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物集院秋津シリーズ

十峰町の天狗・裏

作者: 秋月恒一
掲載日:2026/09/18

『十峰村の天狗・裏』



第一章 一葉館



 秋も深まった頃だった。

 一葉館二階の応接間には、古文書が山のように積まれていた。

 言うまでもなく犯人は物集院秋津(もずめいんあきつ)である。

 私は原稿用紙へ向かいながら溜息をついた。

 十峰村から戻って既に一月近い。

 しかし秋津の中では、あの事件はまだ終わっていないらしかった。

 毎日のように十峰山入峰録(じっぽうさんにゅうぶろく)を読み返している。

 今もそうだ。

 窓際の机。

 卓上ランプ。

 積み上げられた写本。

 そして古文書を睨み続ける民俗学者。

 見慣れた光景だった。

 不意に声が飛ぶ。

「折口君」

 嫌な予感がした。

「なんです」

「面白いものが出てきました」

 予感は当たった。

「嫌な予感しかしませんね」

 私が言うと、秋津は気にした様子もなく頁を示した。

「これです」

 私は立ち上がり、机を覗き込む。

 十峰山入峰録。

 例の修験道記録である。

 後半の余白部分。

 後代の行者による書き込みだった。

「何なんです」

「道玄です」

 私は眉をひそめた。

「二百年前の」

「ええ」

 秋津は頷く。

「その道玄です」

 指先で一文を示す。

 崩し字だった。

 私は数文字しか読めない。

 秋津が読み上げる。


道玄、晩年ニ至リ疑ヒ深クナル。

常ニ錫杖ヲ携ヘ離サズ。

晩秋、錫杖ト共ニ御山ヘ入ル。

爾後帰ラズ。


 私は首を傾げた。

「それが何か」

 秋津は目を細める。

 あの顔だった。

 何かを見つけた時の顔である。

「おかしいのですよ」

「何がです」

「蓮真の錫杖は残っています」

「御影家にありましたからね」

「ええ」

 秋津は頷く。

「ですが道玄の錫杖は残っていない」

「山で失くしたんでしょう」

「導師の錫杖ですよ」

 即答だった。

「そう簡単になくなる物ではありません」

 嫌な予感が強くなる。

「先生」

「なんでしょう」

「探す気ですか」

 秋津はしばらく考えた。

 そして静かに笑った。

「私ではありません」

 珍しい返答だった。

 だが次の言葉で意味が分かった。

「物集院家が興味を持つかもしれませんね」

 私は原稿用紙へ戻りながら呟く。

「ろくなことにならない気がします」

 秋津は否定しなかった。

 ただ古文書へ目を落とし、小さく呟いた。

「さて」

「道玄は何を隠したのでしょう」

 窓の外では秋風が鳴っていた。




第二章 物集院邸



東京市本郷区

 冬が始まった午後、綾乃は母屋の廊下を歩いていた。

 庭木は半ば葉を落とし、吹き抜ける風には冬の気配が混じっている。

 使用人から呼ばれたのである。

「春雅様がお呼びです」

 綾乃は軽く頷き、兄の書斎へ向かった。

 障子を開ける。

 書斎には紙の匂いが満ちていた。

 壁一面の書棚。

 積み上げられた文書箱。

 大きな机の向こうでは春雅が書類に目を通している。

「兄様」

「ああ、綾乃」

 春雅は顔を上げた。

「座りなさい」

 向かいへ腰を下ろす。

 その時、机上の冊子が目に入った。

「十峰山入峰録ですか」

「その写しだ」

 春雅が答える。

「秋津から送られてきた」

 綾乃は少し笑った。

「秋津兄様は?」

「九州だ」

 即答だった。

「またですか」

「まただ」

 春雅も苦笑する。

「今度は天草らしい」

「兄様らしいですね」

「報告書だけはこちらへ送ってきた」

「珍しいこともあるものです」

 綾乃は肩をすくめた。

 秋津は資料を送り忘れることはあっても、自分の興味を忘れることはない。

 今回も十峰村から戻った後、一葉館で入峰録を読み続けていたと聞いている。

「それで」

 綾乃が本題を促す。

「何か見つかったのですか」

「ああ」

 春雅は机上の紙を一枚差し出した。

「これだ」

 綾乃は受け取った。

 紙には秋津の癖のある字で書き込みがなされている。

 原文の写しらしかった。


道玄、晩年ニ至リ疑ヒ深クナル。

常ニ錫杖ヲ携ヘ離サズ。

晩秋、錫杖ト共ニ御山ヘ入ル。

爾後帰ラズ。


 綾乃は顔を上げる。

「道玄の錫杖ですか」

「その可能性が高い」

 春雅が頷く。

「秋津が入峰録の追記部分で見つけた」

 綾乃は再び紙へ目を落とした。

 二百年前。

 蓮真を追い落とし導師となった男。

 そして晩年、人を信じられなくなった男。

 その道玄である。

「蓮真の錫杖は御影家に残っていましたね」

「ああ」

「ですが道玄の方は残っていない」

 春雅は静かに言った。

「少なくとも記録上はな」

 しばし沈黙。

 冬風が障子を揺らした。

「ただの遺品ではありませんか」

 綾乃が言う。

 春雅はすぐには答えなかった。

 指先で机を叩く。

「二百年間所在不明になっている導師の法具だ」

「大天狗伝承の発端となった人物のな」

 それだけで十分調査対象だった。

 物集院家はそういう家である。

「怪異ですか」

「あるかもしれない」

 春雅は言った。

「ないかもしれない」

「どちらです」

「分からん」

 正直な答えだった。

「だが放置すべきものではない」

 綾乃は頷く。

 それもまた物集院家らしい考えだった。

 危険かどうか分からない。

 だから調べる。

 安全と確認できるまで監督する。

 父も兄もそうしてきた。

「秋津兄様は何と?」

 すると春雅は小さく笑った。

「あいつは」

 一度言葉を切る。

「探してみたいですね、と書いている」

 綾乃も思わず笑ってしまう。

「そうでしょうね」

「私も同感だ」

 春雅は眼鏡を外した。

「秋津は記録しか見ていない」

「だが私は少し気になる」

 綾乃は兄を見る。

「何がです」

「蓮真の錫杖は残った」

 春雅は静かに言う。

「だが道玄の錫杖は残らなかった」

「勝者の遺品だけが消えている」

 確かに妙な話だった。

「何かを隠したのでしょうか」

「あるいは」

 春雅は窓の外を見る。

「何かから隠したのかもしれない」

 そこで初めて綾乃は兄の意図を理解した。

 これは歴史調査ではない。

 怪異の可能性を含めた確認作業だ。

「綾乃」

「はい」

「行ってくれるか」

 静かな依頼だった。

 だが断る理由はない。

 綾乃は写しを机へ置いた。

「分かりました」

「十峰村へ行きます」

 春雅は満足そうに頷いた。

「道玄の錫杖を探せ」

「怪異が絡んでいるなら回収」

「そうでなくとも記録は残せ」

「はい」

 綾乃は立ち上がる。

 障子の向こうには灰色の冬空が広がっていた。

 事件は終わった。

 康造は逮捕された。

 十峰村も平穏を取り戻しつつあるだろう。

 だが人の心が残したものは別だ。

 二百年前の裏切り。

 そこから生まれた大天狗伝承。

 そして消えた道玄の錫杖。

 それらはまだ終わっていない。

 部屋を出ようとした時だった。

「綾乃」

 振り返る。

