえちゃん!!」


 鈍い音と共に意識を失う直前で、きっとまだ公園で自分の事を待ってくれているだろう冬樹の声が聞こえて来た気がした。


     ☀


「…………うっ……ううん」

 窓から差す白い光が刺激し、秋実は目を覚ました。最初に目に入ったのは真っ白な天井、次に白いカーテンがパタパタと目の前で風に揺れていたのが見えた。

「いたっ……!? ここはどこ……?」起き上がろうとすると、頭に鈍い痛みが走り、顔を歪める。反射的に頭に手を当てると、包帯の感触が伝わって来た。

 まだぼんやりとした視界の中、状況を把握しようと顔を横に動かす。自分の直ぐ横に、点滴の吊るしがあるのを見つけて自分が今、病院に居る事を理解する。

「……そうか、たすかったんだ」学校の屋上から落ちた記憶は鮮明に残っている。きっとあの後直ぐに春雄が救急車を呼んでくれたのだろう。そうでなければ自分は死んでいた筈なのだから。

 自分の状況が分かり、意識が鮮明になってきた頃、病室のドアが静かに開かれる。秋実は顔をそちらに向けると、ドアの先には少し驚いた顔をした春雄が立っていた。

「良かった。目が覚めたんだね!? 先生からは命に別状はないって言われたけどやっぱり心配だったんだ」春雄は起き上がっている秋実を見て顔を綻ばせると、ベッドに駆け寄った。

「あの……おじさん。わたし、どうしたんだっけ?」

「うん? どうしたって、屋上から落ちたんじゃないか。あの時は本当に寿命が縮んだよ」

「そうじゃなくて! あの……、色々分かっちゃったんだけど、まだ良く分からなくて……。お母さんはいたのにいなくて……、わたしがお母さんと思っていた人は、お母さんじゃなくて……、でもお母さんとはずっとくらしてて……あ、あれ?」

 分かっている筈なのに上手く言葉が口から外に出てこない。

そんな様子の秋実に、春雄は優しく微笑みかけると、頭を撫でた。「分かってくれているなら無理に言わなくても良いよ。本来は僕が教える筈の事だったんだからね」

「……うん。おじさん……、おこってないの?」

「何でそう思うんだい?」

「だって、おじさんの言う事ぜんぜん聞かないで、けっきょく屋上から落ちちゃったし……」

「何だそんな事か……。怒らないよ。こんな事になるまで放って置いたのは僕自身だしね。寧ろ自分に怒りたいくらいだ」

「それでも、あやまりたいの。……ごめんなさい」

「……分かった。その気持ちだけでも嬉しいよ。さぁ、難しい話はもっと落ち着いてからにしようか。寝たきりだったからお腹が空いているだろう? ご飯までにはまだ時間があるからリンゴを切ってあげるよ」

「うん!」秋実は目覚めてから初めての笑顔を見せる。

 春雄は果物ナイフでリンゴの皮を剥くと、食べやすい大きさに切って秋実に手渡した。

 白い果肉を齧ると、シャクリと小気味良い音が立つ。身体は久しぶりの食事だからか、何時もより美味しく感じられた。

「それにしても今日起きてくれて良かったよ。丁度あの子が見舞いに来てくれる日だったからね」

「あの子?」リンゴを食べる手が止まる。春雄は小さく笑って秋実を指差すと「命の恩人だよ。知り合いなんだろ?」と言う。

「その子って、もしかして……!」

「ああ、丁度来た! あの子だよ。君より軽傷だったから直ぐに退院したんだ」春雄が窓を覗いて言うと、秋実はベッドから立ち上がって春雄の視線の先に目を向ける。

「…………!!」窓の外に居る人物を見て、秋実の目が大きく見開いた。

「迎えに行ってあげたらどうだい? きっとあの子も喜ぶと思うよ」そう言って背中を押す春雄に、秋実は小さく頷く。

 秋実は点滴の吊るしを押して、ドアの前に立つと、春雄が秋実の頭を撫でた。

「退院したら一緒に行って欲しい場所があるんだ。約束してくれるかい?」

 春雄の表情を見て、其処が何処なのか秋実には何となく分かった気がした。秋実は右手を強く握ると、春雄の方に向き直って、力強く頷く。

「うん、約束する!」

 その返事に春雄は優しく微笑むと、部屋のドアを開ける。

「行ってらっしゃい」

「行って来ます!」

 そんな二人でのやり取りが、これから先もずっと続けられる未来が待っていると春雄は確信していた。





     


 おんなのこのいのちをすくったおうじさまは、おんなのこのお父さんのびょうきをなおすやくそうを、おんなのこにわたすとこう言いました。

「お父さんがげんきになったらまたおいで、ぼくはきみをいつでもかんげいするよ」

 それをきいたおんなのこはたいそうよろこびました。

「きっと、また会いに来ますわ。ありがとうございます、冬の国のおうじさま」

 こうしてやくそくをかわした二人は、その後さいかいをはたし、すえながくむすばれましたとさ。


                     めでたしめでたし



    

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