 春雅が珍しく柔らかな表情をしていた。

「気を付けろ」

「十峰村の件は解決した」

「だが人の感情はそう簡単には終わらん」

 綾乃は微かに笑う。

「物集院家の仕事ですね」

「ああ」

 春雅は頷いた。

「そういうことだ」

 こうして綾乃は再び十峰村へ向かうことになった。

 二百年前に失われた一本の錫杖を探すために。



第三章 十峰村



 十峰村へ着いたのは翌日の昼を少し過ぎた頃だった。

 冬の山は静かだった。

 秋には紅葉で染まっていたという山肌も、今は色を失い、薄曇りの空の下に沈んでいる。

 吐く息が白い。

 綾乃は停留所を降りると、しばらく十峰山を見上げた。

 これが十峰村。

 秋津や恒一から何度も聞かされた村だった。

 大天狗伝承。

 蓮真と道玄。

 そして康造の事件。

 だが実際に訪れるのは初めてである。

「兄様が気に入るわけですね」

 小さく呟く。

 山は近く、そして深かった。

 あの山のどこかに道玄の錫杖が眠っているのだろう。

 綾乃は旅行鞄を持ち直し、峰雲院への坂道を歩き始めた。

 峰雲院の山門へ到着すると、一人の青年が境内を掃いていた。

 箒を動かしていた手が止まる。

「あの」

 綾乃が声を掛ける。

 青年が振り返った。

「はい?」

「物集院綾乃と申します」

 一瞬沈黙。

 次の瞬間、青年の顔が明るくなった。

「物集院って……」

「秋津兄様の妹です」

「ああ!」

 思わずというように声が大きくなる。

「なるほど!」

 綾乃は少し笑った。

 どうやら恒一の話は本当だったらしい。

 皆、物集院と言うとまず秋津を思い出すらしい。

「峰岸康次です」

 青年は頭を下げた。

「お待ちしていました」

 客間へ案内される。

 しばらくして現れた男は、秋津から聞いていた通り威厳のある人物だった。

「峰岸隆玄です」

「物集院綾乃です」

 互いに頭を下げる。

「遠路ご苦労様です」

「いえ」

 綾乃は穏やく答えた。

「今回は調査で伺いました」

「秋津先生からお話は聞いております」

 隆玄は頷いた。

「道玄の錫杖ですな」

「はい」

「二百年前の因縁も、なかなか終わらんものです」

 その言葉には苦笑が混じっていた。

 お茶が運ばれてくる。

 それを持ってきた女性へ綾乃は目を向けた。

 二十歳を少し過ぎた頃だろうか。

 落ち着いた顔立ちをしている。

「娘の梓です」

 隆玄が紹介する。

「初めまして」

 梓が頭を下げた。

「峰岸梓と申します」

「綾乃です」

 同じく頭を下げる。

 梓は柔らかな笑みを浮かべた。

 だが綾乃は少しだけ違和感を覚えた。

 笑っている。

 けれどどこか無理をしているようにも見えた。

 その後しばらく話をした。

 康次は村の近況を話した。

 神社のこと。

 冬祭りのこと。

 峰雲院のこと。

 事件後の片付けのこと。

 表面上は平穏だった。

 十峰村は少しずつ元の生活を取り戻しているらしい。

 だが時折、会話が止まる瞬間がある。

 誰も名前を出さない。

 それでも綾乃には分かった。

 皆が避けている話題がある。

 峰岸康造である。


 夕方。

 綾乃は境内を一人歩いていた。

 冬の日は短い。

 空は既に赤く染まり始めている。

 その時だった。

「梓さん」

 後方から声が聞こえた。

 振り返る。

 村の女性が立っていた。

 梓が会釈する。

「こんにちは」

「こんにちは」

 何気ない挨拶だった。

 世間話を少し。

 笑い声も聞こえる。

 だが。

 その女性が立ち去ると同時に、梓の表情から笑顔が消えた。

 ほんの一瞬だった。

 綾乃だけが気付く。

「知り合いですか」

 綾乃が尋ねる。

「ええ」

 梓は頷いた。

「子供の頃からお世話になっている方です」

「優しそうな方ですね」

「そうですね」

 そう言った後。

 梓は僅かに視線を落とした。

「皆さん優しいんです」

 どこか寂しそうな声だった。


 翌日。

 綾乃は村を歩いていた。

 商店の前では何人かの村人が立ち話をしている。

 その中に梓の姿があった。

 会話は和やかだった。

 しかし綾乃が近付くと、不意に話が途切れる。

 ただそれだけのことだ。

 どこの村でもある。

 話題が変わっただけかもしれない。

 だが。

 梓は一瞬だけ硬い表情を見せた。

 それを見て、綾乃は眉をひそめる。

 村人達と別れた後。

「何かありましたか」

 綾乃は尋ねた。

「いいえ」

 梓は首を振る。

「何も」

 少し間が空く。

「ただ」

「ただ?」

「皆さん気を遣ってくださるので」

 梓は曖昧に笑った。

 それ以上は話さなかった。

 その日の夕食後。

 居間でのことだった。

「神倉さんのところでは」

 康次が言う。

「古文書整理が進んでいるそうですよ」

 隆玄が頷く。

「恒太君が集めた資料も多いからな」

 その瞬間だった。

 梓がぴくりと反応した。

 極めて小さな動き。

 だが綾乃は見逃さない。

「美鈴さんも頑張っているそうです」

 康次が続ける。

「恒太さんのこともありますし」

 居間が少し静かになる。

 恒太。

 そして康造。

 どちらも誰も口にはしない。

 それでもこの村から消えたわけではない。

「梓?」

 康次が心配そうに声を掛ける。

「大丈夫?」

「うん」

 梓は笑った。

「何でもない」

 だがその笑顔は少しだけ弱かった。

 夜。

 客間へ戻った綾乃は窓を開けた。

 冷たい風が入ってくる。

 遠くに十峰山が見えた。

 闇の中で黒い影のように聳えている。

 梓は怯えている。

 誰かに責められているわけではない。

 悪意を向けられているわけでもない。

 だが常に周囲を気にしている。

 人との距離を測っている。

 まるで。

 何かを恐れるように。

「気のせいなら良いのですが」

 綾乃は小さく呟く。

 そして春雅の言葉を思い出した。

 人の感情はそう簡単には終わらん。

 なるほど。

 その通りなのかもしれない。

 道玄の錫杖を探しに来たはずだった。

 だが自分が向き合わなければならないものは、別にもある気がしていた。

 冬の風が軒を鳴らす。

 十峰山は黙したままだった。

 まるで二百年前の秘密を、今も抱え続けているかのように。




第四章 残された者



 翌朝。

 綾乃は峰雲院の客間で目を覚ました。

 障子越しに差し込む光は弱い。

 空は曇っているらしかった。

 冬の山は朝が遅い。

 静かな境内を眺めながら身支度を整える。

 やがて廊下から足音が聞こえた。

「失礼します」

 梓だった。

 朝食の支度ができたらしい。

「おはようございます」

「おはようございます」

 互いに挨拶を交わす。

 まだどこかよそよそしい。

 昨日が初対面なのだから当然だった。

 朝食を終えた後。

 綾乃は境内を案内してもらうことになった。

 梓は本堂や庫裏を説明しながら歩く。

 その口調は穏やかで分かりやすかった。

 人に何かを教えることに慣れているのだろう。

「こちらが文庫です」

「秋津兄様が喜びそうですね」

「ええ」

 梓は少し笑った。

「兄様がいらした時も大変でした」

「想像できます」

 二人は顔を見合わせた。

 初めて自然な笑いが生まれる。

 境内の端へ出る。

 そこからは十峰村が一望できた。

 煙突から上がる煙。

 畑で働く人々。

 静かな冬の村だった。

「綺麗な場所ですね」

 綾乃が言う。

 梓は頷いた。

「好きなんです」

 少し間を置く。

「この村が」

 その声には嘘がなかった。

 しばらく景色を眺めていると、下の道を歩いていた老人が二人に気付いた。

「おお、梓さん」

 手を振る。

 梓も会釈を返した。

「こんにちは」

「元気そうで良かった」

「ありがとうございます」

 老人は笑顔のまま去っていった。

 綾乃は何気なく尋ねた。

「慕われているんですね」

 しかし梓は曖昧に笑っただけだった。

「そんなことありません」

「そうでしょうか」

「……ただ」

 言葉が続かない。

 やがて首を横に振った。

「何でもありません」

 二人は山門の方へ歩き始める。

 道の途中で梓がふと立ち止まった。

 商店の前で何人かの村人が話している。

 楽しそうな笑い声が聞こえる。

 その中の一人がこちらを見た。

 そして会釈した。

 それだけだった。

 だが梓は視線を逸らした。

「梓さん?」

「いえ」

 すぐに歩き出す。

 しかしどこか落ち着かない様子だった。

 昼前。

 二人は神社へ向かった。

 途中の坂道で綾乃が尋ねる。

「村の皆さんは優しい方ばかりですね」

 梓は少し考えた。

「そうですね」

「優しいです」

「でも」

 言葉が止まる。

「でも?」

「……たまに分からなくなるんです」

 声が小さい。

 独り言のようだった。

「何がですか」

 綾乃が聞く。

 梓はしばらく黙っていた。

 やがて静かに答える。

「本当にそう思ってくださっているのかなって」

 冬の風が吹いた。

「皆さん、私に優しくしてくださいます」

「ええ」

「心配もしてくださる」

「ええ」

「でも」

 梓は俯く。

「事件のことを忘れた訳じゃありません」

 綾乃は黙って聞いていた。

「当たり前ですよね」

 梓は弱く笑った。

「忘れられるはずがありません」

「康造さんのことも」

「恒太さんのことも」

 その名前が出た瞬間だった。

 梓の肩が僅かに強張る。

 綾乃はそれを見逃さなかった。

「皆さん何も言いません」

 梓は続けた。

「責められたこともありません」

「ですが」

 一度言葉を切る。

「ふと考えてしまうんです」

 風が吹く。

「本当はどう思われているんだろうって」

 綾乃は歩みを止めた。

 梓も足を止める。

「それは」

 綾乃は慎重に言った。

「誰かに言われたのですか」

「いいえ」

 即答だった。

「誰にも」

「でしたら」

「分かっています」

 梓は小さく笑う。

「分かっているんです」

 そして少しだけ寂しそうに言った。

「私の考え過ぎだって」

 綾乃はその横顔を見つめた。

 初めて会った時から感じていた違和感。

 正体が少し見えた気がした。

 梓は誰かを恐れている訳ではない。

 村人を憎んでもいない。

 ただ。

 自分がどう見られているのかを恐れている。

 そして気付かないうちに、人との間へ壁を作っている。

 綾乃は十峰山を見る。

 冬空の下で山は黙したままだった。

 春雅は言っていた。

 人の感情はそう簡単には終わらん。

 なるほど、と綾乃は思う。

 康造の事件は終わった。

 だが残された者は終われていない。

 梓もその一人なのだろう。

 綾乃は歩き出した。

「神社へ行きましょう」

「はい」

 梓も頷く。

 二人は再び坂道を上る。

 その背後で冬の風が木々を鳴らしていた。

 まるで何かが二人を見守っているかのように。



第五章 十峰神社



 綾乃は梓と共に十峰神社への石段を上っていた。

 冬の空は高く澄み渡っている。

 木々の葉はほとんど落ち、境内はどこか寂しげだった。

「美鈴さんとは親しいんですか」

 綾乃が尋ねる。

 梓は少し考えてから答えた。

「小さい頃からです」

「同い年なんですよ」

「そうでしたか」

「昔はよく一緒に遊んでいました」

 そう言った後、梓は少しだけ視線を伏せた。

「最近はお互い忙しくて、あまり話せていませんけど」

 綾乃はそれ以上は聞かなかった。

 石段を登りきると社殿が見えた。

 掃き清められた境内は静かで、美しく整えられている。

「失礼します」

 梓が声を掛けた。

 すると社務所から一人の女性が姿を現す。

「梓ちゃん?」

 綾乃は思わず見つめた。

 神倉美鈴だった。

 秋津と恒一から話は聞いている。

 だが実際に会うのは初めてだった。

「こんにちは」

「こんにちは」

 美鈴は綾乃へ目を向ける。

「こちらは?」

「物集院綾乃さん」

「ああ」

 すぐに納得したらしい。

「秋津先生の妹さんですね」

「兄がお世話になりました」

 綾乃が頭を下げる。

「こちらこそ」

 美鈴も丁寧に頭を下げた。

 やがて社務所へ案内される。

 しばらくすると丈一郎も現れた。

 以前より少し痩せて見えた。

 だが背筋は真っ直ぐ伸びている。

「物集院の方ですな」

「綾乃と申します」

「神倉丈一郎です」

 互いに挨拶を交わす。

「秋津先生から連絡は受けております」

 丈一郎が言った。

「道玄の件ですな」

「はい」

 綾乃は頷く。

「兄が見つけた記録を追っています」

 丈一郎はしばらく黙っていた。

 やがて静かに言う。

「恒太なら喜んだでしょうな」

 部屋の空気が少しだけ変わった。

 美鈴も梓も何も言わない。

 ただ静かにその名を受け止めている。

「資料をご覧になりますか」

 美鈴が言った。

「恒太さんのです」

 綾乃は頷いた。

「ぜひ」

 社務所の奥へ案内される。

 小さな書庫だった。

 棚には整理された資料が並べられている。

「恒太さんが集めたものです」

 美鈴が説明する。

「事件の前からずっと調べていました」

 綾乃は書架を眺めた。

 村史。

 古記録。

 神社の由緒。

 山の伝承。

 確かに神倉恒太らしい収集だった。

「これは」

 綾乃は一冊の帳面を手に取った。

 表紙には、

十峰山関係資料抜書

と記されている。

「恒太さんの筆跡です」

 美鈴が答える。

 綾乃は頁をめくった。

 そこには入峰録から抜き出された記述や考察が並んでいる。

 その中で一つの文章が目に留まった。



天狗ノ峯ト称スル場所アリ。

山中ニ小祠アリト伝フ。

今ハ立チ入ル者少ナシ。



 綾乃の目が細くなる。

「天狗ノ峯」

 小さく呟いた。

「ご存じですか」

 美鈴が尋ねる。

「名前だけは」

 すると丈一郎が頷いた。

「古い伝承です」

 部屋の奥から声が聞こえた。

「昔から大天狗の棲み処とされております」

 綾乃は丈一郎を見る。

「どのような伝承ですか」

 宮司はゆっくり話し始めた。

「夜になると法螺貝が聞こえる」

「修験者の影を見た」

「赤い目の天狗が現れる」

「他にも様々あります」

「蓮真ですか」

「そう言う者もおります」

 丈一郎は続けた。

「ですが古い文書を読む限り、本来は蓮真とは別の話だったようです」

「別?」

「ええ」

 丈一郎は棚から一冊の古文書を取り出した。

「こちらです」

 かなり傷んでいたが文字は読める。

 綾乃は頁をめくった。



天狗ノ峯近辺ニ近付クベカラズ

心乱レシ者ハ帰ラズ



 その一文で指が止まる。

「心乱れし者は帰らず」

 綾乃が読み上げた。

「昔からそう言われております」

 丈一郎は静かに答えた。

「そして道玄が消えた後」

「その話は大天狗伝承と結び付いた」

 綾乃の胸の中で何かが繋がる。

 道玄。

 疑心暗鬼。

 行方不明の錫杖。

 そして天狗ノ峯。

 偶然とは思えなかった。

「天狗ノ峯は今も存在しますか」

 丈一郎は頷く。

「ええ」

「十峰山の奥です」

「行く人は」

「ほとんどいません」

 丈一郎はそこで言葉を切った。

「ですが御影重蔵殿なら、もっと詳しくご存じでしょう」

 綾乃は顔を上げる。

「御影家ですか」

「二百年前の記録も伝承も、あの家が一番多く残しています」

 隣では梓が静かに聞いていた。

 その表情はどこか強張って見えた。

 綾乃は気になったが、今は何も言わない。

 まずは御影家。

 その次が天狗ノ峯。

 道玄の錫杖へ続く道筋が、少しずつ見え始めていた。

 冬の陽光が障子越しに差し込む。

 書庫の片隅では、神倉恒太が残した資料が静かに眠っていた。

 まるで、その先にある真実へ導こうとするかのように。



第六章 御影家



 海神神社を後にしたその足で。

 綾乃は梓の案内で御影家へ向かっていた。

 冬枯れの山道は静かだった。

 落葉を踏む音だけが響く。

 梓も口数が少ない。

 それでも以前よりは自然に話せるようになっていた。

「御影家はどんな方なんですか」

 綾乃が尋ねる。

「十峰村で一番古い家です」

 梓が答えた。

「重蔵さんも色々なことをご存じです」

「蓮真の錫杖も」

「はい」

 梓は頷く。

「御影家にあります」

 やがて大きな門が見えてきた。

 古い石垣。

 広い庭。

 冬の木々に囲まれた屋敷。

 十峰村そのものが形になったような家だった。

 門をくぐると使用人が現れ、すぐに二人を座敷へ通した。

 ほどなくして重蔵が現れる。

「お待ちしておりました」

 老人は静かに頭を下げた。

「物集院綾乃です」

「お噂は伺っております」

 重蔵は腰を下ろした。

「秋津先生の妹御ですな」

「兄がお世話になりました」

「こちらこそ」

 老人は微かに笑った。

「先生には色々と掘り返されましてな」

 しばらく世間話をした後。

 綾乃は本題へ入った。

「今日は蓮真の錫杖と、道玄についてお伺いしたく参りました」

 重蔵の表情が少し変わる。

 老人は黙って頷いた。

「やはりそこへ辿り着きますか」

 やがて重蔵は立ち上がった。

「お見せしましょう」

 三人は蔵へ向かった。

 重い扉が開く。

 中には古文書や木箱が整然と並んでいた。

 その奥。

 長い木箱が一つ置かれている。

 重蔵は慎重に蓋を開けた。

 中に納められていたのは一本の錫杖だった。

 長い年月を経た木柄。

 黒く変色した金具。

 錆びた環。

 だが不思議な存在感があった。

「蓮真の錫杖です」

 綾乃は静かに見つめる。

 目を閉じる。

 微かな気配。

 悲しみ。

 寂しさ。

 しかし怨みではない。

「穏やかですね」

 綾乃が呟いた。

 重蔵が眉を上げる。

「何か分かるのですかな」

「少しだけ」

 綾乃は答えた。

「長い時間を経ていますから」

 木箱が閉じられる。

 重蔵は二人を座敷へ戻した。

「さて」

 老人が言う。

「本当のお話はここからでしょうな」

 綾乃は頷いた。

「道玄について教えてください」

 重蔵はしばらく黙っていた。

 やがて窓の向こうの十峰山へ目を向ける。

「道玄は勝者でした」

 静かな声だった。

「蓮真を失脚させ」

「導師の座を得た」

「文書にはそうあります」

「ですが」

 綾乃が続ける。

「幸せではなかった」

 老人が小さく笑った。

「さすがは物集院の方ですな」

 そしてゆっくり頷く。

「道玄は晩年、人を信じられなくなったそうです」

 部屋が静まり返る。

「弟子を疑い」

「同行の修験者を疑い」

「村人を疑い」

「最後には自分の影まで疑うようになった」

 梓が思わず顔を上げる。

「なぜでしょう」

 綾乃が尋ねた。

「分かりません」

 重蔵は首を振った。

「ですが蓮真を失ってから変わったのだと言われております」

 冬風が障子を揺らす。

「そしてある年の晩秋」

 老人は続ける。

「道玄は突然姿を消した」

「御山ですか」

「そうです」

 重蔵は頷いた。

「錫杖だけを持って山へ入った」

「その後は」

「戻りませんでした」

 綾乃は春雅から見せられた記録を思い出す。



晩秋、錫杖ト共ニ御山ヘ入ル。

爾後帰ラズ。



 確かに一致する。

「何か残されてはいませんか」

 重蔵はしばらく考えた。

「一つだけ」

 老人の表情が少し曇る。

「古い言い伝えがあります」

「言い伝え?」

「天狗ノ峯です」

 梓が息を呑んだ。

「天狗ノ峯……」

 重蔵が頷く。

「御山の奥です」

「今では誰も近付きません」

「なぜです」

「大天狗が住むと言われているからです」

 綾乃は黙って聞いていた。

「道玄が消える前」

 老人は続ける。

「頻繁に天狗ノ峯へ通っていたという話が残っています」

「錫杖を持って」

「ええ」

 部屋に静寂が落ちる。

 綾乃の中で何かが繋がった。



 道玄。

 大天狗。

 行方不明の錫杖。


 そして天狗ノ峯。

 探すべき場所は一つしかない。

「そこに祠がありますか」

 重蔵がゆっくり頷く。

「小さな石祠が一つ」

「今も?」

「恐らくは」

 老人の目が細くなる。

「ですが気を付けなされ」

「何にですか」

「怪異にではありません」

 重蔵は静かに言った。

「人です」

 綾乃が目を向ける。

「道玄が残したものは呪いではない」

「では何です」

 老人は十峰山を見た。

「疑いです」

 梓の肩が僅かに震える。

 だが誰もそのことには触れなかった。

「人は一度疑い始めると止まれません」

「大天狗とはそういうものです」

 綾乃は無言で頷く。

 窓の外では冬の風が山を渡っていた。

 その向こう。

 誰も近付かない天狗ノ峯のどこかに、二百年前へ続く最後の痕跡が眠っている。

 道玄の錫杖。

 そして大天狗の思想。

 探すべきものは、ようやく姿を現し始めていたのである。



第七章 道玄の影



 御影家からの帰り道だった。

 冬の山道には誰の姿もない。

 落葉を踏む音だけが静かに続いている。

 綾乃と梓は並んで歩いていた。

 しかし会話は少なかった。

 重蔵から聞いた話が頭を離れないのである。

 道玄。

 導師となった男。

 蓮真を失脚させた男。

 そして誰も信じられなくなった男。

 綾乃は隣を歩く梓を見た。

 梓は俯いたまま何も言わない。

 視線は足元へ落ちている。

 御影家を出てからずっとそんな調子だった。

「疲れましたか」

 綾乃が声を掛ける。

 梓は小さく首を振った。

「いえ」

「そうですか」

 それ以上は続かなかった。

 峰雲院へ戻ったのは夕方だった。

 薄暗い空の下、境内には冬の風が吹いている。

 康次が本堂の掃除をしていた。

「あ、お帰りなさい」

「ただいま戻りました」

 綾乃が答える。

 康次は梓へも目を向けた。

「梓、大丈夫か」

「何が?」

「顔色悪いぞ」

 梓は少し笑った。

「平気よ」

 だが康次は納得していない様子だった。

 その夜。

 夕食を終えた後のことである。

 綾乃は廊下で偶然、梓と顔を合わせた。

 梓は一人だった。

 庭を見ている。

 どこか遠くを眺めるような表情だった。

「眠れませんか」

 綾乃が尋ねた。

 梓は少し驚いたように振り返る。

「あ……綾乃さん」

「何を見ていたんですか」

「別に」

 そう答えてから、小さく笑った。

「何も見ていません」

 その様子に綾乃は眉をひそめる。

 昨日よりも雰囲気が違う。

 何かを抱え込んでいるように見えた。

「重蔵さんの話ですか」

 綾乃が言う。

 梓の肩が僅かに揺れた。

「道玄です」

 沈黙。

「少し考えてしまって」

 梓はそう言った。

「何をですか」

「どうしてあんな人になったんだろうって」

 綾乃は黙って聞いていた。

「蓮真さんを追い落として」

「導師になって」

「それでも幸せになれなかった」

「そうですね」

「最後には誰も信じられなくなった」

 梓は自嘲するように笑った。

「馬鹿みたいですよね」

 そう言いながらも、その表情には笑みがない。

「ですが」

 梓は庭へ目を向けた。

「少しだけ分かる気もするんです」

 綾乃は何も言わなかった。

 風が吹く。

 枯葉が音を立てた。

「皆、本当は康造さんのことを忘れていません」

 静かな声だった。

「梓さん」

「分かっています」

 梓は続ける。

「皆さん優しいんです」

「康次も」

「父も」

「美鈴も」

「誰も何も言いません」

 そこで言葉が途切れる。

「ですが」

 梓は拳を握った。

「私達一家を見ているんです」

 その声には怯えが滲んでいた。

「本当にそうでしょうか」

 綾乃は静かに尋ねる。

 梓は答えなかった。

「誰かに言われたのですか」

「違います」

「責められたのですか」

「違います」

「では」

 綾乃はゆっくり言った。

「そう思いたいだけかもしれません」

 梓が顔を上げる。

「どういう意味ですか」

「人は恐れている時ほど」

「周囲も同じように考えていると思い込むことがあります」

 綾乃の声は穏やかだった。

「康造さんのことを忘れていないのは」

「村ではなく」

「梓さん自身かもしれません」

 沈黙が落ちる。

 梓は何も言わなかった。

 だが視線だけが揺れている。

「私は」

 ようやく声が漏れた。

「忘れられるわけありません」

「そうでしょうね」

「親族なんです」

「はい」

「皆さんが忘れても」

「私は忘れません」

 綾乃は静かに頷いた。

「それは悪いことではありません」

 梓は俯く。

「でも」

「もし」

 その声は弱かった。

「もし皆が私のことを見ていたら」

「康造と同じ血だと思っていたら」

 綾乃は道玄の話を思い出していた。

 人を疑った男。

 疑い続けた男。

 そして最後には孤独になった男。

 どこか似ている。

 まだ僅かだ。

 だが確かに似ている。

「梓さん」

「はい」

「道玄は」

 綾乃は静かに言った。

「裏切られる前に人を疑いました」

「え……」

「だから最後には誰もいなくなったのです」

 梓は黙り込む。

 庭には冬の闇が広がっていた。

 綾乃は確信し始めていた。

 道玄の錫杖はまだ見つかっていない。

 しかし。

 大天狗の思想は既にここにある。

 誰も信じないこと。

 誰もが自分を見ていると思い込むこと。

 孤独を選び取ってしまうこと。

 その影が少しずつ梓へ近付いている。

 冬の風が吹く。

 十峰山の闇は深く、静かだった。

 まるで二百年前の亡霊が、今もそこで息を潜めているかのように。




第八章 大天狗の思想




 その頃からだった。

 梓の様子が目に見えて変わり始めたのは。

 朝。

 綾乃が客間を出ると、境内で康次が梓に声を掛けていた。

「梓」

 康次は心配そうな顔をしている。

「最近あまり寝てないだろ」

「そんなことないわ」

「顔色悪いぞ」

「平気」

 梓は短く答えた。

 会話はそこで終わる。

 康次は納得していない様子だった。

 だがそれ以上は何も言わなかった。

 その場を離れながら梓が呟く。

「大げさなんです」

「康次さんがですか」

「ええ」

 少し笑う。

 しかしその笑顔は固かった。

「心配しているだけでは?」

 綾乃が言う。

 梓はしばらく黙った。

 そして小さく呟いた。

「そうでしょうか」

 綾乃は返事をしなかった。

 だが胸の奥に小さな違和感が残る。

 昼過ぎ。

 二人は神社を訪れていた。

 境内では美鈴が落葉を集めている。

「あら」

 美鈴は二人を見ると微笑んだ。

「来てくれたの」

「お邪魔しています」

 綾乃が頭を下げる。

 しばらく三人で話をした。

 神社のこと。

 村のこと。

 冬祭りの準備のこと。

 穏やかな時間だった。

 その途中。

 美鈴がふと梓へ言った。

「無理しないでね」

 何気ない言葉だった。

「最近ちょっと疲れているみたいだから」

 梓は笑う。

「そんなことないわ」

「本当に?」

「本当に」

 だが美鈴の表情は変わらなかった。

 昔からの友人として心配しているのだろう。

 しかし。

 神社を出てしばらくすると、梓は突然足を止めた。

「やっぱり」

「どうしました」

 梓は苦笑した。

「皆そうなんです」

「皆?」

「康次さんも」

「美鈴も」

 冬の風が吹く。

「気を遣っているんです」

「それは当然でしょう」

 綾乃は答えた。

「事件があったばかりなのですから」

 しかし梓は首を振った。

「違うんです」

 その声は弱かった。

「最初はそう思っていました」

 気を遣ってくれている。

「でも」

 梓は視線を落とした。

「最近は違う気がするんです」

「どう違うのですか」

 返事はすぐには返ってこなかった。

「哀れまれているんです」

 綾乃は黙る。

「可哀想だから優しくしている」

「可哀想だから心配している」

 梓の表情は少しずつ曇っていく。

「そう考えてしまうんです」

「美鈴さんも」

「康次さんも」

「村の人達も」


 綾乃は何も言わず聞いていた。

 それから数日後。

 梓はさらに村人との距離を取るようになった。

 声を掛けられてもすぐに離れる。

 会話を続けようとしない。

 笑顔も減った。


 商店の前を通りかかった時だった。

 村人達が何か話している。

 その中の一人が梓へ気付いた。

「ああ、梓さん」

 ただそれだけ。

 だが梓の顔色が変わる。


 その夜。

 綾乃は庭先で一人座る梓を見つけた。

「寒いですよ」

 隣へ座る。

 梓はぼんやりと庭を見ていた。

「綾乃さん」

「何でしょう」

「私」

 少し笑う。

「おかしいんでしょうか」

「何がです」

 長い沈黙。

 やがて梓は言った。

「最近」

「皆が私を見ている気がするんです」

 綾乃は静かに目を閉じた。

「責めているように?」

 梓は頷く。

「ええ」

「康造の親族だから」

「峰岸の人間だから」

 声が震えていた。

「本当は皆そう思っているんじゃないかって」

 綾乃は十峰山の闇を見る。

 そこには何もいない。

 少なくとも今は。

 道玄の錫杖もまだ見つかっていない。

 梓はそれに触れてすらいない。

 なのに。

 道玄と同じ場所へ近付いている。

 綾乃はようやく理解した。

 道玄の錫杖が人を狂わせるのではない。

 道玄の思想に共鳴する心があるのだ。

 孤独。

 不安。

 そして誰にも理解されないという思い。

 それらが積み重なった時、

人は自ら大天狗の思想を呼び寄せてしまう。

 気を遣われている。

 いつしかそれは、

 哀れまれている。

 へ変わる。

 そして最後には、

 本当は責められている。

 になる。

 それは事実ではない。

 だが本人にとっては真実になってしまう。

 まるで道玄がそうだったように。

 綾乃は静かに立ち上がった。

 道玄の錫杖を回収する。

 その目的は変わらない。

 だが今、自分が本当に向き合うべきものは別だった。

 目の前の少女である。

 冬の夜風が吹く。

 十峰山は闇の向こうで静かに聳えていた。

 その姿はまるで、大天狗の影そのもののようだった。



第九章 天狗ノ峯



 天狗ノ峯へ向かったのは、その翌朝だった。

 空は曇っていた。

 冬の山らしい鈍い灰色の空である。

 綾乃と梓は峰雲院を発ち、十峰山の奥へ続く山道を歩いていた。

「昔は修験者も通ったそうです」

 先を歩く梓が言う。

「今はほとんど誰も入りません」

 確かに人の気配はなかった。

 踏み固められた道も途中から消え始める。

 風だけが木々を揺らしていた。

 綾乃は周囲を見回す。

 山そのものは静かだった。

 だが何とも言えない重さがある。

 それは怪異の気配ではない。

 長い年月の積み重ねだった。

 二人は昼頃、蓮真庵跡へ辿り着いた。

 そこには石垣だけが残っていた。

 建物は既に失われている。

 だがかつて誰かが暮らしていたことは分かる。

 綾乃はしばらくその場所を見つめた。

「ここが」

「ええ」

 梓が頷く。

「蓮真が暮らしていた場所です」

 風が吹く。

 枯葉が石垣を転がった。

 綾乃は目を閉じる。

 微かだった。

 だが何かが残っている。

 怒りでも憎しみでもない。

 ひどく静かな感情だった。

「寂しいですね」

 思わずそう呟いていた。

 梓が少し驚いた顔をする。

「そう見えるんですか」

「ええ」

 綾乃は頷いた。

「ここには孤独だけが残っています」

 蓮真庵跡を後にし、さらに奥へ進む。

 道は次第に険しくなった。

 木々の密度が増す。

 空も見えなくなる。

 やがて梓が立ち止まった。

「あれです」

 指さした先。

 岩場の奥に小さな祠があった。

 半ば崩れかけている。

 人の手が入らなくなって長いのだろう。

 苔に覆われていた。

 綾乃はゆっくり近付く。

 胸の奥が重くなる。

 今まで感じたことのない気配だった。

「梓さん」

「はい」

「離れないでください」

 梓は黙って頷いた。

 祠の扉へ手を掛ける。

 固かった。

 だが力を込めると少しずつ開いていく。

 中は暗い。

 木箱が一つ置かれていた。

 綾乃は慎重に箱を取り出した。

 長い年月を経ている。

 しかし不思議と傷みは少ない。

 静かに蓋を開ける。

 中には一本の錫杖があった。

 二人とも言葉を失う。

 蓮真の錫杖によく似ている。

 だが雰囲気がまるで違った。

 黒ずんだ金属。

 歪んだ環。

 まるで長い年月を怯えながら過ごした人間そのものだった。

「これが」

 梓が呟く。

「道玄の錫杖です」

 綾乃は静かに答えた。

 箱の底にはさらに紙束が残っていた。

 手記だった。

 保存状態は良くない。

 それでも文字は読める。

 綾乃は慎重に頁を開いた。



我は導師となった

されど何も得られず

蓮真を失いし日より

誰をも信ずること能わず



 風が吹いた。

 祠の外で木々が鳴る。

綾乃は黙って読み続ける。



弟子は我が座を望む

行者は我を蔑む

人は皆裏切る

誰も信じてはならぬ


 頁の後半はほとんど判読できなかった。

 だが十分だった。

 真相は明らかだった。

 道玄は勝者ではなかった。

 蓮真を追い落とした。

 導師になった。

 望んだ地位も手に入れた。

 それでも心は満たされなかった。

 裏切りによって得たものを、

 今度は誰かに奪われるのではないか。

 その恐怖に取り憑かれた。

 だから誰も信じられなくなった。

 最後には山へ逃げ込み、

 この祠に自らを閉じ込めたのだ。

「馬鹿ですね」

 梓がぽつりと言った。

 綾乃は顔を上げる。

「全部手に入れたのに」

 梓の拳が震えていた。

「それでも幸せになれないなんて」

 その表情を見て、綾乃は胸がざわついた。

 梓は手記を見つめている。

 まるで自分自身を見るように。

「梓さん」

 梓は返事をしなかった。

 その視線は手記の一文へ注がれている。


誰をも信ずること能わず


 まるでその言葉に引き寄せられているようだった。

 綾乃は理解する。

 この祠で見つかったのは錫杖だけではない。

 道玄の残した思想だった。

 誰も信じるな。

 人は必ず裏切る。

 康造も同じだった。

 そして今。

 その影は梓へ手を伸ばしている。

 綾乃は錫杖を箱へ戻した。

「帰りましょう」

 梓はしばらく動かなかった。

 やがて小さく頷く。

「はい」

 だがその顔に浮かんでいたのは、綾乃がこれまで見たことのない沈んだ表情だった。

 冬の風が吹く。

 天狗ノ峯の祠は再び沈黙した。

 しかし道玄が残したものは、確かに二人の前へ現れていたのである。



第十章 道玄



 峰雲院へ戻った頃には、すっかり日が暮れていた。

 冬の夜は早い。

 食事を終えた後も、綾乃の頭から天狗ノ峯で見つけた手記は離れなかった。

 客間へ戻ると、机の上に手記を広げる。

 道玄の錫杖は既に封印布で包み、傍らへ置いてあった。

 薄い行灯の灯が紙面を照らす。

 綾乃は再びページを開いた。


我は導師となった

されど何も得られず

蓮真を失いし日より

誰をも信ずること能わず


 短い文章だった。

 だが、その後に続く断片的な記述は、道玄という人物の末路を十分に物語っていた。


弟子ら集えば我を謀る気配あり

行者ら囁けば我を嘲る声に聞こゆ

夜ごと山を巡るも心安まらず


 綾乃は静かに紙面から目を離した。

 障子の向こうでは風が鳴っている。

 冬の十峰山は暗かった。



「そういうことですか」

 小さく呟く。

 道玄は敗者ではなかった。

 蓮真を退けた。

 導師となった。

 望んだ地位も名誉も手に入れた。

 表面だけ見れば勝者である。

 しかし。

 本当に欲しかったものだけは手に入れられなかった。

 人からの信頼。

 安心。

 そして心の平穏。

 裏切りによって地位を得た人間は、今度は自分が裏切られることを恐れる。

 道玄はまさにそうだった。

 そしてその恐怖は年を追うごとに大きくなった。

 誰かが話しているだけで、自分の悪口を言われている気がする。

 誰かが近付いてくるだけで、自分を陥れようとしている気がする。

 誰も信じられない。

 誰も信用できない。

 だから道玄は山へ消えた。

 綾乃はふと康造の顔を思い出した。

 実際に会ったことはない。

 だが兄や春雅から話は聞いている。

 十峰村を支配しようとした男。

 大天狗を演じた男。

 そして最後には。

 誰も信じられなくなった男。

 驚くほど似ていた。

 道玄と康造。

 二百年の時間を隔てた二人の人間。

 それでも辿り着いた場所は同じだった。

 綾乃は目を閉じる。

 すると昔、秋津が言った言葉が思い出された。

「大天狗とは怪異ではありません」

 あの静かな声。

「人を信じることができなくなった人間です」

 綾乃は苦笑した。

「兄様らしいですね」

 怪異の正体。

 妖怪の本質。

 兄はいつも人間の中にそれを見付ける。

 鬼もそうだった。

 河童もそうだった。

 天狗もそうだった。

 怪異そのものが恐ろしいのではない。

 怪異を生み出す人間の感情が恐ろしいのだ。

 道玄の手記へ視線を戻す。

 最後のページには、ほとんど消えかかった文字が残されていた。


我は蓮真に勝ちたり

然れど心安まる日なし


 そこで文章は終わっていた。

 綾乃は静かに息を吐く。

 勝った。

 けれど救われなかった。

 それが道玄だった。

 その時だった。

 廊下から足音が聞こえた。

 綾乃は顔を上げる。

 障子の向こうに人影があった。

「梓さんですか」

 一瞬。

 沈黙があった。

「はい」

 小さな返事だった。

 綾乃は障子の向こうの気配を感じながら、手記を閉じる。

 梓もまた、今は道玄と同じ分岐点に立っている。

 人を信じるか。

 疑うか。

 その答えを見付けられなかった時。

 大天狗の思想は再び誰かの心に根を下ろすのだろう。

 冬の風が軒を鳴らした。

 机の上には道玄の錫杖がある。

 しかし綾乃は理解していた。

 今、本当に向き合うべきものは錫杖ではない。

 人の心である。

 そのことを、二百年前の道玄が誰より証明していた。



第十一章 祓い



 その夜だった。

 綾乃は峰雲院の裏手にある小さな庭へ出た。

 客間を訪ねてきた梓が、

「少しお話ししてもいいですか」

と言ったからだった。

 空には雲が広がり、月は見えない。

 冬の風が冷たかった。

 二人は縁側に腰を下ろした。

 しばらく誰も口を開かなかった。

 遠くで木々が揺れる音だけが聞こえる。

 やがて梓が呟いた。

「綾乃さん」

「はい」

「私、おかしいんでしょうか」

 綾乃は答えなかった。

 代わりに続きを待った。

 梓は俯いている。

 指先が小さく震えていた。

「分かっているんです」

 その声は弱かった。

「皆さん優しいんです」

「康次さんも」

「父も」

「美鈴も」

「誰も私を責めたりしません」

 そこで言葉が詰まる。

 そして次の瞬間。

 押さえ込んでいた感情が溢れ出した。

「私だって分かっています!」

 綾乃は黙って聞いた。

「分かっているんです!」

「でも皆が私を見ている気がするんです!」

 梓の声が震える。

「何も言われていないのに」

「本当は違うって分かっているのに」

 目に涙が浮かんでいた。

「いつか康造と同じだと言われる気がするんです」

 冬の空気が張り詰めた。

「峰岸の人間だから」

「同じ血が流れているから」

「きっと皆そう思っているんじゃないかって」

 もう止まらなかった。

「私だって嫌なんです」

「こんなこと考えたくないんです」

「でも気付いたらそう思ってしまうんです」

 梓は両手で顔を覆った。

「どうすればいいのか分からないんです……」

 泣き声だけが静かに響く。

 綾乃はしばらく何も言わなかった。

 やがて静かに口を開く。

「それは違います」

 梓が顔を上げた。

 綾乃は真っ直ぐ見つめる。

「あなたは康造ではありません」

 梓の瞳が揺れる。

「道玄でもありません」

 沈黙。

 冬の風が吹いた。

「ですが」

 綾乃は続ける。

「少しだけ似ています」

 梓が息を呑む。

「道玄は人を信じることができなくなりました」

「だから誰かに裏切られる前に疑った」

「誰かを失う前に距離を置いた」

「その結果、一人になったのです」

 綾乃の声は静かだった。

 責める響きはない。

「あなたも同じです」

「違っ……」

「違いません」

 綾乃は首を振った。

「あなたは裏切る前に疑っているだけです」

 梓の肩が震える。

「だから苦しいのです」

 その言葉で何かが崩れた。

 梓は俯いた。

 涙が落ちる。

「私……」

「怖かったんです」

 ようやく本音がこぼれた。

「皆が離れていくのが」

「康造のことを思い出して」

「皆が私を嫌いになるのが」

「怖かったんです」

 綾乃は黙って聞いていた。

「だから自分から距離を置いたんですね」

 梓は小さく頷く。

「はい」

 泣きながら笑った。

「馬鹿みたいですね」

「いえ」

 綾乃は静かに言う。

「人間らしいと思います」

 梓は何も言わなかった。

 しばらく冬の夜だけが流れる。

 そして綾乃が尋ねた。

「康次さんはどうですか」

 梓が顔を上げる。

「兄は……」

「いつも心配してくれています」

「隆玄さんは」

「父もです」

「美鈴さんは」

 梓は目を閉じた。

 神社での会話を思い出したのだろう。

「ずっと気に掛けてくれていました」

 綾乃は頷いた。

「皆、あなたを見ています」

 梓の表情が固まる。

 だが綾乃は言葉を続けた。

「責めるためではありません」

「あなたを心配しているからです」

 梓の目から再び涙が溢れた。

 今度は少し温かい涙だった。

「私は……」

 小さな声だった。

「私は一人ではなかったんですね」

「ええ」

 綾乃は頷く。

「ずっと前から」

 長い沈黙が続いた。

 やがて梓は涙を拭った。

 表情はまだ泣き腫らしている。

 けれどどこか軽くなっていた。

 大天狗の思想。

 それは怪異ではない。

 人を信じられなくなった心である。

 道玄はそれに呑まれた。

 康造もまたそうだった。

 しかし梓は違う。

 まだ戻ることができる。

 まだ人を信じることができる。

 綾乃はそう確信していた。

 冬の風が吹く。

 だが先日までとは違った。

 どこか穏やかな風だった。

 梓は十峰山を見上げる。

 暗い山は変わらずそこにある。

 それでも今は、少しだけ近く感じられた。

 こうして綾乃の祓いは終わった。

 怪異を祓ったのではない。

 梓の心に芽生えた、大天狗の思想を祓ったのである。



第十二章 二本の錫杖



 綾乃が御影家を訪れたのは、その翌日のことだった。

 冬の空は静かに晴れていた。

 十峰山の稜線が遠く青く見える。

 道玄の錫杖は布に包まれ、綾乃の手にあった。

 御影家の座敷では重蔵が待っていた。

「戻られましたな」

「はい」

 綾乃は静かに答えた。

「見つかりました」

 重蔵は何も言わず頷いた。

 その顔には驚きも喜びもない。

 ただ長い年月を待ち続けていた人間だけが持つ静かな感情があった。

 蔵へ入る。

 薄暗い空間には古い木と紙の匂いが漂っていた。

 重蔵は慣れた手付きで木箱を取り出す。

 蓮真の錫杖である。

 綾乃もまた包みを解いた。

 道玄の錫杖が姿を見せる。

 二百年間別々の場所にあった二本。

 今、同じ場所へ置かれた。

 誰もすぐには言葉を発しなかった。



 蓮真の錫杖。

 道玄の錫杖。



 裏切られた者。

 裏切った者。



 二百年前の因縁が、そのまま形になっているようだった。

 やがて重蔵が口を開く。

「ようやく揃ったか」

 老人の声は静かだった。

 綾乃は二本の錫杖を見つめながら頷く。

「ええ」

 そして小さく微笑んだ。

「これで終わりです」

 重蔵はしばらく黙っていた。

 やがて首を横に振る。

「いや」

 その言葉に綾乃は顔を上げた。

 重蔵は二本の錫杖を見つめている。

 まるで蓮真と道玄、その二人の人生を見ているようだった。

「ようやく終われるのだろう」

 綾乃は何も言わなかった。

 その意味が分かったからである。

 蓮真も。

 道玄も。

 もうこの世にはいない。

 だが残された人々は違う。

 二百年もの間、語り継がれてきた。

 裏切りも。

 疑いも。

 大天狗の伝承も。

 それらがようやく一つの場所へ帰ってきたのだ。

 蔵を出る。

 外は明るかった。

 冬の光が十峰山を照らしている。

 庭先には梓の姿があった。

 綾乃に気付くと小さく会釈する。

「終わったんですね」

「ええ」

 綾乃は頷いた。

 梓は山を見上げた。

 以前より穏やかな表情だった。

 あの怯えたような瞳はもうない。

「不思議ですね」

 梓が言う。

「何がですか」

「山は何も変わっていないのに」

 綾乃も十峰山を見る。

 二百年前。

 道玄はあの山へ消えた。

 誰も信じられなくなったまま。

 現代。

 康造もまた同じ場所へ辿り着いた。

 疑い。

 孤独。

 そして大天狗。

 だが梓は違う。

 人を信じることを選んだ。

 だから戻って来られた。

 綾乃は静かに息を吐く。

 大天狗の思想は断ち切られたのだ。

 少なくとも、この村では。

「綾乃さん」

 梓が呼ぶ。

「ありがとうございました」

 綾乃は少しだけ笑った。

「礼を言われるほどのことはしていません」

「いいえ」

 梓は首を振った。

「救われました」

 冬の風が吹く。

 だが冷たさはもう感じなかった。

 その日の午後。

 綾乃は十峰村を後にした。

 手には道玄の錫杖。

 背後には十峰山。

 振り返ると、梓と康次、隆玄の三人が見送っている。

 美鈴の姿も見えた。

 綾乃は小さく頭を下げる。

 物集院家の依頼は終わった。

 道玄の錫杖は回収された。

 そして、もう一つの目的も果たされた。

 人の心に巣食う大天狗。

 誰も信じられなくなる思想。

 その影を祓うことができたのである。

 汽車の汽笛が遠く響く。

 綾乃は歩き出した。

 冬空の下、十峰山は静かに聳えていた。

 だがその姿はもう恐ろしい怪異の山ではない。

 二百年の因縁を抱えながら、それでも人々を見守り続ける山だった。



終章 物集院邸



 東京へ戻ったのは年の瀬も近い頃だった。

 空気は冷たく、吐く息は白い。

 綾乃は物集院邸の門をくぐり、静かな庭を横切った。

 冬枯れの木々の向こうには母屋の明かりが見える。

 二週間ほどの旅だった。

 だが、もう随分長く十峰村にいたような気がした。

 書斎の障子を開ける。

 春雅は相変わらず机に向かっていた。

 大量の書類に埋もれながら、眼鏡越しに顔を上げる。

「戻ったか」

「はい」

 綾乃は静かに頷いた。

 手にしていた長包みを差し出す。

「回収しました」

 春雅は受け取り、丁寧に布を解いた。

 現れたのは一本の錫杖。

 道玄の錫杖である。

 しばらく二人とも黙っていた。

 春雅は錫杖を見つめている。

 その顔に安堵の色が浮かんだ。

「見つかったか」

「天狗ノ峯の祠にありました」

「そうか」

 春雅は静かに頷いた。

「怪異だったか」

 綾乃は少し考えた。

 そして答える。

「いいえ」

 短い返事だった。

「ただの遺品ではなかっただろう」

「それも違います」

 春雅が眉を上げる。

「道玄が遺したのは呪いではありませんでした」

 綾乃は言った。

「思想です」

 書斎が静まり返る。

「誰も信じるな」

「人はいずれ裏切る」

「その考え方です」

 春雅はゆっくり頷いた。

「なるほど」

「大天狗か」

「はい」

 綾乃は十峰村での出来事を思い出した。

 山。

 祠。

 道玄の手記。

 そして梓。

「危ういところでした」

 春雅が顔を上げる。

「何かあったのか」

 少し迷い。

 綾乃は微笑んだ。

「一人、救われた人がいます」

 春雅はそれ以上追及しなかった。

「それはよかった」

「ええ」

 綾乃も笑う。

 しばらく沈黙が続いた。

 やがて春雅が言う。

「秋津から葉書が届いている」

「兄様から?」

「ああ」

 机の端から一枚の葉書を取り上げる。

 綾乃は受け取った。

 見慣れた字が並んでいる。

天草にて面白い伝承を発見しました。

海辺の怪異です。

折口君は既に困った顔をしています。

私は非常に楽しみです。

 綾乃は思わず笑った。

「変わりませんね」

「全くだ」

 春雅も苦笑する。

 葉書を机へ戻す。

 窓の外には冬空が広がっていた。

 十峰村。

 蓮真。

 道玄。

 康造。

 梓。

 二百年を超えて続いた因縁は終わった。

 少なくとも今は。

 綾乃は立ち上がる。

「報告書は明日まとめます」

「頼む」

 障子へ手を掛ける。

 その時だった。

「綾乃」

 振り返る。

 春雅は道玄の錫杖を見つめたまま言った。

「御苦労だった」

 綾乃は一瞬目を丸くする。

 春雅がそういう言葉を口にするのは珍しい。

 やがて小さく笑った。

「ありがとうございます」

 書斎を出る。

 廊下の向こうには暖かな灯が続いていた。

 怪異は終わった。

 だが人の営みは続いていく。

 冬の夜。

 物集院邸の静けさの中で、綾乃はゆっくりと歩き出した


ここまで読んでいただいて、ありがとうございます。簡単でも感想をいただければうれしいです。これからもよろしくお願いします。

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